開発援助 研究力高めよ

澤田 康幸
ファカルティフェロー

日本は1990年代を通じて世界最大の政府開発援助(ODA)供与国であった。だが近年ODAの一般会計予算は減少し、2007年の実績は世界第5位に転落した。そうした中、旧国際協力銀行(JBIC)の円借款部門と国際協力機構(JICA)が10月1日に統合し、新JICAが誕生した。世界最大の二国間援助機関となる新生JICAには、無償資金協力・技術協力・円借款という従来の各援助スキームを有機的に複合し、援助額自体が削減される中で援助の質を高めることが期待されている。またJICA研究所が新設され、研究機能と対外発信の強化を目指すとされている。日本の開発援助の中で、学術研究をどう位置づけるべきであろうか。

◆◆◆

JICA研究所がうたう「対外発信」のためには、いうまでもなく対外的に発信可能な、国際基準の「知的生産」が不可欠である。

政策担当者との議論でしばしば感じるのは、「何が知的生産であるのか」ということについての認識のギャップだ。知的生産とは、援助実務に応用可能な汎用性の高い知見を生み出すための研究活動である。その成果発表の場は、当該分野のプロ中のプロである匿名レフェリーによる厳しい査読プロセスを戦い抜いた、国際競争力のある研究論文が次々に公表される国際学術雑誌ということになる。

つまり知的生産とは、定期的に研究会を開いたり、調査報告書を書いたり、国際会議で流ちょうな英語の報告をしたりすればよいだけではない。それは、国際競争力をもつ緻密な学術研究活動という根幹を持ち、研究会・報告書・国際会議などの一連の「場」を生かすことである。この根幹があってこそ、対外発信が可能となる。

学術雑誌掲載を目指す研究は「実務に役立たない研究のための研究」であるとの批判をよく耳にするが、大きな誤解だ。開発経済学の先端研究は、マイクロデータと呼ばれる個人や企業などの個別の情報を、統計調査やフィールドでの実験で収集し、エビデンス(証拠)に基づいた緻密な開発政策論を展開している。

これらの研究では、ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏率いるグラミン銀行が創始したマイクロファイナンスの有効性や成功のメカニズム、様々な教育・保健政策の効果が厳密に検証されてきた。例えば、メキシコでの大規模な就学条件付きの公的扶助政策が貧困削減に有効であることなど、実務への重要な教訓が得られている。

学術雑誌の厳しい査読プロセスは、エビデンスに基づいた新たな知見や政策論の質を正確に判断するために、世界中の見識が最大活用できる効果的な仕組みと考えるべきだ。これを裏付けるように、世界の開発政策をリードする論客の主張や、国際援助潮流の源である世界銀行のフラグシップ(基幹誌)たる年次報告書「世界開発報告」の正当性が、緻密な学術研究という形態での「知的生産」に基づいているということを、我々は認識すべきである。

◆◆◆

こうした観点で見ると、従来の日本の開発援助研究は、緻密なエビデンスに基づかず、学術的裏付けのない体験談や、国際機関の報告書や既存研究を要約したような疑似の知的生産であり、長期の効果を持つ国際的な知的発信に役立ってきたとはいえない。一方で、これまでの日本のODA活動自体には、先端研究の流れからみても対外発信に耐えうる優れた経験が数多く存在する可能性がある。

例えば旧JBICが実施してきた円借款は、インフラ建設を通じてアジア諸国の経済発展や貧困削減に寄与してきた可能性が高く、タイの東部臨海工業地域開発は円借款が大きく貢献し、タイの経済発展の原動力となったといわれる。また世界各国での旧JICAの技術協力にも多くの成功事例があるとされている。例えば、日本の経験に基づいたインドネシアでの母子手帳の普及は、乳幼児死亡率の低下や妊産婦の健康行動改善に役立ったとされ、頻繁に取り上げられる事例である。

このほかにも、教育・医療・環境・農業・製造業など様々な分野での無数の技術協力プロジェクトが様々な成果を生んできたことが「現場の声」として報告されてきた。

大変残念なことに、しばしば語り継がれてきたこれらの「現場の経験」が厳密に検証され、国際的学術研究の俎上にのり、その知見が有効に対外発信されることはほとんどなかった。ごく最近、日本の研究者による「世界開発報告」への積極的な研究貢献が見られるなどの例があり、そういった研究活動を今後も強く支援していくべきであるが、現状ではこういった事例はむしろ例外的である。

日本のODAには、先端的手法を用いながらエビデンスに基づいて現場の知見を検証し、国際的に共有できる知識とするための知的生産活動が決定的に欠けている。このことは、国際学術雑誌における日本のプレゼンスの低さにも表れている。筆者の調査によると、開発研究分野の権威ある学術雑誌「ジャーナル・オブ・デベロップメント・エコノミックス」「エコノミック・デベロップメント・アンド・カルチュラル・チェンジ」「ワールド・デベロップメント」の3誌において、2000年から07年半ばまでに掲載された日本人研究者の論文の割合は、それぞれ全体のわずか4、5、2%にも満たない。「ODAという金は出すが知恵は出せない日本」の実態がここにある。

新JICA研究所での最大の課題は、知的生産体制の整備にある。国際開発高等教育機構(FASID)やアジア経済研究所などと異なり、高度な学術知識を持つ専任の研究者集団はJICA内部に存在しない。半面JICA外部でも日本の開発研究者の層は薄く、国際競争力のある研究に携わる学者は限られる。

こうした状況で、知的生産体制の未整備という課題を解決する有効な方法は、JICA内部の研究能力構築であろう。例えば、学位を持ちながらも実務に忙殺されている職員が、実務と有機的に結びついた研究を政策実践の一環として行えるような環境整備を行っていくことや、意欲ある職員が働きながら実務に役立つ研究を重ね、博士号を取得できる再教育の場を設けることである。また、国際開発への情熱を持ち、優れた研究成果を出す潜在能力のある若い研究者を国内外から積極的に選抜・登用し、実務と連動しつつも研究に集中できる環境を整えることも必要だ。

このように、大所高所の視点から実務と研究を有機的に統合する仕組みを思い切って構築することは、これからの若く優秀な人材を開発の世界に引きつける求心力にもなるだろう。こういった組織の設計には時間がかかるかもしれないが、必ず成果が出るはずだ。短期の疑似知識生産のために貴重なりソースが浪費されてはならない。

◆◆◆

新JICA研究所の期待されている役割は、開発の現場で蓄積されてきた「経験知」に対し、エビデンスに基づいた厳密な検証を加え、それを体系化し、世界で共有可能な知識、すなわち「国際公共財」にしていくことだ。ここで有効となる「核」が、国際競争力のある緻密な学術研究を積み重ねるという知的生産の手法である。

また将来の課題として、新たな開発課題に挑戦するような斬新なアイデアの構築と実施に取り組み、政策形成にも積極的にかかわっていくという前向きの知的生産も必要であろう。これには、援助機関と企業との官民連携という、現在進行形の新しい援助手法の検証が含まれる。一例として、住友化学が開発した画期的な蚊帳がある。これは、安価ながらマラリア感染率低下に有効であることが学術研究で明らかにされており、アフリカのサブサハラ(サハラ砂漠以南)地域では二国間・多国間援助を通じた支援・普及が急速に進んでいる。

今後は、これら新しい手法が生み出す、より広い貧困削減への社会経済インパクトを厳密に計測し、その知見を国際公共財として発信し、貧困削減政策の実践にも生かしていく努力が必要であろう。こういった新しい試みを知的生産の場に持ち込むことが次の課題である。

2008年10月31日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2008年11月11日掲載

この著者の記事