Research & Review (2005年9月号)

WTO紛争解決制度の履行問題

川瀬 剛志
ファカルティフェロー

我々が主体的に民事裁判を起こす場合、自らが被った何らかの権利侵害から救済(権利侵害行為の差し止めや損害賠償)を受けることが、通常の第一義的な目的だろう。だが、首尾よく勝訴してもこの救済が履行されないとすれば、どうだろうか。時間的・金銭的、更には肉体的・精神的コストは計りしれない裁判において、それだけの代償を支払い、十分な救済が受けられないことが常態化すれば、司法に対する信頼は大きく揺らぐことになりかねない。

こうした判決執行の実効性は、中央集権的な政府が強制執行など実力行使によって制度上担保している国内司法制度においても時に問題となるが、主権国家の集合体としての国際社会ではより深刻となる。世界貿易機関(WTO)もその例外ではない。その紛争解決制度の結果である紛争解決機関(DSB)の勧告・裁定が、敗訴した加盟国、つまり被申立国(国内裁判の被告に相当)によって、履行されない、履行に手間どる、あるいは履行が迂回されるといった事態が頻発するようになり(これを総称して履行問題とする)、紛争解決フォーラムとしてのWTOは、その正当性を問われる事態となっている。

筆者は昨年『WTO体制下のセーフガード』の出版でご一緒した横浜国立大学・荒木一郎教授をはじめ、前プロジェクトに参加した若手・中堅の研究者と共に、昨年度1年間にわたり近年顕著なこの履行問題を調査し、その原因をWTOの紛争解決制度の中に探った。その成果が『WTO紛争解決手続における履行制度』と題され、本年9月に経済産業研究所(RIETI)政策分析シリーズの一環として三省堂より刊行される。本稿では、その内容を簡単に紹介したい。

紛争解決手続の「司法化」と履行問題の発生

発足後10年を迎えたWTOの紛争解決手続は、当初の期待以上に効果的・効率的に運用されてきたと評価される。その原因は、旧GATT時代との比較において手続の司法化が飛躍的に進展したことに求められる。司法化とは、WTOの紛争解決手続が、パワーと交渉による外交的フォーラムから、より国内裁判に似た司法的手続に移行したことを指す。具体的には、事件ごとに設置される準司法機関のパネル設置を事実上自動化し、強制管轄権が設定されたこと、上訴機関の上級委員会が実質的に常設されたこと、DSBによるパネル・上級委員会報告書の採択、及びその勧告の実効性を担保する対抗措置の承認も準自動化したことなどがあげられる。また、パネル・上級委員会の報告はDSB採択によって違反措置是正の勧告となるが、この勧告も、法的拘束力を有すると理解される。パネル・上級委員会報告書での法的分析も、GATT時代に比べ洗練の度を増しており、精緻な法律論が展開されるようになった(1)

その一方で、手続の自動化及びDSB勧告への拘束力の付与は、新たな問題をもたらした。GATT時代、パネル報告書に不服のある当事国はその採択を阻止できた(当時、採択はコンセンサス方式で行われ、敗訴した締約国の賛成も要した)。しかし、採択が自動化されたことでこうしたいわゆる「ブロック」の途が閉ざされ、複雑な政治的背景をもつ案件においてその履行が滞るようになった。これが履行問題の正体である。

その代表例として、EC・バナナ輸入制度事件、EC・ホルモン投与牛肉事件、米国・外国販売会社税制事件など、米・EC間のいわゆる大西洋間案件があげられよう。特にこれら3件は、いずれも申立国側の譲許停止(いわゆる報復・対抗措置)を招き、深刻な貿易戦争の様相を呈した(2)。ブラジル・カナダ間の民間航空機輸出補助金に関する一連の紛争も、寡占的な市場構造にあってどちらも譲れない中で補助金支出が繰り返され、数次にわたり紛争解決手続に付託されている。

我が国もこうした履行問題と無縁ではない。日本は、1916年ダンピング防止(AD)法事件、日本製熱延鋼板ダンピング防止税事件、バード修正条項事件など、米国の措置についてWTOに付託した案件で、履行問題に悩まされてきた。一方、米国が申し立てているリンゴの火傷病予防検疫事件では、履行確認パネルが日本のDSB勧告不履行を六月末に認定し、我が国は逆に被申立国として不履行案件を抱えることになった。

