ディベート経済 会社は誰のものか

小林 慶一郎
研究員

経済問題で対立する2つの主張を紹介、それぞれの言い分を読み解き、合意点があるかどうかを探る。いわば経済をめぐる紙上ディベート(討論)。
今回は、ライブドアとフジテレビの攻防で浮かんだテーマ「会社は誰のものか」。

株主利益の最大化が目的

株主や投資家の立場では「会社は株主のもの」という見方が当然視されている。そのポイントを見ておこう。

経済学的には、会社の存在理由は利潤の最大化である。そして、その利潤は最終的には株主に帰属する。つまり、会社の存在目的は株主の利益を最大化することなのだ。いいかえれば、会社は株主のもの、ということになる。

もちろん、社員が「やりがい」を持って働くことや、顧客が会社から高い満足を得ることは重要だ。しかし、社員や顧客が重要なのは、彼らが会社に利益をもたらし、最終的に株主の利益を最大化してくれるからだ。

逆に言えば、株主の利益を損なってまで、会社が社員に気を使ったり、顧客に利益を与えたりすることは許されない。そうした行為は、会社の存在目的に反している。

また、何が株主の利益になるかは株主自身が一番よく知っている。だから、会社の事業内容の再編、経営陣や社員のリストラなどは、当然、株主の「考え」にしたがって行われるべきだ。

たとえば、会社の事業内容をどのように再編するかは当然、新しい株主の意思が最大限、尊重されるべきだ。それが会社の価値を最大化するはずだ。

また、株主が会社の事業内容について専門的な知識がないとしても、誰に経営を任せるべきかは、株主が当然決める。既存の経営陣に続投を求めるか、新しい経営専門家を招くか、その選択をするのは株主の当然の権利だ。

最近の経済学では、会社を「本人と代理人のモデル」として扱うのが一般的だ。

会社の経営陣は、あくまで株主の「代理人」として、株主という「本人」の利益を最大化させるために働く。それが会社の基本形だ、というのである。

このように、「会社は株主のもの」という見方が経済理論的にも揺るぎなく支持されている現状がある。

社員や顧客があってこそ

伝統的な日本企業やサラリーマンには、「会社は株主のもの」という考えとはまったく別の意見がある。むしろ「会社は社員や顧客のもの」というのが実感に近いはずだ。そのポイントをまとめると次のようになる。

現実の会社は経済学の世界とは違う。

まず、創業者や社員のやりたい事業があり、そのために資金が必要だから、株式市場で投資を募り、株主を集めるのだ。

創業者が株主の場合は、たしかに会社は株主のものだが、上場してサラリーマン経営者が経営する会社にとっては、株主は債権者と同じく、資金の出し手に過ぎないではないか。

そもそも、会社の存在目的は利潤の最大化なのだろうか?

多くの会社の定款などには、事業を通じて社会に貢献したい、という設立目的が掲げられている。

これは単に表向きの無意味なお題目ではない。普通の人間は、金銭的利益だけのために働くことなどできないのだ。会社の事業内容に、何か公共的な意義がなければ、社員はやる気を持てない。利益だけを目的にする会社に、普通の人は人生をかけられないのだ。

株主にとっての利益も、短期の利益か長期の利益かで違ってくるはずだ。

長期的に見れば、社員がやる気を持ち、多くの顧客が高い満足度を感じるような事業をする方が、会社の価値も上がる。短期的に株主の利益になることをやれば、長期的に株主自身の首を絞めることになる。だから、会社の経営の細部まで株主の思い通りにやるべきではない。

経営陣、社員、顧客の総意で経営の方針は決まってくる。その事業の結果、利益が上がれば、株主は出資者として利益を受け取るだけだ。株主権のことを残余請求権ともいう。賃金支払いや債務返済をした後に残る会社の残余利益をとる権利のことだ。つまり、株主は残り物をとる権利を持つに過ぎない、と見るべきなのだ。

ぶつかる市場の倫理と共同体倫理

さて、どちらに分があるのだろうか。会社というパイを株主と社員でどうやって分配するか、という話だとすると、どっちもどっちということになりかねない。

外からみると、会社の事業や行動は、株主が主で社員が従でも、その逆でも、あまり変わらないかも知れないからだ。

問題は、もっと奥深いところにある。それは、会社が社員の自発的な自己犠牲を必要とするときがある、ということだ。

たとえば、顧客のクレームに対応するため、深夜や土日に残業が必要に場合がある。会社が残業代などで金銭的に補償するのは当然だ。しかし、社員は仕事のために、お金では取り返せない犠牲を家庭や私生活で払っているともいえる。

社員が自分の生活を優先し、顧客の要求に対応しなければ、会社の信用が落ち、利益も上がらなくなる。社員みんなが自分を犠牲にせずに会社が順調にいくのが理想だが、そんなことは少ない。どの会社も多かれ少なかれ社員の自己犠牲に支えられている。では、なぜ社員は自己犠牲を払うのか。

それは、顧客への信義や会社への忠誠心、仕事への志といった倫理観に支えられているからだろう。しかし、信義、忠誠、志という価値観は、金銭的利益とは相いれない倫理体系に属している。

人間の倫理体系は2つあるという説がある。ひとつは市場の倫理で、これは「契約を守る」というような商取引上の美徳をあらわす。しかし、市場の倫理は自己利益が究極目的でありそこから自己犠牲は出てこない。もうひとつは、共同体内部の統治倫理。軍隊やスポーツのチームなどが典型的で、自己犠牲によって仲間を救うことが大きな美徳とされる。

会社は、外との関係では市場論理で利益を追求していても、その内部は共同体的な倫理規範で運営されなければならない。ところが、株主が会社の「内部」に市場の倫理を持ち込むと、その倫理規範が壊れてしまう。

利益優先の買収が大きな反発を呼ぶのは、そのためだ。社員にとって、会社が金銭的利益を超えた高い理念や理想の対象でなければ、自己犠牲などできない。

もちろん、それは社員の側から見た共同幻想ともいえる。しかし、社員がそういう幻想を持てない会社は結局、よい仕事はできない。そして利益も上げられない。

一方、会社が利益追求のマシンでもあるという側面も、市場での現実だ。

この両義的な現実が、終わりのない論争を引き起こす。

2005年4月25日「朝日新聞」に掲載
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2005年5月9日掲載

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