戸別所得補償-農業の構造改革に逆行

山下 一仁
上席研究員

所得は、価格に生産量をかけた売上額からコストを引いたものであるから、所得を上げようとすれば、価格または生産量を上げるかコストを下げればよい。農産物のコストは、1ha当たりの肥料、農薬、機械などのコストを1ha当たりどれだけ収穫できるかという単位面積当たりの収量(単収)で割ったものである。したがって、コストを下げる方法としては、規模拡大による1ha当たりのコスト削減と単収増加の2つがある。

我が国農政は、コストを下げるのではなく食管制度の下で米価を上げて農家所得を向上させようとした。総農地面積が一定で一戸当たりの規模が拡大すると、農家戸数は減少させなければならない。農家戸数を維持したい農協は、農業の構造改革に反対した。

農協の思惑通り、生産者米価引き上げによって、本来ならば止めるはずのコストの高い零細農家も、町で高い米を買うよりもまだ自分で作った方が安いので、農業を継続してしまった。零細農家が農地を出してこないので、主業農家の規模拡大は進まなかった。

消費は減り生産は増えたので、米は過剰になり40年も減反している。食管制度が1995年に廃止された現在、米価は生産量を制限する減反政策によって維持されている。年間約2000億円、累計総額7兆円の補助金が、他産業なら独禁法違反となる減反というカルテルに、農家を参加させるためのアメとして、支払われてきた。総消費量が一定で単収が増えれば、米生産に必要な水田面積は縮小し、減反面積が拡大するので、減反補助金が増えてしまう。このため、単収向上のための品種改良は、タブーとなった。日本の米単収はカリフォルニアより4割も少ない。減反政策は単収向上によるコストダウンを妨げた。

民主党政権の「戸別所得補償政策」は減反参加を支給条件とした。EUが農産物価格を引き下げて所得補償に切り替えたのと違って、日本は減反政策で米価を維持した上に3320億円という戸別所得補償が上乗せする。減反補助金と合わせると5604億円だ。

「戸別所得補償政策」は、米生産はコスト割れしているので、コストと米価の差を、零細兼業農家を含めほとんど全ての米農家に支払うというものだ。しかし、コスト割れしているのなら、生産できないはずだ。「コスト」が米価より高い理由は、肥料、農薬など実際にかかった経費に、勤労者には所得に当たる労働費を農水省が計算して加えた架空のコストだからである。農水省の統計でも販売収入から経費を引いた米農家の農業所得は、零細な兼業農家が多いので平均では39万円だが、20ha以上では1200万円であり、コスト割れなどしていない。

米価が低下すると戸別所得補償は増額され、この架空のコスト水準での農家手取りは常に確保される。逆に米価が上がっても、戸別所得補償は減額されない。つまり、農家にとってはこの架空のコスト水準以上の米価引き上げとなる。これでは、零細な兼業農家も農業を続けてしまう。それどころか、主業農家に貸していた農地を“貸しはがす"事態も生じている。米作の規模は縮小し、コストは上がる。

米価はこの10年間で35%も低下した。減反を強化しても過去40年間で半減した米消費の減少に追いつかなかったからだ。今後は高齢化で1人の食べる量が減少するうえ人口も減少するので、米の総消費量はさらに減少し、米価は低下する。上るコストと下る価格の差を補てんする戸別所得補償に必要な財政負担はますます増加する。これでは、3Kと言われた食糧管理制度の時代へ逆戻りである。

米価が下がっても農家は困らないが、米価に応じて手数料収入が決まる農協は困る。自民党政権時代は、米価が下がると政府は市場から買い入れて米価を戻してきた。民主党政権になってから、農協の度重なる要請にもかかわらず、赤松、山田の2大臣はこれを拒否した。米価が下がっても戸別所得補償をすれば、農家は困らない。小沢一郎氏や彼に近い赤松、山田両大臣は、戸別所得補償で農家と農協の間に楔を打ち込み、自民党と二人三脚で発展してきた農協の力をそごうとしたのだ。戸別所得補償で農家票を直接捕まえようとしたともいえる。

戸別所得補償は米の先物市場にも影響した。米価低落に歯止めをかけたい農協は、米の入札取引が行われていた全国米穀取引・価格形成センターを利用するのを止め、卸売業者との相対取引に移行した。農協が5割を超える市場占有力を持って、卸売業者と直接交渉すれば、米価に強い影響力を行使できる。

しかし、これは農協には裏目に出た。米の先物市場は、米価操作ができなくなることを恐れた農協の反対で、自民党政権の下では認められなかった。ところが、民主党の戸別所得補償は、「コスト」と市場価格との差を補てんするものだ。その市場価格について、客観的な指標を提供するためとして、商品取引所は米の先物市場を申請し、農水省は認可した。農協は先物市場反対の全国運動を展開したにもかかわらず、完敗した。

そもそも、給与水準を引き下げられた勤労者や、シャッター通り化し廃業を余儀なくされた商店主は所得補償されないのに、なぜ勤労者世帯よりも高い所得を得ている裕福な兼業農家に納税者が所得補償しなければならないのだろうか。国民は、この政策にもっと関心を持つべきだろう。

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週刊「世界と日本」 平成23年10月24日号に掲載

2011年10月26日掲載

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