本稿執筆中の7月初旬時点で、WTOに付託された紛争の総数は330件を超えるが、DSB勧告の不履行に至る案件はその一部に過ぎず、大多数はパネル報告書の発出をみることすらなく問題解決に至っている。その意味で、WTOの紛争解決手続の機能は依然高く評価されてよい。しかし、右記のようにいわゆる四極が軒並み履行問題を起こしている事態は、主要加盟国によるWTO軽視を内外に示し、ひいてはその権威を失墜させることにつながりかねない。

なぜ履行問題は起きるか?

こうした履行問題はなぜ起こるのか。1つの説明として、問題の協定違反措置が極めて強い政治的要請に基づいて導入された場合、その撤廃が被申立国の政治家・行政府に多大な政治的、または社会経済的コストを生むことが予想されるため履行されない、と考えられる。例えば、ECのバナナ輸入制度やホルモン投与牛肉の件で履行が難航したのは、背景に対旧植民地外交や食の安全というセンシティブな問題があったためであり、米国の鉄鋼製品輸入救済措置関係案件や我が国のリンゴ検疫、EC・インド産綿製寝具ダンピング防止税事件、メキシコ液糖ダンピング防止税事件では、国内の輸入競合産業の保護主義的圧力が履行遅延を生んだことは否めない。しょせん政治問題というわけである。

だがその一方、カナダは多くの困難な敗訴案件を抱えながら、前述の航空機補助金事件を除き、比較的迅速に履行している。米国においても、ガソリン精製基準事件やエビ輸入制限事件といった「貿易と環境」論争にかかわる政治的に機微な案件の履行が、スムーズに進行した。これらは、個別案件の政治的背景のみが履行を規定するものではないことを物語っている。いかなる事件でも、協定違反の通商制限措置の撤廃・是正は、一定の政治的反発を伴うものであり、WTO紛争解決制度の役割はそうした反発をふまえた上で適正な協定遵守を確保することにある。とすれば履行問題の発生は、WTOの紛争解決制度が十分な履行の方向づけやインセンティブを与えることができないか、手続そのものが不履行を助長している可能性を示唆するのではないだろうか。

(1)執行力の欠如
履行問題の原因はしばしば、WTOの「執行力」の欠如に求められる。つまり、中央集権的な判決執行ができない国際機関の宿命であるとか、制裁が生ぬるいといった指摘だが、確かに一理あろう。例えば、現行の勧告履行の時間的枠組みは非常に緩やかで、早期履行の圧力がかかりにくい。勧告の後履行まで最長15カ月の猶予期間が設定されるが、この間被申立国は何らコストを負担することなく違反措置を維持できる。また、履行の成否について当事国間に争いがある場合、その判断は再びパネル・上級委員会に委ねられ、譲許停止の承認・発動はその後になる。

ようやく譲許停止発動にこぎつけても、違反是正には十分ではない。譲許停止の額は、違反措置によって受けた「無効化又は侵害」の額と同等でなければならないが、これは一般に、違反措置が履行期限後も存続した場合、将来的に貿易を阻害する額として計算される。つまり、実損の範囲内でしかも遡及しないため、過去に被った貿易量の減少分が算入されないのだ。この計算方法では、特に違反法令の存在と適用の実態が乖離している場合、十分な圧力を生むことは難しい。例えば、前出の1916年AD法事件は、ダンピング輸出を行う海外企業に懲罰的損害賠償や刑事罰を科する米国法が協定違反とされたケースだが、同法の存在自体は、心理的萎縮効果は別としても、貿易のフローに対し実体的影響を与えず、個別事件において裁判所が同法を適用しないかぎり実損は発生しない。また、多少適用があったとしてもその額は一国の貿易総額からみれば微々たるもので、それと同額の譲許停止では米国議会に対する同法廃止の十分な圧力たりえない。他方、適用を受けた企業にとってはその損害ははかりしれない。DSB勧告後に日本の印刷機メーカー東京機械製作所が提訴された件では、米国アイオワ連邦地裁は30億円を越える損害賠償の支払いを同社に命じている。

