客観的評価の反映 不可欠

岡崎 哲二
ファカルティフェロー

戦後70年にわたる日本経済の歴史において、様々な産業政策(政府、特に旧通産省・経済産業省による産業に関するミクロ的介入政策)が実施されてきた。本稿では、日本経済の実態の推移とそれに伴う政策課題の変化に注目して歴史を3つの局面に区分し、各局面でどのような課題に対してどのような産業政策が実施されてきたかを振り返る。

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図は、日本と米国の1人当たり実質国内総生産(GDP)と、全要素生産性(TFP)の日米比を示している。1人当たり実質GDP(対数値)については、グラフの傾きが成長率を表している。

図:戦後日本の経済成長と対米キャッチアップ
図:戦後日本の経済成長と対米キャッチアップ
(注)日米の1人当たり実質GDPは対数値、各国の通貨を購買力平価をもとに1990年の共通のドルに換算
(出所)Maddison project データ、Jorgenson, Nomura and Samuels (2015)より筆者作成

戦後の日本経済は、成長率によって3つの局面に区分できる。第1は1945~73年の復興・高度成長期で、この期間の1人当たりGDPの年平均伸び率は7.6%に達した。通常、55年以降が高度成長期と呼ばれるが、それ以前の復興過程の成長率もほぼ同等の水準にあった。第2は74~90年の安定成長期で、1人当たり実質GDP伸び率は大きく低下したが、なお年平均2.9%の比較的高い水準にあった。第3はいわゆる「バブル崩壊」後の低成長期で、91~2010年の期間、1人当たり実質GDP伸び率は年平均0.8%に低迷した。

こうした実体経済の推移に応じて、政策当局と業界団体・企業などの民間経済主体との相互作用を通じて、様々な政策課題が設定され、それを解決するための産業政策が立案・実施されてきた。

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復興・高度成長期には、基幹的な産業を再建・育成することが主要な政策課題とされた。終戦直後には、石炭生産の回復とそれに必要な鉄鋼の増産を目指した、いわゆる「傾斜生産」が実施された。

この著名な政策は、戦後の産業政策の歴史の中で特殊な性格を持つ。当時の日本経済は統制経済を基本的枠組みとしており、傾斜生産も政府による物資の割り当て・配給、資金の割り当てなど統制的な手段を用いて実施された。市場での競争が制限されていたため、傾斜生産は生産の量的な回復という点では一応目的を達した半面、企業の生産性低下や高率のインフレなどマイナスの副作用を伴った。

49年に、いわゆる「ドッジ・ライン(財政金融引き締め策)により日本経済が市場経済に移行したのに伴って、産業の復興・育成という目的を継承しつつ、産業政策の手段は大きく変化した。特に市場経済移行から数年の間に、統制に代わる新しい政策手段が相次いで整備された。

第1に政策金融機関として日本輸出入銀行、日本開発銀行などが設立された。第2に、企業合理化促進法(52年)により、設備投資に対する税制優遇措置が導入された。そして第3に同じく企業合理化促進法により研究開発に対する補助金制度が導入された。政策金融、税制優遇、研究開発補助は、今日に至るまで産業政策の基本的な政策手段として用いられてきた。

ほかにも50年代に固有の政策手段として外貨割当制度がある。この時期、外貨はすべていったん政府に集められ、「外貨予算」に基づいて民間に配分された。外貨予算案のうち貨物輸入に関する部分は通産省が作成し、さらに「外貨割当制物資」を輸入する場合は個別に各企業が通産省に申請して外貨割り当てを受ける仕組みであった。この制度は産業政策の有力な手段として用いられた。例えば、通産省は特定の財を輸入するための外貨割り当てを限定することにより、事実上の輸入数量制限が可能であった。

高度成長期に通産省は、これらの政策手段を組み合わせて、多くの産業政策を展開した。電力や鉄鋼に関する設備近代化政策、合成繊維・自動車・石油化学などの新規産業の育成政策などが代表的だ。こうした高度成長期の産業政策が、通産省の産業政策を特定産業の育成を目的とした「ターゲティング」政策と特徴づける見方の背景にある。

一方、高度成長期には、賃金上昇により比較優位を失った石炭や天然繊維など、衰退産業に対する施策も産業政策の一環として実施された。そして日本経済が第2局面を迎えた70年代後半以降、衰退産業に対する施策が産業調整政策として中心的な位置を占めるようになった。この時期、経済のマクロ的成長が減速しただけでなく、石油価格の大幅上昇のため、基礎素材産業を中心に多くの産業が「構造不況」に陥ったからである。

これらの産業を、摩擦を避けながら縮小することが産業調整政策の課題であった。そのため制定されたのが特定不況産業安定臨時措置法(78年)や特定産業構造改善臨時措置法(83年)という一連の法律である。通産相が指定した構造不況産業について設備処理計画を策定し、その実施を政策金融、税制優遇と共同行為の独占禁止法適用除外などで支援する仕組みであった。

これらの政策は産業調整には効果を持ったが、日米経済摩擦の中で、米国からの批判の対象となった。米国政府は、日本の産業政策が経常収支不均衡や米国産業の衰退の原因になっていると批判した。これを受けて80年代後半以降、特定の産業全体を対象とした産業調整政策は姿を消した。

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91年に資産バブルが崩壊して日本経済は第3局面に移行し、産業政策も再び大きく転換した。90年代以降、産業調整に代わり、経済構造改革が主要な政策課題とされた。経済構造改革には、当初は米国の批判に対応した制度の国際協調という側面があった。だが日本経済の長期停滞が明確になるにつれて、新たな成長基盤の構築のための施策と位置づけられるようになった。

90年代以降、新しい成長基盤が求められた背景には、経済の停滞に加えて、もう1つの重要な要素がある。

図が示すように、このころ日本は1人当たり実質GDPだけでなく、TFPでもほぼ米国と肩を並べるまでになった。日本経済は世界のフロントランナーとなった。これは、日本経済が先進国からの技術導入と改良という明治以来の成長パターンから、自らイノベーション(技術革新)を創出する成長パターンに移行する必要が生じたことを意味する。そのために経済システム全体に関する構造改革が必要だと考えられたのである。

90年代後半以降、通産省・経産省は政府の経済構造改革政策の立案に関して主導的な役割を担ってきた。そして経済構造改革政策としての産業政策は、今日の「成長戦略」に継承されている。実際、先月発表された成長戦略でも、産業の新陳代謝を促進するための方策として、金融資本市場や労働市場などに関する制度改革が強調されている。20年以上にわたり日本経済が直面し続けている、新たな成長パターンヘの移行という課題を考えると、こうした成長戦略の方向性は妥当であろう。

ただし、実施の仕方には改善の余地がある。これまで日本では、産業政策の結果に関する客観的評価を政策に十分にフィードバック(反映)してこなかった。一方で経済学分野では、データに基づいて定量的に政策評価するための手法が確立されている。今後の産業政策の実施にあたっては、実施過程で中間的にその効果を検証して施策を調整するとともに、最終評価により次の政策のための知見を蓄積していくことが重要である。

2015年7月15日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2015年7月15日掲載

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