既得権層に資産課税を

小林 慶一郎
上席研究員

欧州の経済危機では、財政と金融の危機が複雑に絡み合っている。ここ数年の金融危機のために欧州の銀行システムが脆弱になっていたところに、ギリシャの財政危機が重なり不安が市場に広がった。欧州経済は5月の混乱に比べれば小康状態になったが、「出口」はまだ遠い。今後かなり長いスパンで、ユーロの信認をめぐって不安が付きまとうだろう。

財政問題を抱えている点では、日本も同じである。日本経済は昨年3月に底を打ち、輸出主導の景気回復を続けているが、予断を許さない状況だ。そんな中、新たに発足した菅直人政権は「成長と財政再建の両立」を打ち出した。

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経済成長の原動力は需要の拡大と供給サイドの技術進歩である。まず需要面では、日本には高齢化の巨大な波が襲っているため、内需が短期間で劇的に拡大するとは期待できない。当面は、昨年末の「新成長戦略」の基本方針でも指摘しているとおり、アジア市場との一体的な成長を目指すことにより、アジア全体としての需要拡大を進めることが基本であろう。

供給面では、企業の研究開発を促進し競争力を強化するためにも法人実効税率の引き下げは重要な課題である。政府の産業構造ビジョンや民主党の参院選の政権公約に法人税の引き下げが盛り込まれることは望ましい方向だ。

財政再建が需要の拡大をもたらして経済成長が実現するという菅首相のロジックは、説得力のある部分もある一方、やや危うい点もある。政府債務が大きい国では、増税と歳出削減による財政再建が将来不安を払しょくし、消費需要を増やす可能性はある。これは「非ケインズ効果」と呼ばれる。しかし将来不安がなくなるだけでは、技術進歩による力強い経済成長が実現できるか不透明だ。

今後の高齢化のトレンドを考えれば、医療や介護の需要はますます大きくなる。医療介護施設などの建設ニーズや必要とされる労働力も膨大になる。そのために、財政支出を社会保障分野に重点的に回すという菅政権の考え方は適切である。公正な社会の実現という観点からも望ましい。

しかし、医療や福祉分野への財政投入が雇用を生み出して経済成長をもたらすというロジックは、公共事業が成長をもたらすというロジックと基本的に同じである。1960年代の高度成長期に高速道路の建設が必要だったのと同じように、高齢化が進む現代において医療や福祉への公的資金の支出増加は必要であろう。だがそれが技術進歩をもたらし成長を主導するという議論は多いに疑問である。

医療・介護分野が成長産業になることを阻害している最大の問題は、この分野が政府による資金補助と統制を受けていることである。政府が医療・介護人材の報酬額を規制で低く抑え、高価格でのサービス提供を制限しているために、看護師、介護士などの人材が慢性的に不足し、サービスの供給が不足している。

一方、高齢者は慢性的な医療福祉サービスの不足に直面しているため、いざというときに備えて数百兆円の巨額の金融資産を蓄え、消費を冷え込ませている。医療、介護分野での新規参入や価格設定の自由度が上がれば、市場メカニズムにしたがってサービスの供給が増える。民間の利潤追求によって技術革新が活発になり、医療福祉が経済成長を主導するというビジョンも実現化するかもしれない。

要するに、財政支出を社会保障に重点配分することは重要だが、それと連動して、医療福祉分野の規制緩和(参入と価格設定の自由度の拡大)が本筋の課題であろう。なお、規制緩和に際して、貧困層が十分な医療や介護を受けられるように公的支援制度を強化することは当然である。

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現在の日本経済が低成長を脱するには生産性の上昇が必要であるが、それを阻害している要因は何なのか。経済成長に関する最近の政治経済学的な研究によると、過去に成功したビジネスモデルや技術体系に大きな既得権があると、生産性上昇が阻害される。既得権層が新しい技術やビジネスの導入を阻害し、技術革新が実現しないのである。

