中国人民元改革と東アジア 域内為替安定へ前進

伊藤 隆敏
ファカルティフェロー

中国の人民元改革は不透明な部分が大きく、米国が満足するかどうかは今後の推移次第だ。ただ、人民元のドル・ペッグ(連動)が外れたことで、東アジア諸国では今後、域内為替レート安定のため、共通のバスケット制を採用するといった改革が中長期的な課題となってくる。

不明点多い発表 変動幅だけ明確

中国人民銀行は7月21日午後7時(日本時間午後8時)、人民元の対ドルレート2%の切り上げと、多通貨バスケット価値を参照して変動を許すという「公告」を発表、人民元改革の第一歩が印された。公告はまず、「中国人民銀行は、国務院の批准を経て、人民元の為替制度の改革を行う」として、この人民元改革が、中央銀行だけによる決定ではなく、高度の政治決定であったことを示唆している。その上で、改革の内容を4項目にまとめている。

第1に、為替レート体制は、ドル・ペッグをやめて、市場の需給に基づき通貨バスケットを参照する管理フロート制に移行する。第2に、毎営業日の取引終了後に決まる「終値」が、翌日の中心レートになる。第3に、21日の終値を1ドル=8.11元(前日比約2%の切り上げ)とする。第4に、日々の変動は、対ドルで中心レートの上下0.3%の範囲を堅持する。さらに、中長期的には「通貨バスケットを参照しつつ、市場の情勢を見ながら、より弾力的なものとする」とした。

この発表を素直に読むと、はっきりしているのは、日々の変動幅は対ドルで上下0.3%である、ということだけである。変動幅の上限・下限にぶつからない限り、変動はまったく自由に任せられるのか、それとも、そもそも上限・下限にぶつからないように介入が行われるのかは、明らかではない。さらに「通貨バスケット」に関しても、バスケットの構成通貨やそのウエートが発表されていないので、この部分は運用を見てみないと最終的な判断を下せない。

取引終了後に中国人民銀行が公表する「終値」は、人民元の対ドル、対円、対ユーロ、対香港ドルの4通貨のレートである。しかし、対ドルの終値がそのまま翌日の対ドルの中心レートになるのでは、通貨バスケットを参考にする、という意味はほとんど無い。バスケットを真剣に使っているとすると、むしろ終値が想定するバスケットに近い値になるように、市場の終わりに介入して元ドルレートを誘導している、ということなのだろうか。この部分は今回の発表でもっとも不明瞭な点である。

理論的には、中心レートは毎日少しずつではあるが、じりじりと切り上がる可能性がある。人民元を買う圧力が強く、上限(1日の切り上げ0.3%)が毎日達成され、その上限が翌日の中心レートになることが繰り返されるならば、10日で3%、1カ月(約20営業日)で6%、3カ月で約20%の切り上げが可能ということになる。これは、クローリング・ペッグと呼ばれる仕組みである。今回の人民元改革は、そのクローリング・ペッグの中心レート変化に「バスケット」を参照する、というのが正しい理解のように思われた。

ところが、26日になって中国人民銀行は、2%の切り上げの改革を改革の「第一歩」と解釈すること、また「漸進的な改革」について、切り上げ幅が累積的に拡大すると解釈することは誤りである、との声明を発表した。これでは、理論的な例で示したような切り上げの累積は許さない、ということである。

市場予想よりも時期早く小幅に

21日の人民元改革が行われるまでは、マーケットの一部で、8月には5%から10%の切り上げを伴う人民元改革が行われる可能性が高いと考えられていた。その理由は、9月には胡錦濤国家主席が訪米するので、その前後では米国の圧力に負けたと解釈されてしまう。10月には米財務省が議会に半期に一度の為替政策報告書を提出するが、前回は、中国は為替を操作していないという報告と同時に、半年間の猶予を与えるという条件をつけていたので、それまでに何もしなければ、10月には何らかの厳しい報告が書かれる可能性があった。米国の圧力での改革であることを、あからさまにしない形での人民元改革は、8月がぎりぎりのタイミングであるというものであった。