(2)規範的要因
履行の成否を規定する要因はこうした合理的選択だけではない。国際法では近年、国家の規範的な意識(簡単に「遵法精神」と言えるか)に合意遵守の根拠を求める「遵守理論」(Compliance Theory)が注目を集めている(3)。こうした分析枠組みを提唱する理論的業績に共通しているのは、規範の正当性と明確性を重視する点である。つまり、国際合意といえども、それが正統な所定の手続に従って形成され、適正手続に従った公平・公正な解釈・適用がなされ、かつ内容も合理的でなければ、国家は合意に対し遵守の念を抱くことにならないとの考え方である。また、遵守と違反がはっきり分かるよう、どのような権利を付与し何を禁じているのか、規範の意味するところも明確でなければいけない。残念ながら、WTO協定やパネル・上級委員会の裁定には、この条件を必ずしも満たしていない場合が往々にして見られ、そのことが履行問題の一因となっている。

例えば、直接税中心の税体系を取り、全世界所得課税主義を実施する米国にとって、補助金・相殺関税協定における直接税還付を輸出補助金とみなす現行規定は、加盟国の税制のあり方への不当な介入と映るだろう。一方、ECのように食の安全において消費者不安を重視する立場に立てば、現行の衛生植物検疫(SPS)協定は科学的証拠に偏重するあまり不合理と映るだろう。協定自体に対するこうした意識は、米国の外国販売会社税制事件やEC・ホルモン投与牛肉事件におけるDSB勧告履行に、影を落としている。

また、協定に問題はなくとも、パネル・上級委員会による解釈が突飛だったり不合理なこともある。米国・バード修正条項事件では、米政府が徴収したダンピング防止税・相殺関税を課税申請企業に分配することの是非が問われたが、この時パネル・上級委員会は、こうした還付措置も一種のダンピング・補助金付き輸出に対抗する措置であり、WTO規定に反すると解釈したところ、米議会は、根拠のない禁止補助金の「司法的法創造」(judicial law-making)であると反発した。この解釈の妥当性につき、同法の支持・不支持にかかわらず研究者・通商実務法曹から疑問が呈され、不履行支持派を下支えしている感がある。

規範の明確性の観点からみても、DSB勧告には問題が残る。パネルは勧告の具体的実施方法について提案する権限を持つが、被申立国の主権に配慮し、これまで積極的に行使してこなかった。となると被申立国は、裁定理由から必要な履行措置を導くしかないが、これも常に容易とは限らない。しばしばパネルは、問題の措置が違反かどうかを判断するため最低限の判断しか行わなかったり(訴訟経済)、判断した論点についても問題の措置の正否のみを判断し、それ以上に条文が要求することを明確化しないことがままある。

そのため、例えばEC・ホルモン投与牛肉事件では、履行はホルモンの発ガン性に関する危険性評価の再実施で十分とするEC側と、輸入規制撤廃を求める申立国側(米・加)が対立し、未だ解決していない。米国・バード修正条項事件でも、履行には同法を廃止すべきか修正で十分かにつき、当事国間の意見が対立した。このように、履行の意味に関する見解の不一致が解消されない限り、履行確認のプロセスが延々と続くことになり、解決はますます遠のいてしまう。

問題の解決にむけて

履行問題解決のためにまず考えられる方策は、やはり執行力の強化である。本誌の2004年6月号でも詳述したように、セーフガード協定とそのパネル・上級委員会の解釈には非常に批判が多く、被申立国、特に一連のセーフガード案件で敗訴している米国の規範意識は極めて低い。にもかかわらず、セーフガード案件で履行問題が発生しないのは、セーフガード協定が即時発動できる特別な譲許停止制度を備えているからに他ならない。また、GATT時代から数えて30年戦争ともいうべき様相を呈する米国・外国販売会社税制事件が解決に動き出しているのも、40億ドルもの巨額な譲許停止の圧力が背景にあることは否定できない。これをふまえ、進行中のドーハラウンド紛争解決了解改正交渉において、メキシコや一部途上国は、遡及的適用や前倒し実施、集団対抗措置といった、様々な譲許停止の強化を提案している。

