Research & Review (2003年3月号)

『中国台頭』─日本は何をなすべきか─

津上 俊哉
上席研究員

のっけから憂鬱な話で恐縮だが、最近の経済論調を見ていると、長びく閉塞状況の中で現実を逃避した刹那的な願望、言わば「ウィッシュフル・シンキング症候群」が蔓延しつつあるのではないかと感ずる。

円安待望論もその一例に思える。そこでは円安→輸入物価上昇+輸出産業の採算向上→デフレ・ストップという「見たい」部分だけを見て、円安=「衰退経済」という市場の認定→資本流失(キャピタル・フライト)→円建て資産(株とか国債)の価格暴落といった「見たくない」弊害は忘れられている。4年半前の98年には円が1ドル147円まで下落したが、円安の仕掛け人ヘッジファンドが株にも空売りを仕掛けたせいで同時に株価が暴落、長銀が破綻した(図1参照)。円安を政策としてめざし、市場がそれを信ずれば内外の投資家は損失回避のため円建て資産の処分に走るだろう。そこで例えば国債価格が大幅に下落したら、銀行の経営はどうなるのか。

「デフレの輸出元」中国が人民元を上げてくれればよいという考えもある。しかし、中国だってデフレに悩まされ、おまけに素材産業や農業は競争力が弱いので輸入物価が下落すれば大変な痛みだ。そういう中国に向かって「デフレ輸出が迷惑だから、人民元を上げろ」と言えば、中国は「ババを引け」と言われていると感じ、よけい後に退かなくなるだろう。

本気で中国に元を上げさせたいなら、為すべきことは中国国民に根強い「元高=中国に不利、円安=中国に不利」という強迫観念を変える説得の理屈を考え、あるいは中国が元高で得られるメリットを日本から示せないか(例えば将来の元切り上げを見越したサムライボンドの発行の勧め)を考えることであり、中国に不満の矛先を向けることではないはずだ。

前置きが長くなってしまったが、中国を巡る議論は相手方の中国のことがよく理解されていないせいで、以上のようなウィッシュフル・シンキングが顕著だ。2001年に突如として「中国経済脅威論」が沸騰したこともその一例と言える。誰しも中国の成長には「ライバル台頭」という不安を感ずるが、「脅威論」はどう考えても泣き言、人のせいにする類の議論だった。

中国経済の一部が力をつけてきたのは過去多くの失敗を重ねながらも営々と努力してきた積み重ねによるものであり、単に人件費が安い、為替レートが安いから、ではない。ライバルの成長に脅威を感じるなら、相手をあげつらうよりも危機感の矛先を自らに向けて奮起するべきだろう。日本の行く末はむしろ日本がどういう決断をし、あるいはしないのか、で決まるのではないのか。

目前にはそういう決断の必要な課題が山積している。例えば、永く「FTA(自由貿易協定)の空白地帯」と言われてきた東アジアで、国境をまたいだ経済緊密化が進み、FTAの交渉も始まった。今後日本が東アジアで生きていくためにFTAにはぜひ取り組まなければならない。それを怠れば文字どおり「国家百年の大計を誤る」ことになる。

同時に経済統合はFTAの枠組みがなくても事実上どんどん進むことを忘れてはならない。技術革新とインフラ整備により、ヒト、モノ、サービス、カネ、情報、技術の往来に要するコスト、時間が劇的に削減されたからだ。しかし、そこで聞こえてくる話は工場閉鎖、中国移転などデメリットばかりだ。FTA締結にメリットがあるなら、事実上の経済統合にもメリットがあるはずだが、そのメリットはデメリットに比べて見えにくく、掴みにくい。しかし、事実上の経済統合、それによるデメリットの発現は経済合理性に従って否応なしに進む。そうである以上、統合の「帳尻」を赤字にしないためには必死にメリットを掴みにいく選択しかない。日本は今後中国を始めとするアジアとの経済的な関わりを深め、そこから可能な限り統合のメリットを汲み上げる、平たく言えば「ウィン&ウィン」の経済関係をめざさなければならない。

それに空洞化の原因のあらかたは日本国内にある。みんなそう感じたからこそ、この10年間「規制緩和だ、高コスト構造是正だ」と議論してきたはずなのに、突如朝野を挙げて「空洞化は中国のせいだ」と言わんばかりの大合唱が起きた。

例えば物流コストの問題だ(図2参照)。高い高速道路料金は日本の高コスト構造の一大元凶だ。道路関係公団の改革論議でその是正の好機が到来したのに、料金問題が議論されないのはいったいどうしたことか。これだけ空洞化問題を懸念するのに、料金問題を放置すれば、空洞化を進める犯人は我々自身ということになる。

