Research & Review (2002年9月号)

日本のバイオ・ベンチャー企業─その意義と実態

中村 吉明
客員研究員

はじめに

2000年6月26日、米国立衛生研究所のコリンズ博士とアメリカの民間企業のセレーラ・ジェノミクス社(以下セレーラ社)のベンダー博士が共同でヒトゲノムの全貌を明らかにしたことを宣言した。この発表が大きな反響を呼んだ最大の理由は、ヒトゲノムの全体像を人類史上初めて明らかにしたという技術的意義にあるが、さらにわれわれを驚かしたのは、その当事者の一方が民間企業であったという事実である。アロー(Arrow [1962])が指摘しているように、情報の専有可能性は限られており、このため、他社による模倣やただ乗りを排除することができず民間企業ではその投資に見合うリターンが得られないため、研究開発へのインセンティブが不十分であると考えられてきた。いいかえれば、ヒトゲノムという公共性が高い情報については、その広範な活用を妨げることがないよう専有性を限定し、その代わりに公共資金によって研究開発すべきであると考えられてきた。それだけに、ヒトゲノムのような基本的情報を民間企業が開発・供給するというビジネスが実際に成立しうるという事実は多くの人にとり驚きであった。

さらに注目を集めたのは、この企業が1998年に設立されたばかりのいわゆるバイオ・ベンチャー企業であったことである。今回のヒトゲノムの解読も、当初は米国立衛生研究所を中心とした公的研究機関がプロジェクトを進めてきたが、途中から参入したセレーラ社が大量な資金を市場から獲得し、精力的に解読を進め、一時は国際ヒトゲノム計画プロジェクトを凌駕する勢いであった。一バイオ・ベンチャー企業がなぜ国際プロジェクトを凌駕しかねないような力を持ちえたのだろうか。

この一例はバイオテクノロジーのようなハイテク産業におけるベンチャー企業の重要性を如実に示している。バイオ・ベンチャー企業の定義にもよるが、米国は日本の約六倍のバイオ・ベンチャー企業が存在するといわれている。もしセレーラ社の事例が示すように、ベンチャー企業がバイオテクノロジーにおける新たなイノベーションの起爆剤の役割を果たすはずであるならば、その日米格差は産業の発展に対して致命傷となりうる。

それでは、この日米格差はどこから生じているのだろうか。その実態を明らかにするため、日本のバイオ・ベンチャー企業に対し、質問票に基づいたインタビュー調査を行った。本稿では、この調査を用いて、日本のバイオ・ベンチャー企業の設立を阻害している要因を明らかにすることをめざす(注)。まず、バイオ関連産業におけるベンチャー企業の存在意義を考えてみよう。

バイオ関連産業におけるベンチャー企業の意義

第一に、バイオテクノロジー分野の研究開発における文化は、大企業のそれとは大きく違っている。バイオテクノロジー分野の基幹となる技術は基礎研究の成果から来ることが多く、このために、バイオテクノロジーの研究開発では、基礎研究が円滑に行える環境を持つことが必要不可欠である。こうした環境は、現場や市場と直結した製品開発を研究開発の主軸としている従来の大企業では育ちにくい。スタンフォード大学教授で、ジェネンテックやアムジェンと並んで成功したバイオ・ベンチャー企業の一つであるDNAXの創立者の一人でもあるコーンバーグ(Kornberg [1995])は、基礎研究では「研究は不規則なペースで進展し、画期的な成功を収めるには一見無益な作業も必要な」こと、「優れた研究条件のもと、自由で隠し事のない雰囲気」があって広く情報交換や共同作業が行われることが必要なことを述べ、「製品開発の精神的な重圧」や「秘密主義やスパイ行為」がのさばりがちな大企業の文化とは相容れないことを強調している。

第二に、上述のとおりバイオテクノロジー分野の研究開発は、基礎研究と密接な関係を持っている。したがって、その研究は不確実性が高く、研究計画を仮に立てていたとしても計画通りには進まず、研究開発の途上でその研究計画を軌道修正する必要がある。大企業ではこうした柔軟性が失われやすく、機動的な対応が困難になりがちである。したがって、ベンチャー企業のように研究計画をトップのリーダーシップによって軌道修正できる環境がバイオテクノロジー分野の研究開発には適していることが多い。

