ノンテクニカルサマリー

アジアにおける政策ツールとしての均衡為替相場の評価

執筆者 増島 雄樹 (日本経済研究センター)
研究プロジェクト 通貨バスケットに関する研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

国際マクロプログラム (第三期:2011~2015年度)
「通貨バスケットに関する研究」プロジェクト

貿易や国際投資を考える上で、為替相場の水準および安定性は企業活動にとって重要な問題だ。均衡為替相場からの著しい乖離、特に、自国通貨の過大評価は、輸出を軸に経済発展をしてきた日本や他のアジア諸国にとって、国内生産の低迷や経常収支の悪化を通じて、マクロ経済の不安定化をもたらしかねない。本稿は、交易条件や実質金利差、海外純資産、政府の債務残高など、ファンダメンタルズ(経済の基礎的要因)に基づく均衡為替相場であるBEERを、アジア9カ国通貨(日本、中国、韓国、香港、シンガポール、タイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン)について推計した。そして、米国の有力シンクタンク、ピーターソン国際経済研究所の研究員により推計される均衡為替相場であるFEERと比較し、それぞれのアプローチによって、自国通貨の評価がどう変わるか、政策的な意義を考察した。

BEERアプローチは、長期的に一物一価の法則により自国と他国の物価が等しくなるように為替相場が決定することは否定しないものの、短期的・中期的には上記のファンダメンタルズの変化によって、均衡為替相場が変動する。従って、一時的には均衡相場からの乖離があっても、その変動に対応して現実の為替相場も変化することを想定している。

一方、FEERアプローチは、マクロ経済バランスという政策目標からみて、望ましい為替相場の水準である。IMFが加盟国の経済状況の分析と経済分析(Surveillance)を行う際に用いられていた手法のうち、マクロ経済バランスアプローチと対外持続性アプローチがこれにあたる。マクロ経済バランスとは、完全雇用や低水準で安定的なインフレ率を維持しつつ、経常収支が適正な水準にあることなどを意味する。従って、現実の為替相場がFEERの示す相場水準に収束していくということは、必ずしも想定されていない。

下記のグラフは、両手法による均衡為替相場と為替相場の実績を示したものだ。実線は為替相場の実績、破線は均衡為替相場の推計値であり、値が大きいほど自国通貨高となる。棒グラフは、自国通貨が過大評価であればプラス、過小評価であればマイナスとなる。たとえば、実際の為替相場が均衡為替相場と比較してより通貨高であれば、つまり、実線が破線より上にあれば、自国通貨は過大評価されていることとなる。

図:本稿のBEERと米シンクタンクによるFEERの均衡為替相場と評価の推移
図:本稿のBEERと米シンクタンクによるFEERの均衡為替相場と評価の推移
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日本の例でいえば、本稿で推計したBEERによると、2008年9月のリーマン・ショック後に急激な円高となった際に、3割程度の過大な円高と評価される。こうした均衡為替相場からの乖離はファンダメンタルズから説明できない要因によって、為替相場が変動していることを示し、政策介入の余地がある。

一方、米ピーターソン国際経済研究所が公表するFEERでは、リーマン・ショック後にわずかに過大な円高と評されるものの、当局が為替政策によって介入するほどの乖離には見えない。また、自国通貨の複数の貿易相手国との総合的な通貨価値によって決まる実効為替相場ではなく、対ドルレートで見ると過大な円安であり、むしろ対米ドルでの円安是正のための為替政策が必要だと判断されかねない。

また、マレーシア・リンギを例にすれば、BEERによる評価では均衡為替相場からの大幅な乖離は見られないが、FEERによる評価では、実効為替相場でも対米ドルの相場でも大幅な過小評価となっており、リンギ安の是正が視野に入る。FEERは理想的な経済状況において経常収支や資本収支をバランスさせるための為替相場であり、貿易黒字・経常黒字国の通貨は、通貨高の余地があると判断されやすいためだ。

これらの点からわかることは、FEERは規範的なアプローチであるため「適正な」経常収支の水準や経済状況の設定次第で均衡為替相場を裁量的に決められることだ。BEERは、為替相場の説明要因である各国のファンダメンタルズについて何を採用するのかという点を考慮する必要があるが、裁量的な余地は相対的に少ない。現在、IMFはFEERアプローチについて、BEERのようなファンダメンタルズや政策変数に基づくアプローチとは別の規範的な評価手法として明確に区別する方向に舵を切っている。

為替政策の協調、二カ国間協議やアジア地域と他の地域の貿易協定の交渉の際に、BEERによって算出された為替レートを用いることで、日本の例でいえば、2011年から12年にかけての1ドル=80円割れといった過度な円高の際には円高是正、1998年の1ドル=140円台の行き過ぎた円安の際には円安是正のための理論的根拠として活用することが可能となる。国際資金フローや為替政策において、アジアの問題に関しては米欧中心的な政策よりも、アジアを中心に据えた機動的な対応の方が望ましい場合もある。同様の議論は2015年のAEC統合後のASEANの為替政策にも適用できよう。

現在、米英を除く各国の中央銀行は金融緩和を行い輸出振興のための通貨安戦争の様相を呈している。もちろん、基本的に各国の通貨当局は特定の為替相場水準を意図して為替政策を行う訳ではなく、為替の急激な変動を抑えるために行っているが、政策判断の参考となる水準は必要だろう。アジア諸国は、経常収支黒字の国が多く、均衡為替相場の算出手法でFEERを用いるとBEERより、均衡相場がより自国通貨高へ評価されやすい。従って、より適切な貿易交渉・為替政策を実行するためには、アジアの経済的状況を考慮した複数の手法による均衡相場を定期的に公表し、政策判断をすることが望まれる。