ディベート経済 マネーゲームは悪か

小林 慶一郎
研究員

ライブドア事件で堀江貴文前社長が起訴されたことなどを受けて、マネーゲーム批判が高まっている。企業買収を行うハゲタカファンドは経済に害をなす虚業なのか。市場経済批判の意図も含めて展望する。

「虚業」が企業文化を破壊

ライブドア事件に関連して、投資ファンド、特に、外資系のファンドが日本企業を買収することに対して、マネーゲームだという批判が高まっている。批判の論点は次のようにまとめられる。

典型的な見方は、ハゲタカファンドが日本企業を破壊し、バラバラに切り売りする、という議論である。昨年春にライブドアがニッポン放送株を大量取得したときには、買収される企業の文化が破壊されることが懸念された。職人気質のラジオ番組制作の現場に、利潤最優先の考えが強制されれば、現場が混乱し、結局、企業価値が破壊されてしまう。

外資が企業買収にかかわっている場合は、企業価値だけでなく、ナショナリズムや安全保障の観点からも批判が出る。ニッポン放送株の買収のときにも、ライブドアに外資系投資銀行が買収資金を融資していた。国益の観点から、放送局に外資が影響を持つのは問題だ、という批判がされた。

もっとも、80年代のバブル期に、ニューヨークのロックフェラーセンタービルを三菱地所が買ったときには、米国で激しい反発が起きた。どの国でも外資への反発はあるが、日本の閉鎖性はやはり際立っている。外国からの直接投資の割合を見ると、日本は欧米の10分の1以下の水準だ。

もうひとつの批判は、マネーゲームは虚業だというものだ。金融ファンドは、単に企業の株式や資産を売り買いするだけで実際には何も価値を生み出していない、という見方だ。

こうした見方は、マネーゲーム批判だけでなく、市場経済そのものに対する批判につながってくる。金融ファンドは、新しい商品を作るわけでもないのに、株取引や企業売買で巨万の富を手にする。一方、額に汗して働く実業の世界の人々は、価値ある商品やサービスを提供しても、わずかなもうけで我慢している。このような格差を許す市場経済のシステムそのものが、いちじるしく不公正だ、という主張である。

非効率排しリスクも軽減

しかし、マネーゲームと批判される金融活動にも、経済的な価値を生み出すなにがしかの意義がある、という点は否定できない。

まず、投資ファンドなどが、利ざやを取ることが可能なのは、そもそも、買収される企業などに、大きな非効率があるからだということを忘れてはならない。非効率があるから、ファンドはその無駄をなくすことで、利ざやを生み出すことができる。

もちろん、何が非効率か、を決めるのは難しいし、ファンドが買収先の企業文化を性急に壊してしまい、長期的に企業価値を劣化させる場合もあるかもしれない。しかし、一方で、投資ファンドの脅威は、日本企業に対して規律を与えることにもなる。買収されるかもしれないという危機感に駆られて、企業は因習的に続く非効率なビジネス慣行などをなくそうとするからである。そのことは、結果的に消費者や株主の利益となり、我々の生活向上につながる。

また、金融は、目に見えないが重要なものを扱う実業でもある。それは、人生や企業活動に付き物の、「不確実性(リスク)」を軽減するという機能だ。生命保険が典型だが、様々な最先端の金融技術も、基本的には保険の発展形と言える。グローバルな金融市場のおかげで、個人や企業のリスクは分散され、軽減されているのだ。

たとえば、製薬会社がエイズなどの難病の新薬を開発するには、数百億円~数千億円規模の投資が必要だ。成功する確率は低く、リスクが大きい投資である。個人が虎の子の資金を投資するのは、危険すぎてできない。グローバルな金融市場で、投資ファンドなどの活動がリスクを分散してくれるからこそ、個人の資金が銀行やファンドを経由して製薬会社に投資される。また、製薬会社も巨額の資金を短期間で集めることができ、新薬開発のプロジェクトを実行できる。つまり、ファンドなどの活動でリスクを分散できることは、たとえば難病患者の命を迅速に救うことにつながるのである。

過去20年の責任隠すハゲタカ批判

金融資本主義への批判の背景には、どのような意図があるのだろうか。なぜハゲタカファンドが強い批判を呼ぶのか。

通常、ハゲタカとよばれる投資ファンドは、経営に無駄が多い企業や、倒産寸前の企業を買い取って、事業再編やリストラによって企業価値を高めることを目的とする。最悪の場合、価値の高い資産を切り売りして、企業を消滅させることもある。しかし、それは、企業を存続させる意義がないような場合だけだ。

ハゲタカファンドが行っていることは、まさに自然界でハゲタカが行っていることと同じだ。つまり、ゴミタメになった経済をきれいに掃除する掃除人なのである。

単純化を恐れずにいうと、ハゲタカファンドは、すでに価値の落ちた企業を掃除してくれていることになる。

したがって、ハゲタカ批判とは、これまで日本経済をゴミタメにしてきた人々の責任を不問に付し、ゴミを掃除しに来た人を批判する、という理不尽な話なのだ。

これは、80年代に土地バブルを発生させ、バブル崩壊後は不良債権処理を誤って日本経済をゴミタメに変えた過去20年の日本の政財界の指導者にとっては、非常に好都合な議論だろう。

しかし、メディアまでハゲタカ批判を声高に叫ぶのは、日本の現状に対して本当に責任を負っている人々(かつての日本の指導層)の責任逃れに加担する行為といわれても仕方がないものだろう。

藤原正彦氏は著書『国家の品格』の中で「卑怯を憎む心」が重要と述べているが、ハゲタカ批判ほど「卑怯」な議論はない。日本人に過去の責任を忘れさせ、心地よい自己欺瞞に陥れる本当に罪深い議論というべきだ。

また、新興の金融ファンドなどを批判することは、既得権を持つ既存の金融業者の利益を守るだけで、決して弱者のためにならないことも指摘しておきたい。金融市場の発達が弱者を助ける面もあるのである。

『セイヴィング キャピタリズム』(ラグラム・ラジャン他著、慶應義塾大学出版会)という本に、バングラデシュの貧しい農村女性の例が出ている。たった数ドルを市場金利で借りられれば手芸品を売って自立できるのに、この女性は金融の機会がないため、仲買人に法外な高金利で搾取され、貧困から抜け出せない。

一方、米国では、既存の金融業者に搾取されていた中南米からの移民を、インターネットを使った新しい金融技術で救っている企業もある。

新興の金融ファンドや金融技術の導入を阻害すれば、技術の低い既存の金融業者を利することになる。それは、結局、弱者を一層苦しめることになるのである。

2006年3月27日「朝日新聞」に掲載
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2006年5月19日掲載

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