これまで米財務省は、人民元に関する特使をたびたび訪中させ、中国の要人や有識者と会談させて、静かな説得を行っていた。中国もこれ以上、ブッシュ政権、とくに財務省を、対議会の関係で苦境に立たせるのは得策ではないと判断したようである。中国は、市場の予想である8月というスケジュールをさらに前倒しにすることで、予想の裏をかくことにしたと思われる。結果的には、マーケットの予想よりも時期は早いが、切り上げ幅は小さな改革となった。

この改革が、米国を満足させるのに十分かどうかは、今後の人民元の変動(対ドルでさらに切り上がるか)、外貨準備(これまでよりも増加率は減速するか)、貿易収支の動向(対米黒字は縮小するか)、などにかかっているといえよう。

金融協力の議論深めよ

元が円やユーロに対してバスケット制を採用するということは、元の価値の変化は、ドルと円とユーロの価値の変化の加重平均で決まるということである。つまり、円もユーロも対ドルで一定率減価しているときには、元も対ドルで減価するが、その減価率は、円やユーロほどではない。もし円とユーロのウエートが同一ならば、円が減価してユーロが増価するときには、その変化率の大きい方の通貨に合わせて、元の増価か減価かで決まることになる。

たとえば、今月22日から28日までの元の対ドルレートの動きが、円の対ドルレートとユーロの対ドルレートの変化によりある程度説明できる。元の対ドルの変化の程度は、方向は一致していても、円の対ドルやユーロの対ドルの変化よりも小さい。バスケット制と見なすと、円とユーロのウエートはかなり小さいと推定される。もちろん、きわめて少ない判断材料に基づくため、今後の様子を見ないとウエートについては確実なことはいえない。

ところで、バスケット制に移行するということは、必ずしも介入通貨や外貨準備もバスケットにすることを意味しない。また、バスケット価値にペッグするための介入は、対ドルでも、対円でも、対ユーロでも行うことができる。ドル、円、ユーロの3通貨間の為替レートが、中国の介入により影響されないとすると、中国がどの通貨で介入を行っても、3通貨間の裁定により、得られる結果は同じになる。

また、外貨準備をどのような構成で持つかは、流動性の確保と資産運用の観点から判断されるのであり、通貨がペッグしているバスケットの構成と一致する必然性はない。したがって、バスケット制の採用が外貨準備の入れ替え、つまり米国債の売りを意味するわけではない。

主要貿易相手国の通貨を入れたバスケットに従って中心レートが変化する一方、広めの変動幅をもって為替レートの変化を許すシステム(バスケット・バンド・クローリング制=BBC)は、実質実効為替レートを安定した状態に保ちつつ、短期的にはある程度の変動を許すという為替制度である。BBCに近い為替制度を採用している国として、アジアではシンガポールとタイを挙げることができる。これによって輸出競争力が安定する一方、貿易相手国の通貨の傾向的な変化に対しては自動的に追随していく効果がある。

東アジア諸国にとって、対世界貿易の5割近くは、同じアジアの中の国々との貿易である。従って、東アジア地域の域内為替レートが安定したうえで、東アジアの通貨が対ドル、対ユーロで同じようにフロートするようになれば、東アジア域内の貿易・投資・資本移動の安定のためには望ましいといえる。ただし、各国が異なるバスケットを採用すると、混乱する可能性がある。

中長期的に、東アジア諸国が共通のバスケットに基づくBBCを採用することができれば、アジア地域の為替制度は非常に強固なものへと飛躍することになる。これまで、この方向への地域金融協力の最大の障害が、中国のドル・ペッグであった。この制約が外れた今、東アジア地域の政策担当者は、これからの金融協力に向けた議論を深めるべきである。

2005年7月29日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2005年8月8日掲載