道路だけの問題ではない。いま日本経済の競争的な半身は東アジアとの間で物価調整の波に洗われている。企業はたいへんだが、一方では莫大な利益が消費者に還元されている。ところが残る半身、「官業」の構造改革が進まないせいで、日本経済は二重構造の「異形(いぎょう)」を呈し始めている。官業セクター全体の構造改革を進め、財務構造を直さないと競争的セクターまで窒息して日本経済は地域統合の時代を生き抜けなくなる。

危機的な財政、毀損し続ける金融資産、刻々と迫るFTAの選択・・・様々な角度から見て、日本の再生に残された時間的猶予はあと2~3年だろう。それまでに日本丸の舵を切れなければ、後には衰退、没落の末路しかなくなる。我々世代は「どういう日本を後代に引き継ぐのか」という世代の責任をもっと自覚する必要がある。

昨夏経済産業研究所に移籍したのを機に、以上のような考えを本にまとめてみた(「中国台頭」日本経済新聞社)。

まず本の冒頭では中国経済脅威論が誤っている理由、世上広く信じられている中国経済、対中ビジネスに関する多くの「常識」が如何に事実に反しているかを示した。「中国のせいで日本の貿易黒字が急減」といった一部の見方に反して、北東アジアの貿易は大きく見れば均衡していること(図3参照)などだ。一方、中国経済には深刻な悩み、弱みもあることを示し、等身大で中国を見るよう訴えたつもりである。また、その中で、一部で急速に実力をつけてきた中国の「民営企業」の横顔も素描してみた。

続けて本書は事実上の統合が進む東アジアの中で日本の強みをどのように活かし、如何なるメリットを掴みにいけばよいのかを論じてみた。経済を活性化するためには、定番の空洞化対策に「いっそう取り組む」だけでは埒があかない。アジアからの外国投資、観光客誘致、有能な技術人材の誘致、海外から日本への資金(含む投資収益)の還流促進・・・ヨソの国はどこでも力を入れているのに、日本が力を入れてこなかったことが多々ある。また、日本にとって有益な人材の入国も制限する入国管理制度、高すぎる法人税・・・多くの国内要因がメリットを掴み取ることを阻んでいる。東アジア、特に中国の現状を新しい目で見つめ直し、様々な分野でできる限りメリットを吸収する努力が必要ではないかと、なるべく具体例を挙げて論じてみた。

本書の後半は身の程知らずにも政治外交論だ。中国の台頭は経済面で脅威論をもたらすばかりではない。世界はつい数十年前まで、地域に新しいパワーが台頭すれば既成秩序との衝突が起き、たいていは戦争に至ったのだ。いまは帝国主義時代ではないとは言っても、東アジア、さらにはアジア太平洋地域が中国台頭に伴う既成秩序の「仕切り直し」を平穏裏に進めることはそれほど簡単なことではない。我々は中国の台頭を政治・安全保障面でどのように受け止め、対応すればよいのだろうか。

まず大切なことは日本自身の心構えだ。中国はおそらく崩壊しないし、その台頭を止める手だてもない。不安定材料は数多いが、中国が強力な安定化装置を内在していることが見落とされている。過去の分裂や混乱のせいで中国(人)がどれほど憂き目をみたかという民族の痛恨の記憶だ。

中国の台頭が止められないと前提したとき、まず日本人が国際関係をタテ型(上下の序列意識)で捉えるいまの認識枠組みを、「国と国は対等な立場で働きかけ合うものだ」というヨコ型に転換すべきだ。さもないと、いま中国の追い上げを不快がっている人がやがて「中国の顔色を窺う人」になってしまう。

日本はそのうえで中国と「競争と協調の関係」に立つことをめざす必要があると思う。バブル崩壊後、奮起のきっかけを探しあぐねてきた我々にとって、好ライバル中国の出現は願ったり適ったりだ。前向きに競争すると同時に、長期的視野に立ち、ウィン&ウィン型の日中協調関係を目指さなければならない。

また、中国台頭のショックをうまく吸収するためには、日中二国間関係だけでなく、東アジア地域内、WTOのような多国間、そしてアジア太平洋地域(日中米関係)など重層的な対話・協力の枠組みを構築することが不可欠だ。その点で中国自身が地域統合を重視し始めたことは良い徴だ。地域統合を通じて通商利益だけでなく民主・人権・安保など「仲間を組む」のに必要な相互信頼関係の醸成を図る必要がある。また、米国に東アジアの成長・統合に前向きに関与するよう促すことも極めて重要だ。日中ともに米国からは離れられないのだから、米国が「日中枢軸」といった疑心暗鬼に陥らないよう働きかけていくべきだ。

