やさしい経済学―デジタル化の衝撃と人的資本

第5回 必要な戦略は「トヨタ生産方式」

中馬 宏之
ファカルティフェロー

川上・川下にまたがる企業間連携の幅と深さの拡大は、実行までの意思決定を先延ばして将来の不確実性を軽減するという大きな副産物をもたらします。各社の事業戦略上の選択肢(オプション)が広がるからです。経済学ではこのような将来の不確実性に対処するための意思決定の選択肢のことをリアルオプションと呼びます。先物市場におけるファイナンス(金融)オプションをリアル(実物)に対比させた概念です。

豊富なリアルオプションは、企業間の迅速・詳細なコミュニケーションを可能にするデジタル情報のたまものです。アナログ情報は鍵と鍵穴の関係に象徴されるように、3次元構造に依存する制約があり、コミュニケーションが局所的になりがちです。これに対し、デジタル情報交換ではコミュニケーションに必須のインターフェースを自由に拡張・圧縮できるうえ、標準化されるほど広い範囲で情報の転送・応答速度や効率が上昇します。

多段階競争が頻発する時代には市場や技術の変化が加速するため、決め打ちのリスクが巨大化します。しかも製品・システムが複雑になるほど投資規模と埋没固定費用が大きくなるのでリアルオプションの確保が死活的に重要になります。つまり決定を最後の最後まで遅らせて自由度を確保しながら、決定後は速やかに実行に移す戦略です。

不確実性の大きな環境下で不可欠のリアルオプション戦略ですが、その本質はトヨタ生産方式(TPS)と同じであることはあまり知られていません。それはソフトウエア開発法で名高いポッペンディーク夫妻がTPSの本質とした次の6点からうかがえます。(1)ムダを排除する(2)学習効果を高める(3)決定をできるだけ遅らせる(4)できるだけ速く提供する(5)チームに権限を与える(6)全体を見る-。

このうちリアルオプション戦略に直接相当するのは(3)と(4)です。トヨタ用語では「後工程引き取り(決定をできるだけ遅らせて最後まで待つ)」と「タクトタイム(工程内処理時間)短縮(決定後にできるだけ速く提供する)」です。つまり、日本発のTPSがデジタル化時代の本質を先取りしていたのです。

2017年5月23日 日本経済新聞「やさしい経済学―デジタル化の衝撃と人的資本」に掲載

2017年6月6日掲載

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