著者からひとこと

WTO紛争解決手続における履行制度

WTO紛争解決手続における履行制度

経済政策分析シリーズ
WTO紛争解決手続における履行制度

    編著:川瀬 剛志、荒木 一郎

著者による紹介文(本書「はしがき」より)

WTO紛争解決制度における履行確保システムの問題点を徹底分析

発足後10年を迎えたWTOであるが、その紛争解決手続は、当初の期待以上に、効果的・効率的に運用されてきたと評価されている。そのような十分な機能がもたらされた理由として、GATT時代との比較において、手続の司法化が飛躍的に進展したことが指摘できる。その主たる要因は、パネル設置、パネル・上級委員会報告書の採択および対抗措置の承認という重要な手続上の決定をネガティブ・コンセンサス方式で行うこととした結果(その意義については、本書第1章参照)、事実上の強制管轄権が設定されたことと、上級委員会が事実上常設の司法機関として設置されたことに求められる。GATT時代の先例と比較すると、パネル・上級委員会の報告書の法的分析は洗練の度を増しており、一般国際法の諸原則との整合性に留意した精緻な法律論を展開するようになってきている。結果として、大多数の案件において、パネル・上級委員会の裁定(形式的にはDSBの勧告・裁定という形をとる)は、ほぼ遵守され、関係当事国間の満足のいく解決に結びついている。

他方、一般に超国家的権力が存在しない国際社会においては、国際法上の義務の履行を当事国の意に反して強制することは困難(というよりむしろ不可能)であるが、このことはWTOにも該当する。特にネガティブ・コンセンサス方式導入の結果、GATT時代のようにパネル報告書の内容に不服のある当事国がその採択を阻止することができなくなった現在、DSB勧告の履行・実施が困難な案件が注目されるようになってきている。これは手続の司法化がもたらした副産物ではあるが、WTO体制の実効性にも関わる大きな問題となっている。

若干の具体例を見ると、まずEC・バナナ輸入制度事件、EC・ホルモン牛肉規制事件および米国・FSC税制事件など、一連のいわゆる大西洋間案件はGATT時代からの懸案事項であり、いずれも被申立国の不履行が譲許停止(貿易制裁発動)に帰結したことで、米欧二極間に深刻な通商紛争の懸念を惹起した。また、ブラジル・カナダ間の民間航空機補助金に関する紛争は、当事国が相互に複数回の履行確認パネルで争うなど、泥沼の様相を呈している。さらに、日本も日本製熱延鋼板AD事件やバード法事件等対米案件の履行確保に苦慮している一方で、自らもリンゴ検疫事件についてのDSB勧告の履行を米国から迫られる立場にある。

こうした不履行は何故発生するのか、逆に少なからぬ事件で円滑な履行が見られた理由は何か----本書の問題意識はそうした素朴な疑問にあり、そのメカニズムを明らかにすることである。

履行の困難ないし遅滞は、えてして上記のようにDSB勧告採択手続の自動性にその原因を求められがちだが、編者の実務的経験およびプロジェクト初期の予備的調査の結果により、当初から我々は異なる印象を持っていた。すなわち、履行の難易を規定するものは、現行DSUの履行制度の設計はもちろんのこと、紛争の背景となる事実(争われている措置の内容、利害関係者、社会経済的背景)、協議段階からDSB勧告に至るすべてのプロセスにおける個別的要因が関連していると考えられる。さらに、履行はWTOを舞台とした国際的なプロセスだけでなく、特に被申立国内の政治プロセスに依存している。

簡単な例を2、3挙げてみたい。たとえば同じTBT協定違反でも、問題の措置が極めて技術的な製品規格の設定であるか、被申立国民の食文化や生命・健康の保護に根ざした規制かにより、違反措置の是正・撤廃勧告に対する政治的反発の程度は異なる。また、パネル・上級委員会が説得力に乏しく突飛な協定解釈や裁定理由を示した結果の敗訴と、十分に練り上げられた精緻な議論により導かれた協定違反の判断では、被申立国がDSB勧告履行を義務として受容する程度は異なるだろう。差戻し制のない現行規定では、一部判断がパネルにより差し控えられた結果、履行すべき措置が被申立国には不明になることも起こり得る。むろん、現行DSUの履行制度自体の執行力(特に与えられた実施のための「妥当な期間」と譲許停止の規模)が、履行の成否を左右することは言うまでもない。譲許停止も、同じ規模でも、その内容によって被申立国内での作用が異なることも考えられる。また、履行が貿易官庁だけで実施できるのか、あるいは議会の関与も必要なのかも関係する。

