ノンテクニカルサマリー

アベノミクスと円安、貿易赤字、日本の輸出競争力

執筆者 清水 順子 (学習院大学)
佐藤 清隆 (横浜国立大学)
研究プロジェクト 為替レートのパススルーに関する研究
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

国際マクロプログラム (第三期:2011~2015年度)
「為替レートのパススルーに関する研究」プロジェクト

2012年末のアベノミクス登場により円ドル相場は急激に変化した。2012年11月半ばまでは1ドル70円台の歴史的な円高水準が続いたが、アベノミクスへの期待から急速に円安が進み、2013年1月後半に1ドル90円台に、そして2013年4月上旬には1ドル100円近くまで円安が進んだ。その後は2014年3月現在まで1ドル100円前後の水準で安定的に為替相場は推移している。

この2012年末からの急速な円安によって日本の貿易収支は改善するという期待が根強くあった。円安による輸入価格上昇によって当初は貿易赤字が増大するとしても、円安が徐々に輸出価格競争力を高め、輸出数量の増加とともに貿易収支も徐々に改善するというJカーブ効果が働くことが期待されたのである。しかし、貿易収支が改善の兆しをみせないことから、根本的な問題は為替相場にあるのではなく、日本製品の国際競争力が低下していることにあるのではないかと危惧されている。

本稿では、このような見解に対して以下の3点を指摘した。第1に、リーマンショック後の円高により、日本企業がアジアの生産拠点との国際分業を一層強化した結果、円安による工業製品の輸出増は同時に海外拠点からの部品輸入の増加も伴うことで、貿易収支改善効果が起こりにくい構造になっている。実際にJカーブ効果の存在の有無を確認する実証分析結果からも2000年代は為替相場が貿易収支改善の効果をもたらしていないことが示された。

第2に、日本銀行の契約通貨ベースの輸出物価指数は2000年以降ほぼ一定の水準で推移しており、日本企業が為替相場の変動にかかわらず現地での販売価格を安定化する行動(PTM行動)をとっていることを示唆している。しかし、時変パラメーターモデルを用いて為替相場のパススルー率の時間を通じた変化を詳細に分析すると、リーマンショック以降の急激な円高期に日本企業はパススルー率を高めていることが明らかになった。日本企業は海外市場で厳しい価格競争に晒されているが、歴史的な円高水準に直面して、輸出価格を引き上げざるを得なかったのである。一方、価格を引き上げると輸出競争力を維持できない日本企業は海外での現地生産へとシフトした。そして、2012年末からの急激な円安への転換に伴い、日本企業は円高期に高めたパススルー率を以前の水準にまで低下させ、契約通貨建ての輸出価格を安定させた。すなわち、アベノミクスの円安は現地通貨建ての輸出価格低下につながっていないのである。また、貿易建値通貨選択の観点からは、円建て輸出が高いほど円安による現地通貨建て輸出価格低下の効果が期待される。しかし、日本の円建て輸出比率は近年低下傾向にあるため、円安が貿易収支の改善をもたらさない輸出構造となっている可能性がある。

最後に、産業別実質実効為替相場の動向を見ると、2012年末からの円安によって日本企業の輸出価格競争力が大きく改善していることが示された。以下の図が示す通り、日本と韓国の電気機械と輸送用機器産業の実質実効為替相場の動向を比較して見ると、アベノミクス以降の急激な円安によって競争相手である韓国との差を大幅に縮めていることが確認できた。これについては、2013年度9月期に日本の輸送用機器メーカーが大幅に売り上げを伸ばし、好決算であったことからも裏付けられる。

図:日本と韓国の実質実効為替相場の比較
図:日本と韓国の実質実効為替相場の比較
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出所)経済産業研究所ウェブサイト(http://www.rieti.go.jp/users/eeri/index.html)。

以上の結果から得られる具体的な政策インプリケーションを考えてみよう。第1に、東日本大震災以降の原発停止による鉱物性燃料輸入の増加は引き続き貿易収支赤字の大きな要因となり、円安になればなるほど輸入額は拡大する。この状況で、円安による輸出増という従来期待されていたJカーブ効果がなかなか現れないとすれば、日本の貿易赤字体質が定着する恐れがある。したがって、日本のエネルギー政策を長期的に見直すとともに、より安価なエネルギー供給源の開拓や新たなエネルギー資源の開発を進めることが重要である。

第2に、海外への生産拠点移転による輸出の減少を所得収支黒字の増加で補うためには、海外拠点の利益を日本国内に還元するという流れを継続することが必要である。海外市場での売り上げシェアが高まるにつれ、従来は日本本社で行ってきた研究開発を海外拠点で行うために、海外拠点に利益を留保する動きが見られる昨今においては、所得収支までも黒字が減少する恐れがある。こうした動きに対しては、日本国内における研究開発を促進する政策や海外利益の国内還流に際しての税制上の障害を取り除く政策(国外所得免除方式適用の一層の緩和)などが必要となる。

日本の契約通貨ベースの輸出価格が安定しているという分析結果は、円高に直面するたびに日本の輸出企業が利益幅を縮小しても価格を安定させる努力を続けていることを示唆している。円建て輸出を行う企業の場合、為替相場変動の影響を直接受けることはないが、そもそも輸出競争力がない限り円建て取引を高めることは難しい。外貨建てで輸出する企業の場合は、円高の影響を直接受けることになる。円高による為替差損に耐えられない企業は海外に生産拠点を移すなどして対応し、日本から当該製品輸出を行わなくなる。リーマンショック後に進展した歴史的な円高局面では、日本企業がパススルー率を高めたことが時変パラメーターモデルによる推定結果から明らかになった。これは日本企業が輸出価格を引き上げた可能性を示唆しているが、円高時に輸出価格引き上げを行えない企業は、海外での生産に転換せざるをえない。実際に、一部の電気機器類や携帯端末などの通信機器類はリーマンショック後の円高期において輸出競争力が著しく低下した結果、現在ではほぼ100%海外生産されている。リーマンショック以降の長きにわたる円高が日本の製造業の海外生産を過剰なまでに促進した結果、現在、日本国内の製造業企業は競争力がある分野に特化しつつあるのかもしれない。アベノミクスによる急激な円安によって為替差益を享受できたのは、こうした競争力のある製品を抱える企業だと言えるだろう。そしてアベノミクスによる円安は、企業の行き過ぎた海外生産移転を食い止める点で一定の効果があったと評価されるのではないか。今後は、アベノミクスの第3の矢である成長戦略を一刻も早く具体化し、輸出競争力がある産業分野をさらに育成できる環境を作り上げることが期待される。