だが、こうした提案は現行手続のあり方を急激に変えるため、現状では加盟国の広い支持を得にくい。更に、既にみてきた通り、履行問題には少なからず規範的側面があり、納得が得られなかったり、そもそもその命ずるところが明らかでないルールや裁定を力づくで押しつけることは、WTOに対する各国の基本的コミットメントを危ういものにするおそれがある。従って、パネル・上級委員会の判断の合理性・明確性をいかに確保するかも、同様に重要となる。

この点で実行できることは、パネル・上級委員会は常に履行を考慮した判断を行い、規範としてのDSB勧告の明確性を確保することである。訴訟経済を行使したり協定を抑制的に解釈・適用するやり方は、国際司法フォーラムであるWTOとして、加盟国の規制主権との折り合いをつけるために必要な自己抑制だが、その結果問題解決がおぼつかない状況を招くことは、紛争の迅速かつ当事国の満足いく解決という目的に照らし、本末転倒である。かつて上級委員会自身が認めたように、訴訟経済の行使(そしてすべからく全ての協定の解釈・適用)に際し、判断者はDSBが加盟国にとって実施可能な勧告を行えるかどうかを意識すべきである。

他方、判断の妥当性については、現在のパネル・上級委員会の自立性と自動的な報告書採択について、再検討が必要かどうか一考の余地はある。仮に上級委員会の判断に不備がある場合、特にラウンドにおけるルール策定が十分に機能しない現状では、その判断を事後的・立法的に是正できない。米国はこれを当事国の合意や加盟国の発議による報告書の部分削除や部分採択で是正することを提案しているが、司法の自律の後退を招く改正に訴える前に、何らかのチェック機能を創設することは検討に値しよう。

例えば現在、DSB勧告に際してはDSB会合で当事国が採択される報告書についてステートメントが読み上げるが、その中で報告書に示された法的判断の妥当性について見解が示され、他の加盟国もこれにコメントする。過去にも一部パネル・上級委員会の判断がドラスティックすぎて加盟国が強い不満を示し、これが司法部門への圧力となってきた。採択の自動制を維持しつつ、パネル・上級委員会の判断に行きすぎや不備があっても、こうしたDSBでの政治的レビューのプロセスは1つのバロメーターとして機能し得るものであり、これを活用することは比較的実現可能な改正案となろう。

更に、本年1月発表のWTO事務局長の諮問委員会報告書が提案したように、一般理事会が上級委員会の先例を批判的に検討する専門家グループを設置する案(4)も一考に値する。この提案も種々の困難への直面が予想されるが、せめて外部識者による判例批評を実務にフィードバックさせる手続が非公式的にでも確立されれば、事態は大幅に改善しよう。

むろん、それでも手続問題を超えた実体規範の合理性が得られなければ、問題は解決しない。SPS協定を例に取れば、EC・ホルモン投与牛肉事件も未解決であり、EC・遺伝子組み換え産品事件の成り行き次第では、協定のあり方を再考する圧力が一層高まるかも知れない。いずれにせよWTOは、協定の不備を補完し、時代の要請にみあった内容にし、自らの紛争解決フォーラムとしての正当性を維持するためにも、不断の努力を行うべきである。その意味でも、ラウンドの推進は不可欠であることを再確認したい。

脚注
  • (1)…WTOの司法化については、岩澤雄司「WTOの紛争処理の国際法上の意義と特質」国際法学会編『紛争の解決(日本と国際法の100年・第9巻)』第9章(三省堂、2002)参照。
  • (2)…詳しくは、川瀬剛志「報復関税発動―WTOが承認(けいざい講座)」読売新聞2004年12月6日朝刊参照。
  • (3)…遵守理論の代表的業績として以下を参照。
    Abram Chayes and Antonia Handler Chayes, The New Sovereignty: Compliance with International Regulatory Agreements (1995, Oxford University Press ) ; Thomas M. Franck, Fairness in International Law (1996, Oxford University Press ).
  • (4)…Peter Sutherland et al., The Future of the WTO :Addressing the Institutional Challenge to the New Millennium, para.251(WTO, 2005)

2005年10月26日掲載