教育予算を考える 「社会的収益率」を基準に

小黒 一正 コンサルティングフェロー

人種差別の撤廃に尽力し、南アフリカ初の黒人大統領となったネルソン・マンデラ氏は、「教育は最強の武器である。教育によって世界を変えることができる」と述べている。すなわち教育は未来を担う次世代への投資であり、「国家百年の計」そのものだ。ところが現下の厳しい財政事情のなか、社会保障費を除き、教育予算を含むその他の政策的経費は抑制傾向にあり、教育予算の財源をどう確保していくのか、日本はいま大きな課題に直面している。

そのような状況の下、賛否両論が渦巻くものの政治が本格的に検討を進めているのが、新たな財源を確保するための「教育国債」や「こども保険」構想などだ。教育国債は大学を含む高等教育の財源拡充を目的とする国債を発行するもので、こども保険は幼児教育や保育の無償化などを目指し、財源を社会保険料の引き上げ分で賄う構想だ。

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こうした事業を考える場合、一定期間の便益と費用を比較する便益費用分析の観点で効果を測る必要がある。教育予算では「教育の収益率」が重要な指標の1つとなる。

教育の収益率とは、教育を人的資本への投資とみた場合の収益率を意味し、「私的収益率」と「社会的収益率」という2つの概念がある。私的収益率は、大学進学で得られる追加的な生涯賃金といった私的便益と、進学費用といった私的費用から計算される。社会的収益率は、教育がもたらす高い収入による税収増や失業率の低下などの社会的便益を含む便益の合計と、財政的な補助金・奨学金などの社会的費用を含む費用の合計から計算される。

経済協力開発機構(OECD)の教育に関する2016年版資料(表参照)では、日本の高等教育の私的収益率は男女ともOECD平均を下回る。これは日本の大卒と高卒の賃金格差が欧米ほど大きくない状況などを反映している。一方、高等教育に対する公的負担の水準が低いこともあり、社会的収益率は男女とも平均を大幅に上回る。

表:主な国の「高等教育の収益率」(年率%)
社会的収益率 私的収益率
男性 女性 男性 女性
ハンガリー 22 13 24 14
日本 21 28 8 3
チェコ 16 12 22 15
チリ 16 13 15 12
米国 12 8 15 12
イスラエル 12 7 14 13
豪州 10 10 9 9
OECD平均 10 8 14 12
イタリア 9 6 9 8
オランダ 8 7 8 7
カナダ 6 6 9 12
スペイン 6 5 10 11
ノルウェー 5 3 9 9
ニュージーランド 5 4 7 7
(出典)OECD

教育国債は、いわば子ども世代全体が成人後に自らの税金で返済する教育ローンである。その社会的収益率が市場利子率を上回る場合、定員割れの大学の救済策などに利用しない限り、理論的には教育国債が正当化できる。

もっとも教育予算を含む経常的経費を税収で賄えず、財政赤字が恒常化している現状では、赤字国債の一部はすでに「教育国債」化しているともいえる。厳しい財政状況のなか、教育を錦の御旗に国債増発を許すことは財政破綻リスクを高めてしまう。

むしろ検討の余地があるとすれば、国債の発行総額の増加ではなく、発行される国債の中での配分であり、特に既得権益化している建設国債との配分をどうするかという問題ではないか。

公的投資には本来、高速道路やダムなど社会資本への投資のほか、教育などで蓄積される人的資本、科学技術への投資など幅広い領域がある。にもかかわらず財政法上の建設国債の原則に基づき、社会資本に限って国債発行を認めている。しかし社会資本整備が十分進み、人口減少が進むいま、社会資本投資のみを優遇するのは限界がある。

戦後の世界経済が労働集約型から物的資本集約型に移行する過程で、社会資本整備が戦後復興や高度成長の一翼を担った。だが、いま世界では人工知能(AI)やビッグデータなど第4次産業革命が進み、情報集約型の経済に移りつつある。今後は物的資本の拡大よりも、新たな知識や発想を生み出す人的資本の質的向上が最も重要となる。

また、人的資本が生み出す新たな知識や発想は公共財的な性質をもつ。建設国債で賄った社会資本投資も、教育国債などで賄った公的投資も、資本への投資という意味では優劣はない。建設国債を聖域化せず、財政再建と整合的な国債発行の枠内で公的投資のプロジェクトごとに便益費用分析も使い、実行の可否を判断するのが望ましい。

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こども保険構想はどうか。「子どもが必要な保育・教育等を受けられないリスク」を保険対象に位置付けるが、最大の批判は、こども保険は社会保険でなく、本質的に社会保険料引き上げという名の所得増税ではないかというものだ。構想の保険対象だと、給付を受けられるのは子どもを持つ可能性のある特定の年齢層に限られる。子育てが終了した人らにはリスクが存在せず、社会保険と位置付けるのは無理が生じてしまう。

しかし次の文脈では、こども保険は理論的な妥当性をもつ可能性がある。現在の日本経済で最も重い課題は人口減少だ。一方、現行の年金制度は現役世代が負担する財源を老齢世代に移転する賦課方式で賄われている。この下では自らは子どもを持たない形で現役時に子育てコストを負担せず、高齢時に一定の年金給付を受け取れる。その原資は他人の子どもが負担したものなので「ただ乗り」ができ、結果として制度が少子化を加速させる側面をもつ。

つまり、経済成長に対して教育がもつ正の外部性(影響)のように、賦課方式年金は出生率に対して負の外部性をもつ。これを解消するため、オランダ・ティルバーグ大学のグローゼン博士らの理論的な研究では、2つの政策の選択肢があることを示している。1つは、教育費の補助や児童手当の拡充で出生率を押し上げる政策で、もう1つは子どもを育てた人々には老後に年金を加算する政策だ。

こども保険は年金制度の一部で、加算年金の先渡しと見なすこともできる。混乱を招いている一因はその名称であり、例えば「こども基金」に変更して補完的に年金制度に組み込めば、それなりの論理的な整合性が取れる。

唯一の問題は世代間での財源負担だ。こども保険の財源は現役世代が負担する保険料とし、医療・介護の給付改革で引退世代にも負担を求める可能性を示唆しているが、改革の具体策は示しておらず、現時点では引退世代の負担が曖昧である。世代間の公平性の観点では、教育費を含む子育てコストを全世代で負担するのが適切で、消費税を財源とするのが筋である。

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いまや公債残高は国内総生産(GDP)比で200%を超え、現在も膨張を続け、財政は持続不可能な姿となっている。近い将来、債務再編などで財政の抜本的な再構築が必要になったとき、年金・医療などの社会保障や社会資本整備、教育などの国家予算のうち、何を重点的に守るべきか、今からでもその哲学を整理しておく必要がある。医療以外で最も優先順位が高いのは教育ではないか。

ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン博士も指摘するように、医療と同様、教育の改善は経済発展に先行するもので、人々が潜在能力を生かし、人間の尊厳を形づくる制度的基盤の一部だ。また、資源が少ない日本では人材こそが最大の資源である。教育は成長の源泉であり、子どもが置かれた条件の違いを乗り越えて貧困の連鎖を断ち切る鍵でもある。そして人類が蓄積した知の結晶は、次世代に渡すことができる本当の意味での資産でもある。

教育予算の財源問題を通じて、次世代への投資の財源をどう調達・配分し、本当の資産をどう守るのか、いま我々は問われている。

2017年5月29日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2017年6月7日掲載

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