著者からひとこと

環境と貿易

環境と貿易

環境と貿易

    著:山下 一仁

著者による紹介文(本書「はしがき」より)

環境保護と貿易の利益をいかに両立させるか?

2008年洞爺湖サミットで、地球温暖化を抑制するためには温暖化ガスの排出量を2050年までに現在の排出量の少なくとも50%を削減するという温暖化抑制目標への支持が表明され、2009年のラクイラサミットでは、この目標が支持されるとともに先進国は総体として2050年までに80%以上削減するという目標が支持された。このように地球温暖化は国際社会を挙げて真剣に対処しなければならない問題であるという認識が定着し、これを解決する手段として温暖化ガスに関する排出権取引が本格的に導入されようとしている。

他方で、ある国が温暖化対策を講じてもそれ以外の国が対策を講じないで生産を拡大すれば世界的な温暖化ガスの削減につながらないのではないか、温暖化対策を講じる国とそうでない国との間で国際競争力に差異が生じるのではないか、対策を講じない国へ企業が移転し対策を講じる国の産業の空洞化が生じるのではないかという懸念が具体化しており、アメリカやEUなどではこれに対する貿易上の対応策が検討されている。

また、地球温暖化問題に限らず、地球規模または越境的な汚染や生物多様性などの環境問題に関する国際的な取極めに参加しようとしない国に対して、国際的な取極めに参加させる誘因として、貿易政策が用いられようとしている。しかしながら、このような動きが、貿易自由化を促進してきたガット/WTO体制と整合的なのかという問題が生じている。ガット/WTO体制においてはWTOに加盟している国であれば(環境上の国際的な取極めに参加しているかどうかにかかわりなく)貿易相手国を平等に扱うという最恵国待遇の原則や(環境に配慮して生産されたかどうかなどどのような生産方法で作られたかを問わず)同じ種類の産品であれば輸入産品を国内産品と同様に扱うという内外無差別の原則を基本としているからである。環境を改善しようとする動きと貿易自由化を推進するための仕組みに対立が生じているのである。

本書は、前編著『食の安全と貿易』(日本評論社)に続き、法学と経済学からこのような"環境と貿易"というテーマにアプローチしたものである。環境と貿易の実体面を分析・把握しどのような政策が望ましいのかを検討するためには経済学が有用であり、また、その望ましい政策を実現するために、国際的な交渉等の舞台でこのイッシューに関連する協定を解釈したり主権国家間を拘束する法的文書として取りまとめたりする際には、種々の国際環境協定やWTO(世界貿易機関)の諸協定についての法的な理解と分析が欠かせない。

"環境と貿易"というイシューは国際舞台では既にグローバル化との関連で極めて大きな関心を集めており、欧米ではこれに関する専門書や教科書が多数出版されている。にもかかわらず、わが国では最近になって国際経済学、環境経済学や国際経済法学の論文集や教科書の中に一、二章が割かれるようになったくらいで、このテーマを巡る諸論点を網羅的・包括的に扱った書物はない。しかも、法学と経済学の双方の観点からこの問題にアプローチした著作は、欧米においても少ない。望ましい法律解釈や立法措置は経済分析の基礎の上に立つべきであるが、法律、経済の専門知識を総合するのではなく、それぞれの専門からの分析に偏りがちである。本書は、著者のオリジナルな分析はあるものの、わが国はもとより欧米においてこの問題をめぐりどのような論点が議論され分析されているのかについて紹介するとともに、法学と経済学の観点からこの問題に総合的、学際的にアプローチしようとしたものである。第1部は、環境と貿易をめぐる法律問題を取り扱っている。第1章は自由貿易体制がどのようにして作られたかという歴史と、環境と貿易に関する規律として基本的に重要なガットの原則と例外規定について解説を加え、第2章では、ガット以外のWTO協定の諸規定について解説している。第3章では、エコ・ラベル、環境ダンピング規制、環境保護のための一方的措置などの具体的な環境措置が、ガット/WTOとの関係でどのような法的な問題が生じるのか、その解決方法は何かについて、議論するとともに、このうち多国間環境協定(MEA)のガット/WTO上の問題点と解決策については、特に1章を起こし第4章で詳しく述べている。第2部は、環境と貿易についての経済分析を行っている。第5章では、環境と貿易についての分析の基礎として、これだけに汚染を抑えるという環境保護は、逆の見方をすると、これだけの汚染は許容されるということであり、汚染を生産要素としてとらえれば経済分析に乗せることができること、その際、コモンズの悲劇といわれるようなオープン・アクセス資源も大気などの公共財についても、非排除性を解消する工夫をすることによって排除可能な私的な財(生産要素)として取り扱うことが可能になることなどを説明する。第6章では、汚染財の輸出国と輸入国では貿易の自由化が経済厚生水準に与える影響は異なることを示す一方、最適な政策は小国では適切な環境政策を取った上で自由貿易を採用することであることを示す。また、貿易政策を環境政策として使用したり、環境政策を貿易政策として使用したりすることの問題点と、他の領域で経済の歪みが生じている際に別の領域で採るべき次善の策について説明する。第7章は、環境政策が貿易に及ぼす影響、貿易が環境政策に及ぼす影響について分析し、開放経済での最適な環境政策(排出税と排出権取引の同値性が崩れること)、望ましい技術進歩(資本集約的な汚染財において資本節約的な技術進歩が生じると汚染が増加する可能性があること)について示している。第8章は、国際資本移動が生じる場合には経済主体に負担の少ない直接規制が望ましくなる可能性があることや汚染逃避地仮説について説明し、第9章は、越境的あるいはグローバルな環境問題について、汚染リーケージの問題、ハーモナイゼイションの必要性と克服すべき課題と対応策について述べている。それぞれの部は他の部の成果や関連を念頭に置きながら記述されているが、内容的には独立しているので、どちらの部から読み始められてもよい。