図は、日銀の短期経済観測調査(短観)の項目の1つである「企業から見た金融機関の貸し出し態度」をプロットしたものだ。縦軸は貸し出し態度が「緩い」と見る企業の割合、横軸は「厳しい」と見る企業の割合である。これを見ると、80年代は当初、「厳しい」と見る企業が多く「緩い」の割合がわずかだったが、その後、景気拡大に伴って両者の割合が逆転した。一方、2000年代は平均して「緩い」「厳しい」の相反する見方が高いレベルで共存している。これは、既得権層は容易に資金調達でき、そうでない企業は資金調達できないというミスマッチが拡大していることを示しているようである。

図 企業から見た金融機関の貸し出し態度
図 企業から見た金融機関の貸し出し態度

こうした問題に対しては、技術の新陳代謝に対する「既得権層の抵抗」を弱める政策があれば、生産性上昇を促す上で有効だと思われる。ある種の資産保有税は、財政健全化の手段になると同時に、そのような成長政策としても機能するかもしれない。

既得権は、資産の過大評価として表れる。過去に成功した技術体系やビジネスモデルを持った企業は高い資産価値を有する。しかし新しい技術を持つ強力なライバルが出現すると、この企業の資産価値は大きく低下する。この企業に既得権を持つ関係者(融資している銀行、株主、一般債権者など)は、資産価値低下を回避するために、新技術を持ったライバルの新規参入を、政治経済学的な様々な手段を使って阻止しようとする。既得権は、古い技術やビジネスモデルを体現した資産=レガシーアセット(株式や企業向けの貸し出しなど)の過大評価された価値であり、その価値を守るための行動や意思決定が技術進歩を阻害して経済成長を停滞させる。

レガシーアセットは一義的には不良資産のことだが、時代遅れになった技術体系、ビジネスモデルなども含む広い概念としてとらえると、旧来の日本型経済システムの成功によってできた資産(金融資産などの国富)のかなりの部分はレガシーアセットかもしれない。技術やビジネスモデルを新陳代謝させる改革は、レガシーアセットが時代遅れであることを顕在化させ、その価値を減じるから、既得権層の抵抗に直面する。

新技術の導入を阻止しようとする既得権層の抵抗は、政治的行為をともなうので、市場競争で解決が難しい。いわばレガシーアセットが有する「負の外部効果」(市場競争が機能しないことで他の経済主体に与えるマイナスの影響)である。その外部性を政策によって是正できれば、経済の活力を高める上で理想的である。政策の1つの可能性は、外部性を補正する、いわゆる「ピグー税」をレガシーアセットの保有に対してかけることである。

資産保有に課税されると、既得権層が抵抗によって守ることができる価値は税の分だけ減少する。そのためレガシーアセットに固執するメリットが薄れ、新技術を導入する方向へ誘導できる。たとえば銀行の融資態度から前例踏襲が薄まり、新規事業が融資を受けやすくなることなどが考えられる。その結果、新しい技術やビジネスモデルを持った起業家が参入しやすくなり、経済全体が活性化される。ちなみに、資産が貨幣形態で保有される場合、緩やかなインフレも資産保有税と同じ効果を持つ。

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以上はあくまで思考実験である。レガシーアセットへの課税といっても、どの資産がレガシーアセットか判別は困難であり、実施するには詰めるべき課題が多い。

ただ、このまま現状を放置して低成長と財政悪化が続き、財政破綻(すなわち国債価格の暴落、高インフレ、過度な円安の同時進行)が起きれば、金融資産に高率の保有税が課税されるのと同じことが起きる。しかも、財政破綻になれば、インフレ率(税率)はコントロール不可能になる。財政破綻を避け、経済成長を刺激するために、適切な水準に制御された資産保有税かインフレによって、既得権層の資産を減価させることを考えてもよいのではないか。

2010年6月17日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2010年7月5日掲載

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