本書は、このように紛争・履行のプロセスを包括的にとらえ、そこに含まれる履行の難易を規定する諸要因を個別に取り上げ、主として国際経済法、国際政治経済学の視角から、履行・不履行のメカニズムの分析を試みたものである。こうした研究成果の政策的意義として、我々は少なくとも以下の3点を挙げたい。

第1に、実体法(WTO協定附属書1および4に掲げられた諸協定)の解釈論および立法論への示唆である。特定の案件における履行の難易度は、パネル・上級委員会の判断(協定解釈、裁定理由、および履行すべき措置に関する勧告)と、それに対する当事国の主観的認識によって左右される。たとえば、ある種の案件で履行難航が頻発し、その原因がパネル・上級委員会の判断にあることが本書の検討の結果判明すれば、当該特定条文の解釈の問題点が浮き彫りにされる。そうなれば、将来における当該条文の解釈・適用の変更についての議論の素材を提供できるであろうし、更には条文そのものの改正交渉における立法論にとって有益な資料を提供しよう。また、逆に一部の案件で、パネル・上級委員会のバランスの取れた判断が履行を円滑に進める要因になっているのであれば、それが将来に事案において履行を念頭に置いた判断を下すための指針を与え得る。

第2に、手続法の解釈論および立法論への示唆である。各案件における履行の有無や遅滞の程度の検証は、DSUの実効性を評価するために必要不可欠な作業である。また、こうした検証作業を踏まえて、とりわけDSUの履行制度(DSU第21条の履行確認手続・第22条の救済手段)の改善案を導き出し、ドーハ開発アジェンダDSU改正交渉への有益な提言となり得る。

第3に、各加盟国の実務担当者の立場に立てば、紛争処理実務の改善・向上の観点からの重要性も指摘できよう。実務上、被申立国により履行が確保されやすい勧告についてある程度予想が立てられれば、紛争の初期段階において、費用対効果の観点から、まずWTOへの当該案件の付託の是非を判断する材料を提供するであろう。また手続中は、協議要請・パネル設置要請において何を請求(claim)とすべきか、次いで意見書において個別請求についてどのような法的主張(argument)を組み立てるかにつき、当局の意思決定に役立てることができよう。更に、紛争の最終段階で、どの産品・セクターに対しどの程度の対抗措置を行えば履行確保にとって効果的であるか等について分析する際にも、このような検討は有用であろう。

本書における分析・提言がこれらの3点についてどれだけの貢献をなし得たかについては読者諸賢の判断を待ちたいが、これまで日本ではあまり注目されることのなかったWTO紛争解決手続における履行問題についての包括的検討として、本書が学界・実務界における更なる研究の基礎となれば幸いである。

2005年8月
川瀬 剛志
荒木 一郎

著者(編著者)紹介

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川瀬 剛志

経済産業研究所ファカルティフェロー/大阪大学大学院法学研究科助教授。1967年生。1990年慶應義塾大学法学部卒、1994年同大学院法学研究科博士課程中退(法学修士)、米ジョージタウン大学法科大学院終了(LL.M.)。神戸商科大学商経学部(現・兵庫県立大学)助教授、経済産業省通商機構部参事官補佐、経済産業研究所研究員等を経て、2004年より現職。

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荒木 一郎

横浜国立大学大学院国際社会科学研究科教授。1959年生。1983年東京大学法学部卒、1988年米カリフォルニア大学バークレー校法科大学院終了(LL.M.)。1994年埼玉大学大学院政策科学研究科(現・政策研究大学院大学)修士課程修了(政策科学修士)。1983年通商産業省(現・経済産業省)入省、WTO事務局法務部法務官、通商機構部公正貿易推進室長、経済産業研究所研究調整ディレクター、横浜国立大学大学院国際社会科学研究科助教授等を経て、2005年より現職。