本書は、法学や経済学による理論的な分析を主眼としたものではなく、ミクロ経済学、環境経済学、国際経済学、国際法学、国際経済法学の基礎的な理論や知識を現実の問題に応用して政策上の解決策を探るというねらいと目的を持ったものである。"環境と貿易"というテーマについての基礎的な知識を理解したうえで、政策提言などの具体的なアクションをとろうと考えている企業、政党、政府やNGOの関係者の方々、大学等で法学や経済学の基礎を学んだ方々や現在学ばれている方々、さらには環境問題に関心を有している方々にとって、このテーマに取り組む際の参考になれば幸いである。

およそ経済政策の基本原理は、1つの問題にはそれに直接ターゲットを絞り、それを直接解決するような政策をとることである。目が痛い人には目薬、胃が悪い人には胃薬を処方すべきなのである。しかし、現実の政策は圧力団体の存在や財政的な事情の考慮等により、直接的なターゲッティング・ポリシーではなく、副作用を生む間接的な政策をとりがちである。農業政策を例にとると、農家所得を向上させようとして60年代以降食糧管理制度のもとで米価を上げた。米価が上がれば農家が潤うだけでなく、米を販売する農協も高い手数料を取ることができるし農家に肥料・農薬・農業機械を高く売ることができる。こうして農協は高度成長期我が国最大の圧力団体として大きな政治力を発揮し米価引上げを主導した。しかし、需給関係を無視した米価引上げは大幅な過剰を生み40年近くも米の生産調整を実施している。農業保護の米への集中は他の作物の生産の減少を招き、食料自給率は60年の79%から40%に低下した。また、零細兼業農家の滞留により専業農家の規模は拡大せず国際競争力は大幅に低下した。農家所得のために農産物価格で対処するという間接的な政策をとったために、食料自給率と国際競争力の低下という大きな副作用をもたらしてしまった。農家の所得向上というのであればアメリカの農業政策のように農家に直接支払いという補助金を交付すべきであった。これが直接的なターゲッティング・ポリシーである。農政のみならず他の分野でも間接的な政策をとったために経済的な非効率を招いた例は少なくない。"環境と貿易"というテーマにおいても、間接的な政策ではなく直接的なターゲッティング・ポリシーこそ望ましい政策であることを示すことができる。これが十分に理解されれば、行政政策に関する無駄な議論を省くことができ、行政の一層の効率化を図ることができるだろう。

経済産業研究所は、大学と同じような研究機関ではなく、経済産業政策について分析、研究、提言する機関である。本書も、開放経済における望ましい環境政策、WTO法の解釈、国際交渉に望む基本的な考え方等について政策提案を行っている。しかし、これらは経済産業研究所の考え方でも経済産業省の考え方でもなく、経済産業研究所のプロジェクトにおいて研究した著者の個人的な提案であることをお断りしておきたい。2004年に同プロジェクトを開始しメンバーの方々から多くのことを学ばせていただいたにもかかわらず、諸般の事情により本書の刊行が遅れてしまい、ご迷惑をおかけした。その間、吉冨勝・前所長、藤田昌久・現所長ほかたくさんのスタッフの方にご迷惑もおかけしたし、お世話になった。特に、及川耕造理事長には、最初のRIETI在職中、農林水産省退職後のRIETIへの復帰など、この間一貫して私の活動を支援していただいた。及川理事長がRIETIを去られようとされる3月に本書を刊行できたことで、ささやかながら恩返しができた気持ちである。同プロジェクトでは、2004年から2006年にかけて、当時一橋大学大学院生だった小森谷徳純中央大学経済学部助教、山川俊和一橋大学大学院経済学研究科特任講師にリサーチアシスタントをお願いし、研究を助けていただいた。さらに、原稿段階で、本書の特定の部分について小寺彰東京大学教授、平覚大阪市立大学教授、神事直人京都大学准教授、佐藤仁志経済産業研究所研究員、伊藤萬里専修大学経済学部講師ほかの方々から貴重なコメント等をいただいた。また、前編著『食の安全と貿易』(日本評論社)に続き、資料収集や本書の編集にあたっては、東京大学大学院総合文化研究科博士課程の京極智子さんに、出版にあたっては日本評論社の小西ふき子さんに、それぞれ大変お世話になった。この場を借りて感謝したい。もとより、本書についての記述の誤りや主張についての責任は著者個人に帰属するものであり、読者の方から忌憚のないご意見やご批判を賜れればと思っている。

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