「約束の限界」認識を

小林 慶一郎
上席研究員

最近の世界の金融危機、政府債務危機、高齢化に伴う財政問題に共通する要因は、政府や銀行などの「コミットメント(約束)能力の欠如」が露呈し、コンフィデンス(信任)が崩壊した、ということであろう。債務者が民間でも政府でも返済の約束が実行されない可能性がある、という当然の事実が改めて意識され、取引相手を信じ任せる、という通念は崩壊した。

コミットメントの欠如は、以前から様々な経済問題の要因として経済学的分析の対象だった。代表例はゲーム理論の「囚人のジレンマ」である。取り調べにあった2人の囚人が「互いに協力して黙秘」か「相手を裏切り自白」かを、それぞれ独立に選ぶ。図では、相手がどちらを選ぼうと自分は裏切りを選ぶ方が得だから、結局、2人とも裏切りを選び、5の利得を得る。しかし事前に「協力」を約束し、それを守る能力があれば、2人とも利得10というより良い状態が実現するだろう。

図 囚人のジレンマの例
図 囚人のジレンマの例

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金融やマクロ経済学の研究では、近年、コミットメントの問題が重視されている。2009年以降に書かれたニューヨーク大学のマーク・ガートラー教授、欧州中央銀行のピーター・カラディ研究員、プリンストン大学の清滝信宏教授らによる一連の金融危機の分析では、資産バブルの崩壊により銀行の自己資本が毀損すると、銀行のコミットメント能力の限界が顕在化し、貸し出しのための資金調達ができなくなって信用収縮が進む。銀行のコミットメント能力の欠如が危機増幅の本質的な要因だとの解釈である。

シカゴ大学のダグラス・ダイヤモンド教授とラグラム・ラジャン教授が2000年代に発展させた銀行理論では、要求払い預金契約(キーワード参照)という銀行預金の形態は、銀行のコミットメント能力の欠如を補完する制度的工夫だと説明される。「いつでも引き出し自由」という要求払い契約を提供すると、銀行は預金者を裏切れなくなる。裏切ろうとすると、多数の預金者が引き出しに殺到し、瞬時に倒産するからである。つまり銀行は要求払い契約をあえて提供し、取り付けリスクを自ら作り出すことで預金者に約束を守る能力を示すが、その代償として、時々、銀行危機が発生するのだ。

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政策当局においてもコミットメントの欠如は重大である。民間同士なら約束違反は政府(司法)によって罰せられるが、政策について政府が約束違反をしても、罰を受けることは少ない。この問題を初めて指摘したのは、カリフォルニア大学サンタバーバラ校のフィン・キッドランド教授とアリゾナ州立大学のエドワード・プレスコット教授の1977年の「時間非整合性の問題」(キーワード参照)の論文である。金融政策における時間非整合性の研究はその後発展し、中央銀行が状況に応じて政策を裁量的に決めるより、あらかじめ決めたルールに従うことを約束する方が望ましいという現在のコンセンサスを生み出した。

プレスコット教授らの議論は当局が政策ルールにコミットできる前提に立つが、一般に政治的な意思決定は選挙で覆る可能性があり、長期的コミットメントは不可能だ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのティモシー・ベズレー教授とコーネル大学のスティーブン・コート教授の98年の論文は、代表民主制において政治家が将来の政策選択を約束できないことが政策決定を非効率にすると指摘し、これを市場の失敗ならぬ「政治の失敗」と呼んだ。

同じ現象を、マサチューセッツ工科大学(MIT)のダロン・アセモグル教授とハーバード大学のジェームズ・口ビンソン教授は2000年代半ばの一連の論文で「政治経済的失敗」と呼び、対象を非民主政体の国家にまで広げて分析した。例えば権力者は、権力を維持するためにあえて自国の経済成長を阻害する政策を選択し、貧困を長引かせる可能性がある。これらの失敗の本質は政治家と市民、政党同士などの相互のコミットメント能力の欠如である。

