生産性をめぐる今日的課題 真の生産性向上政策の実現を目指して

宮川 努
ファカルティフェロー

2018年は、生産性向上への期待と落胆が混ざり合った年だった。前者は、ここ数年、政府が経済政策の重心を「生産性向上」へと移したことに伴って、筆者自身の著作も含めて、生産性関連の著作が増え、生産性向上への理解が深まることへの「期待」である。後者は、年末になり、入国管理法の改正に伴い外国人労働者の受け入れ拡大が決定されたことに象徴されるように、生産性向上の観点からは不可解な政策が現実化されていくことに対する「落胆」である。

著作の一部を生産性新聞にも連載させていただいた拙著「生産性とは何か―日本経済の活力を問いなおす」を書いた動機は三つある。一つは、2006年に一般向けの解説書「日本経済の生産性革新」(日本経済新聞社)を出版したのだが、その後も生産性への関心はあまり高まらず、結果的にその著作で予見した悪いシナリオに近い経緯を辿ったため、もう一度生産性向上の重要性をわかりやすく述べようと考えたことである。二つ目は、経済政策を専門とする経済学者やエコノミストが、これまでも財政・金融政策の限界と生産性向上の必要性を強調してきたが、生産性向上のための要因や具体策については十分語ってこなかったため、その部分を補足できるのではないかと考えたことである。最後は、生産性が注目を浴びるようになってきた頃から、妙でかつ不快感を持って受け止められる用法が見られるようになったため、より正確で前向きな概念の説明をする必要を感じたためである。

本書の第2章でも紹介している通り、生産性の概念は、アダム・スミスの「国富論」の冒頭に登場するピンの生産例から始まっている。またデヴィッド・リカードの自由貿易の議論も二国間の相対的な生産性格差を使ったものである。つまり生産性の向上というのは、我々の生活基盤である資本主義経済が始まった当初から学問的にも意識されていた概念なのである。設立当初の日本生産性本部副会長であった中山伊知郎一橋大学教授も「生産性ニューズ」で、このスミスとリカードの議論を紹介されていることから、今日から見ると日本の生産性運動は、まさに生産性を正確に理解して始まったのである。

しかし現在の日本の成長政策は、生産性向上という観点から見ると首をかしげざるを得ない。筆者が、「経済教室」(11月5日付日本経済新聞)で指摘したように、日本の労働生産性が上昇しない要因の一つは、労働生産性の分母である労働力が供給され続けているという点にある。これは労働力不足という観点から見ると奇妙なことだが、65歳以上の労働者や外国人労働者は増え続けている。長らく賃金が上昇しないと言われてきたが、その要因の一つは、こうした労働供給側の増加にあると言える。

現在の70歳前後の人たちは戦後のベビーブーマーの世代であり、早晩この年齢層の労働供給も先細る。年末に大きな議論を呼んだ入国管理法の改正に伴い外国人労働者の受け入れ拡大はこれを見越した措置と言える。この法律改正には、増え続ける外国人労働者をきっちりと把握しようとするポジティブな側面もあるが、生産性向上という観点からは二つの点で問題がある。

一つは、すでに見たように外国人労働者の増加に伴い労働供給が増えるため、仕事の方法を改善させる意欲は薄れ労働生産性の向上は望めなくなる。このため賃金の上昇も見込めないであろう。政府は長年にわたって、企業に賃金上昇を要請してきたが、今回の入国管理法の改正は、これと全く矛盾する政策であり、政府は自ら賃金上昇から物価上昇へというシナリオを自ら否定したことになる。

もう一つは、外国人労働者増加の根拠となる「技能研修」の形骸化である。技能研修を文字通り解釈すれば、技術的には発展段階にある国から労働者を呼び先端的な技術を学ぶということになる。しかし、果たして現在の日本は先端的な技術を擁する国だろうか。確かに一部の技術では先端的なものもあるかもしれないが、マクロ的に見ると設備は老朽化している。一橋大学大学院の石川氏と筆者が計算した設備年齢は、1970年代の7年台から2016年には20年台へと上昇している。この技術革新の速い時代に古くなった機械の操作を学ぶことが果たして研修と呼べるのだろうか。筆者にはこの制度は悪い冗談としか思えない。

こうした政策と生産性の向上を整合的にするためには、設備投資の増強しかない。拙著第1章でも書いたように、労働生産性の向上は、資本の増強と技術革新によって実現できる。画期的な技術革新は難しくとも設備投資による労働生産性の向上は可能だろう。もし政府が外国人労働者の拡大を考えるならば、合わせて設備投資の促進策も策定すべきである。

今世紀に入ってからの日本の経済成長率は年率0.8%である。これは深尾一橋大学教授らが推計した江戸時代後期から明治初期の経済成長率(0.7%)とほぼ同じである。生活水準が違うので実感が湧かないが、このことは、日本がもはや資本蓄積によって経済を拡大するプロセス以前の状態に戻っていることを意味する。このままでは日本は欧米先進国だけでなく、発展するアジア諸国からも取り残される。新しい年には、元号があらたまる。経済面から見れば、明治維新もまた長い停滞期から新たな成長への移行期と位置付けられる。150年前にならって、記念すべき年が、リスクを恐れず生産性向上に臨む挑戦の年となることを期待したい。

2019年1月15日 生産性新聞に掲載

2019年1月22日掲載