消費者重視の農政を進めた巨人・和田博雄を忘れるな

山下 一仁
上席研究員

日本の農業は過剰で間違った保護に守られてきたため、いまや危機状態にある。かつての農政は既得権益に抵抗し、「真実の生産性を荷っている者」(柳田國男)を育成するため、農業の構造改革を行うのだという意気と気概にあふれていた。そのリーダーが和田博雄だった。和田の思想と精神を再び、見直すときが来た。

第1次農地改革はGHQの指示ではなかった

戦前の日本農業には小作人の解放と零細農業構造の改革という課題があった。農林省に勤務した柳田國男や石黒忠篤(戦前2度農林大臣を務める)らは、収穫物の半分を小作料として召し上げられる小作人の地位向上や農業の規模拡大に尽力したが、強大な政治力を持つ地主勢力と帝国議会に阻まれ続けた。

農地改革は、地主階級に支持された保守党の中では異色の自作農主義者、松村謙三が、1945年10月幣原内閣の農林大臣就任直後の記者会見で「農地制度の基本は自作農をたくさん作ることだ」と発言したことが発端である。

GHQ(連合国軍総司令部)の指示はない。というよりこの時GHQは農地改革に関心がなく、農林省による農地改革案の説明に対し"ノー・オブジェクション"と答えたのみである。

悲願達成に燃える農林省はすばやく対応した。法律原案ができたのは松村の大臣就任の4日後、国会への法案上程は1カ月後という異例のスピードだった。局長として松村を補佐したのは、企画院事件(治安維持法違反)の主謀者として、部下の勝間田精一(後の社会党委員長)、稲葉秀三(後に産経新聞社社長)らとともに3年間投獄され、9月に無罪判決を受けたばかりの和田博雄だった。

第1次農地改革の内容は、不在地主の所有地のすべておよび在村地主の5ヘクタールの保有限度を超える農地を地主との交渉によって小作人に買い取らせるというものであった(松村大臣の案は1.5ヘクタールだったが、「過激すぎる」とした農林省当局の説得により3ヘクタール、5回も行われた閣議で所有権絶対主義者、松本国務相の執拗な反対により5ヘクタールで決着がついた。5ヘクタールとなったとき松村は涙したといわれる)。

議会は戦前に続きこれを葬り去ろうとするが、12月GHQによる農地改革の覚書が出たため、わずか13日で国会を通過した。しかし、その後、地主の保有限度を5ヘクタールとしたことは不徹底である、国家が直接買収すべきであるという理由で、第1次農地改革はGHQから反対され、第2次農地改革が実施されることとなる。

局長から次官を飛び越えて43歳の農林大臣に

終戦直後の食糧危機に直面する中で組閣の大命を受けた吉田茂は、この内閣は食糧内閣だとして、農林省の嘱託医だった親類の武見太郎(後に日本医師会会長)を通じ公職追放中の石黒忠篤と相談したうえで、シュンペーターの高弟、東畑精一東大教授に農相就任を懇請した。これが武見と政治との関わり合いの始まりである。しかし、吉田自ら何度も説得を重ねたにもかかわらず、終戦直後東京の米倉庫に3日分の米しかなく、さらに45年産米の大凶作が追い打ちをかけるという食料不足の状況で、東畑に断られてしまう。吉田は組閣を諦めかけるが、和田を局長から大臣にすることで踏みとどまった。43歳の大臣誕生である。地主勢力に支持された与党自由党は第1次農地改革の担当者である和田に反対し吉田内閣も消えそうになったが、三木武吉の機転でやっと吉田内閣が実現した。和田は、1000万人が餓死するという流説が飛び交うなかで未曾有の食料危機を凌ぐとともに、与党の強い反対にも屈せず戦前からの農林省の悲願であった第2次農政改革を遂行した。

農地改革の実現には議会の反対が強い中でGHQの力を借りた。しかし、財閥解体等、他の改革と違い、日本政府から自主的な改革案が出されたのはこれのみであった。後にアメリカは日本の成功を他のアジア諸国に適用しようとするが、台湾を除きすべて失敗している。農林省の改革への情熱がなければ「非共産主義世界で行われた農地改革のなかで最も徹底したもの」(吉田茂)、「歴史上最も成功した農地改革」(マッカーサー)は実現しなかった。