第三に、ベンチャー企業は小規模であり、また研究開発部門がその中心でもあるために、研究開発の成果が企業成果に直結し、研究者の研究開発へのインセンティブあるいは危機感は高い。アメリカのベンチャー企業で広く採用されているストック・オプションによる研究者への報酬体系はこのインセンティブをさらに高める工夫である。

第四に、研究開発に関して、ベンチャー企業は大企業と比較して大学と密接な関係を有している場合が多い。いうまでもなく、大学はバイオテクノロジー分野の基礎研究において重要な役割を果たしており、この研究成果をいかに産業に結びつけるかがバイオテクノロジー分野の研究開発の重要な論点である。もちろん、大企業は職員を研究生として大学に派遣し、大学の研究成果の移転を試みたり、共同研究を行ったり、奨学寄付金を供与したりして、さまざまな形で大学との研究交流を進めている。しかしながら、これらは原則的に契約を通じた関係である。ウィリアムソン(Williamson [1975])的な表現をするなら、市場取引である。一方、ベンチャー企業の場合には、大学発ベンチャー企業という形で、大学教員等が十分の研究成果を産業化するベンチャー企業を設立し、自らが主体となって産業化することができる。ウィリアムソン的にいえば企業内関係である。したがって、意志決定が迅速であったり、情報の伝播が素早く正確であったり、インセンティブが明確であったりすることによって、ウィリアムソンのいう広義の取引費用を最小化できる。

以上から、バイオ関連産業におけるベンチャー企業の存在意義が明らかになった。次に、日本のバイオ・ベンチャー企業六五社のアンケート調査の一部を紹介しよう。なお、以下の議論では、バイオ・ベンチャー企業調査結果を「技術系ベンチャー企業」一般についての調査結果と比較している。(榊原・古賀・本庄・近藤 [2000])。

バイオ・ベンチャー企業の起業時の障害

対象としたバイオ・ベンチャー企業が起業時の障害として一番多く指摘しているのは「スタッフの確保(研究者・技術者)」(53.8%)であり、「資金調達」(49.2%)が次いでいる。それから、若干パーセンテージは落ちるものの「入居先(ウェットラボ)」(23.1%)、「スタッフの確保(財務・会計・法務等)」(23.1%)が次いでいる。労働(ヒトおよびヒトに体化される技能・技術・経験などの人的資本)と資本(カネ・モノ)という二つの経営資源、特にヒトの問題が大きいことがわかる。一方、技術系ベンチャー企業は、起業時の障害としてヒトの面よりもカネの取得(「資金調達」)の困難さを挙げている例が多く、「スタッフの確保(研究者・技術者)」が起業時の障害の筆頭となったのは、バイオ・ベンチャー企業の特徴であると思われる。

この問題をさらに考えるため、まず、バイオ・ベンチャー企業と技術系ベンチャー企業の設立時従業員数を比較しよう。すると、バイオ・ベンチャー企業の常勤従業員と非常勤従業員の数は(それぞれ、3.85人、0.71人)、技術系ベンチャー企業のそれらと比べて(それぞれ、12.72人、3.36人)、はるかに少ない。これは、技術系ベンチャー企業のかなりの割合が製造業・サービス業(ソフトウェア、情報処理など含む)で占められ、生産やプログラミングなど労働集約的な業務に多くのスタッフが必要であるのに対し、バイオ・ベンチャー企業は研究中心で頭脳集約的であるため、必ずしも多くのスタッフを必要としないためのようである。

バイオ・ベンチャー企業の方が技術系ベンチャー企業と比べて設立時の従業員数が少ないのであれば、バイオ・ベンチャー企業の方が人員確保が容易のように思える。ただし、人的資本は人数だけではなく、その能力や知識など質も問題である。特に、バイオ・ベンチャー企業の場合は、博士号を取得して自主的に研究を行う能力のある従業員の不足感が強い。バイオ関係の博士号取得者数(1998年)をみると、米国の五八五四人に対して、日本は四七六人と少ない。しかも、日本では博士号取得者の多くが大学や大企業の研究機関等に勤務しているため、バイオ・ベンチャー企業のニーズに対応するほどの研究者の雇用の流動性はない。こうした現状から、バイオ・ベンチャー企業への勤務を希望する研究者が少なくなっている。