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コミットメント能力の欠如は、社会保障制度、特に公的年金制度など世代間の再配分に深く関連している。生まれていない将来世代に過去の世代が作った制度を守るよう強制する手立てがないからである。それでも社会保障制度が政治的に支持され存続しているのはなぜか。政治経済学的アプローチでこうした問題を分析する研究が増えている。

一方で標準的な経済学の理論(世代重複モデル)では、人口が実質金利以上の率で増える社会では現役世代の保険料を給付に充てる賦課方式の公的年金が社会厚生を改善するが、人口増加率が金利より低い社会や人口減少社会では全世代の社会厚生を悪化させることが知られている。人口が減り続ける社会では、若者が老人になったとき、自分を支える次世代の人数は減っているので、もらえる年金給付は小さくなるからだ。

白地から制度設計できるなら、人口減少社会では全員参加の年金制度は廃止し、貧しい高齢者のみを救済する福祉政策が望ましいかもしれない。介護の必要や家族構造の変化などを考慮すれば、廃止は非現実的だとしても、高齢化が人類未踏の速さで進む日本では年金制度の「清算的」出直しが議論の俎上に上ってもいいはずだ。

実際、賦課方式から積立方式への移行は、マクロ的には公的年金の完全民営化(または廃止)とほぼ同等である。ニューヨーク大学のトマス・クーリー教授とデラウェア大学のジョルジュ・ソアレス准教授は99年の論文で、公的年金が各世代の厚生を悪化させている社会でも年金制度の維持が政治的に選択され得ることを示し、別の論文で、全ての世代の厚生を維持または改善しながら年金を完全民営化する案を記述している。

歴史的にいえば、現在の政府債務危機や社会保障制度の危機は、20世紀の「福祉国家」という壮大な実験の帰結だ。20世紀には国家と市場の役割についてソ連圏などでの「共産主義」と西側先進諸国の「福祉国家」という2つの実験が行われた。共産主義の失敗から、我々は国家が市場より効率的に資源配分を行うのは難しいと学んだ。政府が民間より賢明だという想定は間違いだった。福祉国家の実験から我々がいま学ぶべきことは、国家は民間と同様、現在の政策決定について遠い将来までコミットできないこと、つまり超長期のコミットメント能力の欠如なのではないか。

社会保障制度を100年先まで描いたとしても、その保証は現世代の誰にもできない。「100年安心」などと無理を言わず、現世代が生きている間に責任を負える制度に再構築することが将来世代に対する義務ではないだろうか。例えば年金の給付水準を状況に応じて柔軟に変更できるようにし、財政収支が25年周期で均衡する制度にすれば、コミットメントの欠如に耐えられるかもしねない。

社会保障に限らず、原子力発電の継続の可否など、超長期のコミットメント問題が本質的に関係する政策課題は多い。あらゆる分野について、政府が超長期的なコミットメント能力を欠いていることを前提とした政策の再設計が必要ではないだろうか。

キーワード

  • 【要求払い預金契約】
    当座預金や普通預金は、預金者が口座残高を限度に好きな金額を好きな時に引き出せる、という「要求払い」契約である。要求払い預金は、銀行が預金者に信頼されるためのコミットメント装置だとするダイヤモンド=ラジャン理論の解釈のほかに、突発的な現金の必要に見舞われた場合の保険(流動性保険)を預金者に提供する保険契約であるとする解釈も一般的だ。
  • 【時間非整合性の問題】
    政府が事前にある政策を公約し、民間がその公約を信じて行動した後に、政府は公約を破棄したくなる場合がある。この状況を時間非整合的であるという。投資促進のために資本設備への課税を免除するという政府の公約は時間非整合性の一例。企業が公約を信じて投資した後では、課税しても既に建設された資本設備は減らないので、政府は課税したくなる。

2012年11月19日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2012年12月11日掲載

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