和田安本と戦後の経済復興

経済安定本部、通称"安本"はマッカーサーの指示によりできた経済政策全般にわたる強大な権限を持つ空前絶後のスーパー官庁だった。第2次吉田内閣の組閣に際し、吉田(安本総裁兼務)は経済安定本部総裁審議室に(1)安本入り後直ちに強力な施策を実施できる人物、(2)各省の事情に精通し、かつ各省の人材を抜擢して安本を強化しうる人物、(3)有沢、東畑等学者グループの全面的支持を得られる人物を推薦するよう要請したところ、総裁審議室は一致して和田前農相を推挙した。しかし、自由党は再び和田に反対したため、吉田は石黒に和田の自由党入りを勧めさせることによって事態を打開しようとした。このような吉田の行動に対し石黒は「唯一敬愛の貴台より俗悪無比の連中の条件を和田に勧誘すべく尊書を拝するにおいては、最早万事おしまいに候。斯様にして成立候安本は何の価値かこれ有るべき」という激烈な手紙を送り返し、和田長官は実現しなかった。ただし、このとき和田が「俗悪無比の連中の条件」を飲んで自由党に入党していたら、和田のその後の運命は変わっていたにちがいない。和田こそ、池田勇人、佐藤栄作の前に吉田がその非凡な能力に惚れ込んだ官界最高の逸材だったからである。永野重雄、片山哲、太田薫、ライシャワー等、和田総理の夢を見た人は少なくない。

和田は続く片山内閣の安本長官として傾斜生産方式(終戦後、日本経済の緊急復興のため石炭、鉄鋼業に資金、資材を重点的に投入、増産された石炭、鉄を基幹産業に回し、復興を図った)の実現に尽力する。傾斜生産方式は、吉田内閣時代和田農相が幹事役(書記役大来佐武郎)となって開かれた吉田首相と有沢広巳、中山伊知郎、東畑精一、茅誠司らの学者グループとの定期昼食会の席上、有沢が出したアイデアであった。和田だったから政権党の違う内閣の傾斜生産方式を継続したのだ。和田はかねてより都留重人、大来佐武郎と交わしていた構想に基づき第1回の経済白書を刊行している。経済白書のなかで最も評価の高い都留白書である。和田は最初の経済計画の作成を稲葉秀三に命じている。金森久雄氏が所得倍増計画と並び評価する『経済復興計画』である。総裁審議室の予言どおり、和田の下には、都留、稲葉、大来のほか、(新日鉄誕生の立役者)永野重雄、(倉敷紡績)大原総一郎、勝間田清一、山本高行、平田敬一郎、大平正芳、橋本竜伍、下村治、佐々木義武、東畑四郎、坂田英一、後藤誉之助、大川一司、佐伯喜一らその後の日本再建を担った多くの人材が参集した。安本の絶頂期である。しかし、その権限が予算編成権にまで及ぼうとしたため、大蔵省事務次官池田勇人との抗争が生じ、これが社会党右派と左派の激しい対立を引き起こし、片山内閣は総辞職した。

国民経済の中に位置付けた農業・食料政策

戦後の農政は国民に食料を安い価格で公平に供給するという消費者行政だった。経済復興を図るためには労働費を抑制しなければならない、そのためには労働費の大宗を占める食料費すなわち農産物価格を抑制しなければならない、しかし、農産物価格を抑制すれば食料増産ができなくなる。このディレンマを解消する奇跡的な政策が農地改革と傾斜生産方式だった。小作人に農地の所有権を与え、生産意欲をかきたてるとともに、傾斜生産方式による石炭増産を伴う化学肥料の増産により、米価を下げても生産は増加した。米価の抑制、農地改革、傾斜生産方式、これら全てを実施したのが和田だった。

