設備投資増 緩和頼み限界

宮川 努
ファカルティフェロー

アベノミクスの開始から2年が過ぎた。すでに第1の矢である異次元金融緩和の成果については「2年で2%の物価上昇率」という目標の評価を巡って議論が起きている。確かに一時的には物価の上昇が起きたものの、昨年半ば以降の原油安とともに物価の上昇率は低下し、当初の目標が達成される見込みは薄い。

しかし、金融政策に期待された効果は物価上昇だけではない。期待物価上昇率の上昇を通して実体経済を浮揚させるという期待もあったはずである。この2年間の実体経済をみると、失業率や企業収益の改善などプラスの効果もみられるが、その一方で円安に転じたにもかかわらず輸出が伸び悩むなど、当初の思惑とは異なる現象もある。

2012年10~12月期を景気の底とみた、その後の2年間の実質国内総生産(GDP)の主要項目の伸び率(年率)は、民間消費がマイナス0.01%、民間設備投資が1.8%、公的資本形成が8.1%と、21世紀に入ってからの過去2回の景気回復期と比べ公共投資への依存が最も高い。

消費が昨年4月の消費増税の影響を強く受けたのはやむをえないとしても、なぜ民間設備投資は力強さを欠いたままで推移したのか。本稿では、近年の日本の投資行動に関する分析に基づきながら、金融政策から設備投資への波及効果について考察する。

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大胆な金融緩和が民間設備投資を刺激する経路で当初強調されたのは、期待物価上昇率の上昇に伴う実質金利、すなわち名目金利から期待物価上昇率を引いた値の低下である。名目金利がゼロ%近傍で推移するなかで、期待物価上昇率の引き上げは、実質金利の低下を通して企業の投資を誘発するというものである。

この考え方は1960年代、ハーバード大学のデール・ジョルゲンソン教授が提唱した古典的な投資理論に基づいている。しかし彼の理論では、もう1つの期待要素も重要な役割を持つ。それは、将来の需要に関する見通しである。もし企業が少子化に伴う国内需要の長期的な低迷を見込んでいるとすれば、それは実質金利の低下による設備投資の浮揚効果を相殺する可能性がある。

大胆な金融緩和が設備投資の増加につながる2番目の経路は、円安で海外の市場展開に有利な環境をつくり出し、外需向けの国内投資が増加する効果である。しかし新たに海外へ進出する場合には、国内設備投資にとどまらず、販売拠点の設置や海外販売向けの人材を雇用するなどの付帯的な費用を必要とする。

また、すでに海外に進出している場合には、それまでの円高で生産拠点を海外に移している場合も多く、これを国内に回帰させる場合には、移転に伴う費用を負担しなくてはならない。資本だけでなく労働も固定的な生産要素と考える日本的経営を採用する企業にとっては、その移転費用は欧米の企業などより多くなることが予想される。

こうした点を考慮して外需向けの生産拠点を国内に設置するためには、リーマン・ショック前の為替レート水準では十分ではなく、さらに円安になる必要があるが、14年の実質実効為替レートはリーマン・ショック前の水準をわずかに下回った程度である。

加えて日本企業は、中国・韓国などに対抗するために少しでも付加価値の高い製品を海外で販売しようとしてきた。近年のミクロデータを使った実証分析では、こうした付加価値(生産性)の高い製品ほど為替レートに反応しにくく、価格競争をして市場を拡大するよりも価格を据え置きながら利潤率を高める戦略をとることが知られている。

近年の円安に伴う日本企業の企業収益の増大は、こうした実証研究とも整合的である。また、日本政策投資銀行の田中賢治氏と筆者の実証分析でも、1990年代の金融危機以降、日本企業の大型設備投資は実質為替レートの変化に対して感応的でないことを示している。

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大胆な金融政策が設備投資を増加させるという3番目の根拠は、「トービンのq(時価総額÷資本再取得価額)」理論に基づき、企業収益の増加に伴う企業価値、すなわち株価の上昇や、キャッシュフローの増加が設備投資の増加をもたらすというものであった。確かに多くの実証研究がこの理論に基づき、日本の投資行動を説明している。それでは、なぜ今回、企業価値の上昇や企業収益の増加にもかかわらず、設備投資の動きが鈍いのか。

詳細な検証は今後の研究の蓄積を待たねばならないが、当面は2つの要因が考えられる。1つは、企業統治構造の変化が設備投資に与える影響である。一橋大学の深尾京司教授が指摘するように、バブル崩壊後、日本の資本収益率は低下を続けた。学習院大学の村瀬英彰教授と中央大学の安藤浩一教授は、この資本収益率が低下する状況のもとで日本の企業統治構造が変化し、企業の資本蓄積を低下させたと述べている。

すなわち90年代の金融危機により、金融機関からの企業経営への影響が後退するなかで、資本市場からの規律付けは弱いままだった。結果的に、経営者と安定株主の裁量権が強まり、増加する企業収益を、リスクをとって成長投資へ振り向けるよりも、貨幣や国債などの安全資産で運用することになった。

企業価値の上昇が実物資産への投資を引き起こすのがトービン効果だとすれば、現在の日本では「逆トービン効果」ともいえる現象が生じている。早稲田大学の広田真一教授の企業行動に関する実証分析が示したように、企業が企業価値の最大化ではなく、存続確率の最大化を目指しているとすれば、企業の安全資産志向は一層強まっていると考えてよい。

2つ目の理由は、人材や組織改革など、見えざる資産への投資が制約になっているという点てある。21世紀に入って、投資全体が低迷するなかでも、IT(情報技術)投資は一定の増加を示してきた。このため、このIT資産集約的な産業は、「失われた20年」のなかでも成長のけん引役を引き受けてきた。

こうしたIT投資は、人材や新たな技術に即した組織の改善努力が伴って初めて生産性や収益性を向上させることができる。しかしながら21世紀の日本では、IT投資は伸びているものの、人材や組織改善のための投資はほとんど伸びていない。

労働市場が逼迫している現状では、営業面や業務合理化の面で積極的なIT投資が期待されるが、そうした傾向が顕著にならない背景には、人材などがボトルネックになっている可能性がある。実際、国際IT財団が昨年11月に約600社を対象に行ったアンケート調査でも、IT活用上の課題として、半数以上の企業が「IT専門人材が不足している」と答えている。

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設備投資の活性化は、単に需要側から景気浮揚をもたらすだけでなく、資本蓄積を通して潜在成長力を高めるという意味でも、重要な役割を担っている。しかし、以上のような日本の企業行動や設備投資に関する分析を踏まえると、当初想定されていた異次元緩和から設備投資の活性化へのプロセスは、いささか楽観的であったといわざるを得ない。

金融緩和政策から設備投資への拡大への経路には様々な障害があり、政策効果がスムーズに伝播(でんぱ)されるためには、積極的な実物投資を通じた企業成長を可能にするような、企業統治改革や人材育成への支援が欠かせない。

アベノミクス開始から2年間の経験は、第1の矢と第3の矢(成長戦略)は独立ではなく、同時に実施されることで初めて本来の効果をもたらすということを教えている。

2015年3月11日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2015年3月27日掲載