ディベート経済 村上ファンド事件の教訓

小林 慶一郎
研究員

ライブドア(LD)によるニッポン放送株大量取得を裏で仕掛け、株を高値で売り抜けたとして投資ファンドの村上世彰前代表がインサイダー取引の罪で起訴された。事件がもたらす教訓を整理する。

企業に規律もたらす期待

報道されていることが事実だとすれば、村上前代表の行為はきわめて悪質だ。

LDにニッポン放送の経営権取得を勧め、その気になったLDが同株の大量取得を始めて株価がつり上がったところで、同株を市場で売り抜けた。村上氏自身のシナリオで株価を操縦し、30億円もの不当利益を稼いだことは悪質な違法行為であり、株式市場の公正さを冒涜するものといえる。

逮捕前の記者会見で村上氏は「一方通行の道をうっかり逆に進入したようなもの」と過失だったかのように語ったが、仮に百歩譲って過失だったとしても、ジャンボジェット機が滑走路を間違えたくらいの重大事であることに変わりはない。現に、事件を受けて株価も下落し、日本銀行総裁の進退問題に発展するなど、経済的大惨事を引き起こした。あまりにも軽すぎる本人の認識が、問題の深刻さを浮き彫りにしている。

一方、今回の犯罪そのものは許されないが、村上ファンドの投資活動にはそれなりの価値があったと評価する意見もある。

もの言う株主として株主への利益還元を主張して、非効率な企業経営を改善させたこともある、というのである。たしかに、村上ファンドの存在感が大きくなるにつれて、企業経営者たちの間で、敵対的買収への危機感は高まった。それが、企業経営に緊張感をもたらした面はある。

かつては、企業経営を規律付ける監督者の役割は銀行が果たしていた。借金による規律である。しかし、企業の資産が潤沢になり、銀行に頼る必要が薄れるとともに、銀行の権威は低下した。

銀行に代わって誰が企業を規律付けるのか。いま問われているこの問題の答えとして期待されているのが株主(投資家)だった。村上ファンドが注目されたのは、この期待を背負っていたからだ。

村上ファンドは期待はずれだったが、誰かが企業を規律付けなくてはならず、その最大の候補者が株主であることに変わりはない。

もの言う株主でなかった

しかし、村上ファンドの活動を全否定する意見も強い。それをまとめると、次のようになる。

第1に、村上ファンドは、そのポーズと違って、企業価値の最大化を目指す「もの言う株主」ではなかったという見方である。

もの言う株主(株主アクティビズム)とは、株主が、企業の長期的な価値を高める提案を積極的にすることだが、もっぱらその企業の事業内容に深く寄り添った地道な活動だ。ところが、村上ファンドは、自社株買いや資産売却など誰でも思いつくようなことしか言わなかった。これらは短期的に株価を押し上げても、長期的に企業価値を高める提案とはいえない。

だから、村上ファンドの実態は他の多くの株主や長期的な企業価値を犠牲にして、目先の自分の利益だけを優先する投機家(乗っ取り屋)だった、と見る識者もいる。村上ファンドの行動が、最近、その理念とかけ離れていたという指摘もある。発足当初からそうだったという意見もある。

だが、参加自由な資本市場では、投資家と投機家の区別はできない。それを前提に、企業の長期的利益を追求する投資家が多くなるように、市場のルールを構築していくしかないだろう。

第2の批判として、「株主資本主義そのものが悪だ」という論調も強くなってきた。企業価値を長期的に高めるためには、株主の権利だけを強めるのではなく、他のステークホルダー(従業員や顧客など)とのバランスを図るべきだ、という考え方である。

目先の利益だけを求める投機家でなくても、ふつう投資ファンドは投資先の企業と永遠に運命を共にすることはない。いずれ資金を回収し、企業への投資関係を解消する。

したがって、投資ファンドの関心は最終的に株を高値で売ることであり、それが企業のその後の発展につながるかどうか分からない。むしろ、企業の存亡に生活をかけている経営陣や従業員に任せるほうが企業の価値を高めることになる、という見方である。

証券市場の不公平ただす必要

現状を問題視するあまり、知らず知らずのうちに「昔は良かった(はずだ)」という思考のわなに陥らないようにしなければならない。

市場の投資家の中には企業を食い荒らす投機家が紛れ込んでいるが、企業の経営者や従業員は自社の長期的価値を高めようとしている善意の人々だ、と考えていいのだろうか。

残念ながらそうではない、ということを歴史は示している。不良債権の山を築いて日本経済を腐敗させたのは、「長期的視点に立った日本型企業経営」の優秀さを自慢していた1980年代の経営者や幹部社員たちだった。

長期的な企業価値を高めることは、確かに望ましい。だが、企業内部の経営者や社員の中にも、会社の価値を食い荒らす悪意の者や無能者が少なからずいる。

これこそが不良債権に苦しめられた長期不況の教訓であり、今回の事件でそれを忘れたら、日本人は過去15年もの不況を経験して、結局何も学ばなかった、ということになってしまう。

3年後に退職するサラリーマン経営者と5年間で資金を回収する投資ファンドでは、どちらがその企業の長期的発展を真剣に考えているかは分からない。

忘れてならないことは、かつての銀行に代わって企業に規律を与える監督者を日本経済は必要としていて、いまのところそれは投資ファンドなどの株主しかなさそうだ、ということなのである。

ひどい投資家もいるが、ひどい経営陣も多い。その中で、今回の事件を、「投資家vs企業」の問題ととらえるべきではない。

問題の本質は、インサイダー情報を簡単に利用できた村上ファンドというプロの大株主と、公開情報だけに頼って投資せざるを得ない個人投資家(小口株主)とが、対等に競争できていない、ということなのである。

多数の個人投資家にとって、日本の証券市場はアンフェアだ、ということが問題なのだ。

公正なルールが守られなければ、市場経済システムの正当性は保てない。証券市場でいえば、大企業の機関投資家も、主婦や学生の個人投資家も、お互いの投資行為をフェアなルールにしたがった正当なものだと、承認しあえる市場環境を実現する必要がある。

この意味での公正な市場とは、哲学者の竹田青嗣氏の言葉を借りれば「自由の相互承認」を実現した市場といえるだろう(『人間的自由の条件』講談社)。

誰もがお互いの自由を相互に承認できるような成熟した市場ルールの形成が求められている。

証券市場の監視体制の強化や、経済事犯への課徴金の高額化などを、この観点から議論する必要がある。

2006年6月26日「朝日新聞」に掲載
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2006年8月25日掲載

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