農業・食料政策は経済全体の中に位置付けられ、立案された。農政が農業界の論理だけに引きこもることはありえなかった。和田は農地改革の意義として、全就業者の5割を占める農業の経済力拡大によって海外市場を失った工業に対する国内市場の拡大、経済再建を挙げている。和田は、農林省の伝統的な農本主義の考え方ではなく、もっと広い見地から農業を見るべきだと考え、それにふさわしい人物として東畑精一を所長に迎え、46年農林省に農業総合研究所を設立した。通産省の研究所設立に先立つこと実に40年前である。

和田は今日忘れられた存在となってしまったが、和田による傾斜生産方式や経済復興計画なくして池田の所得倍増計画もなかったはずだ。経済計画という行政手法自体和田のアイデアである。和田が行政機関の長として活躍したのは農林大臣、安本長官在任中のそれぞれ8カ月、合わせて1年4カ月にすぎない。そのわずかの期間に戦後日本の経済復興政策が実行されたのだ。

社会党のプリンスであり、大きな政策集団のリーダーでありながら、労働組合に基盤を持たない「知性の人」(東畑の表現)和田は、政権への展望を持たない社会党内の派閥抗争により消耗しつづけ、ついに委員長になれずに政界を引退する。

農政のもう1つの課題である零細農業構造を改善するという仕事を受け継いだのが東畑精一と小倉武一による61年農業基本法だった。農業の規模拡大・生産性向上によるコスト・ダウン等によって農業構造を改革し、農工間の所得格差を是正することを目的とした農業基本法は、柳田以降の農政改革思想の集大成といってよい。しかし、皮肉にも基本法が作られた61年から農政は逆コースを走りだす。農家所得の向上のため米価を上げた結果、米作りをやめない零細兼業農家が存続し、農業の構造改革は進まなかった。米が過剰となる一方で食料自給率は低下した。食料安全保障に不可欠な農地も農地改革で解放した194万ヘクタールを上回る230万ヘクタールが、小地主となった農家による宅地への農地の切売り等により消滅した。

戦後復興期と現在行政の比較

戦後間もない行政と現在の行政と比較する時、1つの共通点がある。経済学者、民間有力者の政策中枢への登用である。戦後期と同じく従来の行政能力では対応できないほどの危機や難題があるからだろう。しかし、かつて有沢や東畑たちと対等に議論できた和田や大来のような人材が今の行政にどれだけいるのだろうか。和田だけでなく柳田(農政学、民俗学)、石黒(農業経済学会第2代会長)、小倉(農学博士、25年間政府税調会長)は全て法学部出身、大来は工学部出身で、経済学は独学に近い。マーシャル、ケインズ、ハイエク等5000冊、トラック4台分にも及ぶ和田の膨大な蔵書が残されている。伊東光晴京大名誉教授はかつて都留重人氏に「君はシュンペーターの本を書きながらシュンペーターの処女作の独文原書(学者の垂涎の的である)を持ってないのか」とからかわれたというが、その都留氏の所有物は和田から譲られたものである。

安本長官時代の秘書官は「和田長官は(国会)答弁メモを必要としない大臣でしたよ。行政のトップは本来ああいう風にあるべきなんです。国会答弁でイキナリ我々が知らなかったロバートソンなんていう経済学者の名前が飛び出したときなんぞ、斎藤誠君(後に農林次官)らとウナリましたよ」と述懐している。和田が研究所を創設した目的の1つは「日本の役所からも農業関係についてはその道の人から相当尊敬される学者―行政官であると同時に立派な学者が出る」ようにしたいというものだったが、農業と政治との関わりが深くなるにつれ、そのような理想ばかりか和田本人さえも忘れられていった。

また、中曽根康弘氏が「理念一貫の清貧な古武士」と評する松村謙三がいなければ農地改革は行われなかった。農地改革に続き平成の農政改革を実行するためには、科学的行政を行う能力・質の高い行政官とともに、松村のような強い政治的リーダーシップが必要だろう。

歴史の変わり目には、楠木正成、織田信長、坂本龍馬、高杉晋作ら意外なところから予想もしない人物が登場し、活躍する。戦後60年を経過した新年に松村や和田のような人物の登場を期待したい。

2005年2月1日 毎日新聞社『週刊エコノミスト』に掲載

2005年2月1日掲載

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