ノンテクニカルサマリー

貿易自由化実現のための補償措置は支持されるのか?―調査実験による実証分析―

執筆者 久野 新 (杏林大学)
研究プロジェクト FTAの経済的影響に関する研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

貿易投資プログラム (第三期:2011~2015年度)
「FTAの経済的影響に関する研究」プロジェクト

貿易の自由化に対して一部の有権者が抱く経済的・非経済的な懸念は、追加的な自由化の実現を政治的に困難にしている根幹的な理由の1つである。我が国においても、現在交渉中のTPPをめぐり、さまざまなステークホルダーから経済的・非経済的な懸念が表明され、日本の参加を阻止するための各種ネガティブキャンペーンが全国的に展開されてきた。

有権者の懸念のうち、とりわけ「経済的」な懸念に対応するための代表的手段としては、米国で1962年に導入された貿易調整支援(Trade Adjustment Assistance:TAA)プログラムがあげられる。同制度は、貿易自由化により職を失った労働者を対象として、一般的なセーフティネットよりも手厚い金銭的補償(失業手当の延長)や調整支援(職業訓練や転居費用の補助など)を提供するものであり、現在は欧州や韓国でも類似の制度が導入されている。先行研究においても、貿易自由化を実現する際には、「救済措置の提供」と「貿易の自由化」を政治的にコミットする順序が極めて重要であり、救済措置の提供に関するコミットメントが後回しになると貿易自由化の実現が政治的に困難になることが理論的に示されている(Fernandez and Rodrik 1991)。

このように、TAAの存在意義としては、貿易自由化に伴い負の所得分配効果に直面する人々を経済的に支援する「救済機能」に加えて、支援の結果として彼らの懸念が緩和することで貿易自由化が前進するという「政治的機能」が指摘されてきた。他方、TAAの実施にあたっては、追加的な行政コストを要することに加え、労働者を衰退産業に滞留させ、むしろ構造調整を遅らせてしまうリスクも指摘されている。さらに、既に一般的なセーフティネットが存在するなか、貿易自由化の被害者限定で追加的救済措置を提供することについては、必要性や公平性の観点からも疑問が提示されてきた。ただし、これらの批判に対しては、TAAが存在せずに貿易自由化が実現しないことの機会費用を考慮すれば、そうしたコストは十分に正当化されるとの再反論もなされている。

そこで本稿では、調査実験(survey experiment)のアプローチにより、如何なる有権者が、如何なる条件の下でTAA型の救済制度に対して支持を表明するのかを分析した。具体的には、日本の有権者2742名分のサーベイ・データを用いて、TAAの救済機能を意識させた回答者(対照群)と、救済機能に加えて政治的機能も意識させた回答者(処理群)との間で、TAAに対する支持や警戒心がどのように変化するのか、属性別に詳細に検証した。本稿の主要な結論は以下の4点である。

(1)記述統計の結果に着目すると、対照群、処理群、いずれの場合も回答者の6割以上が貿易自由化に起因する失業者に対して金銭補償型または職業訓練型の救済措置を提供することにつき支持を表明した(図1)。今後TAAに相当する制度を日本で導入する場合、幅広い有権者から支持を得られる可能性を示唆している。

図1:有権者のTAAに対する態度(記述統計より)
図1:有権者のTAAに対する態度(記述統計より)

(2)つぎに実証分析の結果に着目すると、救済機能を意識させた対照群の場合、自分は貿易自由化から損害を被ると懸念する「自称敗者」ほど金銭補償型のTAAを支持する傾向がみられた。同集団こそTAAの救済機能の潜在的受益者であることを踏まえると、TAAを提供することで彼らの懸念が一部緩和される可能性が間接的に示された。他方、TAAは貿易自由化に反対する人々の全ての懸念に対応可能な万能薬ではなく、あくまでも「経済的な懸念」を一部緩和する手段としてのみ有効である可能性も示唆された。

(3)TAAの政治的機能を意識させた処理群の場合、貿易自由化の「自称勝者」を含め、自称敗者「以外」の人々によるTAAの支持確率が追加的に上昇する効果がみられた。他方、自称敗者については、政治的機能を意識させると(対照群の自称敗者との比較で)TAAに対して若干の「拒絶反応」を示した。この拒絶反応を最小化するためには、Fernandez and Rodrik(1991)が指摘するとおり、自称敗者が抱く「貿易自由化に伴う損失の期待値」が拡大し過ぎないよう補償の額を調整しつつ、政府が補償内容について貿易自由化以前にコミットしておくことが有益であろう。

(4)TAAをめぐる選好の決定要因は救済の「手段」にも依存していることが示された。金銭補償をともなわない、職業訓練の提供に限定したTAAについては、救済機能の潜在的な受益者であるはずの自称敗者の支持確率が低く、もはや政治的機能を意識させた処理群固有の影響も確認されなくなった。

TAAは貿易自由化をめぐる懸念の一部を緩和しつつ自由化を推進するための「win-winな手段」として大きな可能性を秘めている。とりわけ本稿では、政治的機能を意識させると、貿易自由化の「自称勝者」によるTAAへの支持が追加的に高まることが初めて示された。ただし、このような政治的機能に対する追加的な支持は、「TAAの提供により貿易自由化が実現するならば」、という条件付きの支持である。裏を返せば、補償メカニズムの導入後も自由化が不十分である場合、政治的機能に期待した有権者によるTAAの支持は次第に失われる可能性がある。TAAの政治的機能に対する有権者の支持を長期的に維持するためには、相応の追加的自由化努力を継続的に行う必要があろう。

(注)本稿で用いたサーベイ・データは、2012年3月に(株)日経リサーチのモニター会員に対してインターネット上で実施した「グローバリゼーションに関する意識調査」から採取したクロスセクション・データである。