本書は最後に「日中関係」の将来を論じている。いまの日中間の相互不信、相互嫌悪を放置していては、いくらウィン&ウィンの経済関係といった明るい将来を唱えても虚ろに響くからだ。

この10年、日本の対中論調は中国にはっきり距離を置くようになった。それは根強い反日感情に対する疲労感に加えて「日中友好に努力しても徒労に終わる」という失望・悲観が拡がったせいではないかと思う。しかし、日本に急速に拡がった対中反感に驚いた中国は最近、日本を刺激することを避け、地域外交で対日重視に転ずるなど、バランスを欠いた過去の対日政策を大きく修正している。日本の異議申立の仕方はスマートではなかったが、一応功を奏した訳だ。

問題はその後だ。先方の態度にそういう変化があったら、それなりに呼応するのが大人の対応だと思うが、日本の対中論調は98年以来平衡を失ったままで、最近は中国を罵倒することが日本メディアの習い性になってしまった。しかし、お互い引っ越せない隣国との関係はもっと長期的な観点から大切にすべきだ。既に経済で大きな失策を犯した日本の現役世代が「中国とは末代まで仇でいろ」と言って日本を引き継いだら、「内憂外患」を引き継がれる後代の日本人が可哀想ではないか。後先も考えずに、鬱憤のはけ口を外に求めるようなことを続けていれば、結局日本自身の国益が害される。

そういう焦燥感をひとしお感じる理由は、いま中国で今後の日中関係に大きな影響を与えると思われる変化が起きつつあるからだ。中国には過去150年の間、分裂混乱の中で侵略を受け、筆舌に尽くせない辛酸を嘗めたという痛恨の記憶がある。これまでその心の傷(トラウマ)が巨大な歴史・反日タブーとして中国社会を覆ってきた。

特に過去の日本は光り輝いて見えた。「侵略した側がこんなに発展しているのに、侵略を受けた中国はこんなに後れて貧しい・・・」多くの中国人が割り切れない思いと劣等感に苛まれてきたはずだ。

しかし、その後中国が驚異的な経済発展を達成して世界の称賛を受ける一方、日本人は「失われた10年」で元気を失ってうつむいた。心の傷の癒しが始まり、中国人は日本人を従来より客観的に見られるようになりつつある。歴史・反日タブーはまだまだ根強いが、最近は国内の罵声を浴びることを承知で対日関係、対日政策の改善を訴える識者も増えている。「失われた10年」は悪いことばかりでもなかった。その意味で日中関係はいま「夜明け前」にある。

他方、「失われた10年」のせいで、今度は日本人の心が傷ついた。日本人が民族の誇りに敏感になり、戦勝国が定めた歴史の公定解釈に承服しがたい気持ちが募りつつある。戦前の日本にも大義名分や言い分はあった。白人の優越に対する異議申し立て、アジアの植民地解放などだ。しかし、「大義名分も言い分もあった」と主張するときは、同時にそれが多くの誤り、身勝手に満ちたものでもあったことも認めなければならない。戦前の日本が中国やアジア諸国に罪深いことをしたことは否定しようのない事実だ。

民族の誇りを護ることは大事だが、事実から目を背ける「甘やかし」になっては結局日本のためにならない。また、今後の日本が被害を受けたアジアと和解して共同繁栄の道を歩めるような環境を整えることも大事だ。

我々世代はこの問題について、日中双方の国民の心理の変化の上に立ち、ホンネと率直な反省を組み合わせた新しい日中和解を模索する責任があると考える。

そういう和解を達成することは日中両国の将来利益のためだけではない。他の多くのアジア諸国が地域の将来を左右する二大国が相互不信任と相互嫌悪の関係を早く脱してくれないものかと、気を揉みながら見ている。21世紀のアジアの課題は地域統合への努力を通じて共同繁栄・相互信頼に向かうことだが、そのカギは日中両国の和解が握っているのだ。

全ての課題に求められるのは日本の発奮、勇気、精神的な強さだ。「なにくそ!」の発奮を取り戻し、「変わる」勇気を持とう。躍進する中国を良きライバルに見立て、かつ、新しい日中友好関係を築いて日本という国にもう一花咲かせよう。中国のことを書き始めたが、結局本書は私なりの『頑張れ!ニッポン』論である。読者各位のご叱正をお願いする。