ノンテクニカルサマリー

希望労働時間の国際比較:仮想質問による労働供給弾性値の計測

執筆者 黒田 祥子 (東京大学)
山本 勲 (慶應義塾大学)
研究プロジェクト ワーク・ライフ・バランス施策の国際比較と日本企業における課題の検討
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

概要と問題意識

本稿は、日本人の労働時間がなぜ長いのか、そして今後も長時間労働が続くのか、といった問題意識のもと、日本・イギリス・ドイツの労働者を対象にしたアンケート調査を用いて、3カ国の労働者の余暇に対する選好に違いがあるかを検証したものである。

日本人の平均労働時間をみると、趨勢的には減少傾向を辿っているものの、国際的にみれば先進国の中で常に最も長い状態で推移している。近年の日本では、労働者のワーク・ライフ・バランス実現の必要性がさまざまな場面で強調されており、労働時間の削減に向けて、特に余暇を享受する欧州諸国の労働者の働き方に学ぼうとする潮流がある。しかし、過去から続く日本人の長時間労働が日本人に固有の選好を反映したものであれば、異なる選好をもつ国の制度や政策をそのまま日本に適用しても、それによって労働時間が減少するといった効果は期待できないかもしれない。実際のところ、選好に関する国民性の違いはどの程度あるのだろうか。選好に関する国民性の違いは、一般的なイメージやアネクドータルなエビデンスは散見されるものの、定量的に余暇と消費に関する選好の違いを国際比較した研究は筆者らが知る限り、あまり多くない。労働時間の決定には労働需要側の影響が小さくはないが、長期的にみれば、労働供給に関する選好の特徴を把握することは、日本人の今後の労働時間の長期的な趨勢を占う上でも重要な研究課題といえる。そこで、本稿では、労働時間の短いイギリスおよびドイツを比較対象に、日本人の希望する労働時間の長さや賃金や所得への反応度合いといった労働供給行動を規定する要因が国際的にみてどのように異なるのかを定量的に検証した。

分析内容と含意

まず、希望労働時間の水準を国際比較したところ、実労働時間だけでなく希望労働時間も日本人のほうがイギリス人やドイツ人よりも有意に長いことがわかった。たとえば、男性についてみると、日本人の希望労働時間は週46時間とイギリス人の41時間やドイツ人の43時間よりも長い。

次に、労働者の希望労働時間が賃金あるいは所得によってどの程度変化するか、という点を労働供給弾性値の計測を通じて国際比較した。労働供給弾性値とは、賃金や所得の変化に対する労働供給量の変化のことを指すが、一般に労働供給弾性値の計測には困難を伴う。たとえば、賃金変化に対する労働供給量の変化には、賃金が上昇した際に高い所得を求めて長く働くことを選択する行動(代替効果)と、賃金が上昇すれば短い労働時間でもこれまでの所得水準が維持できるために多くの余暇を選択する行動(所得効果)が反映されるが、通常のデータを用いて両者を識別することは難しい。そこで本稿では、行動経済学的なアプローチとして仮想的な賃金変化あるいは所得変化に関する質問を労働者にアンケート調査し、その回答から潜在的な労働供給弾性値を導出した。具体的には、「現在の時間当たり賃金が永久に2倍になったとき、自由に労働時間を選べるとしたら、あなたは労働時間を増やしますか、減らしますか」、「あなたの昨年の年収と同じ金額が毎年永久に支払われ続けるという宝くじに当たったとき、自由に労働時間を選べるとしたら、あなたは労働時間を増やしますか、減らしますか」といった仮想質問を用いた。計測された労働供給弾性値は図のとおりである。図では、労働供給弾性値(価格弾性値)とともに、代替効果を反映する代替弾性値と所得効果を反映する所得弾性値を男女別に国際比較している。

図:仮想質問を用いた労働供給弾性値の国際比較
図:仮想質問を用いた労働供給弾性値の国際比較
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図をみると、日本人の労働供給弾性値は絶対値でみて、いずれもイギリスやドイツよりも小さくなっていることがわかる。女性では供給弾性値の差が小さいが、有意差検定をすると日本は有意に小さい。つまり、日本人は、イギリス人やドイツ人に比べて、賃金や所得の変動に対して希望労働時間を弾力的に変化させる度合いが小さく、経済成長によって豊かになったとしても、あるいは、余暇の市場価値である賃金率が低くなったとしても、自ら労働時間を大きく減少させるようなことは考えにくいと指摘できる。

最後に、賃金や非勤労所得以外の要因によって労働者の希望労働時間が変化する可能性を見極めるため、企業や職場の環境と希望労働時間の関係を検証したところ、長時間労働が評価されるような職場や企業で働く労働者ほど、実労働時間だけでなく希望労働時間も長くなっていることがわかった。また、同じ企業で働く労働者の実労働時間や希望労働時間は類似する傾向があり、個々の労働時間のばらつきの少なくとも4割以上が同一企業で働いているという要因で説明できることも示された。

これらの分析結果は、日本人の労働供給弾性値は小さく、賃金や所得によって希望労働時間が変化する可能性は小さいものの、それは必ずしも今後も変わらない日本人に固有の選好や国民性を反映したものではなく、企業における職場管理の方法や職場環境によっては労働者の希望労働時間が将来的に変化しうることを示唆している。