以上の状況に加え、国立大学教員等については、兼業規制が緩和され、自分の発明を事業化する企業への兼業が可能となり、その兼業数が徐々に増えてきた。また、2004年から国立大学は国立大学法人化することとなっており、大学教員等の定員管理がなくなるため、一度企業に転籍した研究者が大学に戻るなど、大学と企業間の雇用の流動化がさらに進む可能性がある。むしろ問題なのは、大企業の研究者について雇用の流動化が進まないことかもしれない。最近、大企業ではリストラの一環として基礎研究所の縮小を進めているが、その際、在席していた研究者を営業職など研究と関係ない部署に配置換えするなどしており、研究人材が外部に放出されない傾向がある。このことが結果的に研究者の雇用の流動化を抑制し、バイオ・ベンチャー企業によるスタッフの確保(研究者・技術者)を困難にしているという側面を否定できない。

次に、資本面、すなわち資金調達について考えてみよう。まず、バイオ・ベンチャー企業と技術系ベンチャー企業の設立時資本金の比較を行うと、ほぼ同じ水準である(バイオ・ベンチャー企業:4613万円、技術系ベンチャー企業:5200万円)。一方、現在資本金をみると、一億円強の差でバイオ・ベンチャー企業の方が多くなっている(バイオ・ベンチャー企業:2億1658万円、技術系ベンチャー企業:9600万円)。バイオテクノロジー分野の研究開発では分析装置の購入などで短期間に豊富な資金が必要となるため、現在資本金が多いものと思われ、それだけに、多くのバイオ・ベンチャー企業が資金調達における困難さを感じているものと推測される。また、アメリカと異なり、ベンチャー・キャピタルが未発達で資金力や審査・支援の能力に欠けていることや、既存の金融機関がベンチャー企業を評価する能力を持たないことを問題視する意見もあった。

おわりに

以上、日本のバイオ・ベンチャー企業の起業時の障害として多くあげられたのは、「スタッフの確保(研究者・技術者)」と「資金調達」であった。スタッフについては、実際の研究開発を主導的に行える博士号取得者に対するニーズが高いにも関わらず、これらの研究者は大学及び大手企業の研究機関等に偏在しており、バイオ・ベンチャー企業にまで必要な研究者が行き届いていないという実態がある。そもそも、これも米国に比較してバイオ関係で博士号を取得する人間が少ないことや、企業においても大学においても労働の流動性が低いという日本の雇用慣行がベンチャー企業の設立・育成に対してマイナスに働いているといえそうである。大学に関しては、国立大学の大学法人化等を背景に、今後、さらに人材の流動化が進むと思われるが、特に大企業における研究人材の流動化は課題となろう。

このように、日本のバイオ・ベンチャー企業の起業時の障害は、雇用や金融のシステムなど社会的・経済的な制度や慣行に依存しているところも多いため、一朝一夕に改善することは難しい。しかし、資金供給制度、税制、年金制度、教育制度などの改革により政策的に対応できるところが多いことも確かであり、今後一層の実態把握と政策的対応が進められなければならない。

(注)本稿は、文部科学省科学技術政策研究所の小田切宏之総括主任研究官との共同研究の一部である。詳しくは、中村・小田切 [2002]を参照下さい。

文献
  • 榊原清則・古賀款久・本庄祐司・近藤一徳 [2000] 「日本における技術系ベンチャー企業の経営実態と創業者に関する調査研究」、調査研究--73 、科学技術政策研究所
  • 中村吉明・小田切宏之 [2002] 「日本のバイオ・ベンチャー企業―その意義と実態」経済産業研究所ディスカッションペーパー(http://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/02j007.pdf
  • Arrow, Kenneth J. [1962] "Economic Welfare and the Allocation of Resources for Invention," Richard R. Nelson [ed.], The Rate and Direction of Innovative Activity, Princeton University Press.
  • Kornberg, Arthur [1995], "The Golden Helix: Inside Biotech Ventures," University Science Books.(コーン・バーグ著、上代淑人監修、宮島郁子・大石圭子訳『輝く二重らせん??バイオテクベンチャーの誕生』、メディカル・サイエンス・インターナショナル〔一九九七〕)
  • Williamson, Oliver E. [1975] Markets and Hierarchy. Free Press.(ウィリアムソン著、浅沼萬里・岩崎晃訳『市場と企業組織』、日本評論社〔1980〕)

この著者の記事