大詰めのWTO交渉 農業での妥協拒むな

石川 城太
ファカルティフェロー

世界貿易機関(WTO)の多角的通商交渉(ドーハ・ラウンド)が大詰めを迎えている。日本は農産物関税の上限設定に強硬に反対するあまり、交渉力を低下させつつあるが、日本全体の長期的利益を考慮し、妥協の道を探るべきである。

香港閣僚会議の失敗は許されず

来月中旬、香港でWTO閣僚会議が開かれる。この閣僚会議は、ドーハ・ラウンド(正確にはドーハ開発アジェンダ)の今後の行方にとって重大な意味を持つ。今回のラウンドは当初、1999年にシアトルで開かれた閣僚会議で、2000年からの立ち上げが宣言される予定だったが、自由貿易に反対するNGO(非政府組織)、労働者などの抗議行動や途上国の強い抵抗にあい、立ち上げに失敗した。01年ドーハでの閣僚会議で新ラウンドの立ち上げ宣言にこぎつけたものの、03年カンクン閣僚会議では交渉が決裂し、その後の巻き返しによって、何とか04年7月の一般理事会で交渉の枠組みが決定された。

また、当初の交渉期限(04年末)が延長され、現在では、来年中の交渉終結を目指している。このような状況の下で開かれる今回の香港閣僚会議は、多角的な貿易・投資自由化を今後も維持・推進していくにあたって、失敗が絶対に許されない。もし失敗するようなことがあれば、WTO体制自体が存続の危機に直面することになろう。

ドーハ・ラウンドでの主な交渉分野は、農業・非農産品の市場アクセス・サービス・開発・貿易円滑化であり、来年中に交渉を終結するためには今回の閣僚会議においてこれらの分野で相当な成果をあげることが不可欠である。そこでの交渉のたたき台を作り上げるべく、交渉が進められてきたが、状況は思わしくない。なかでも、今年の7月末に行われた一般理事会が大きなヤマ場と見られていたが、主要論点について集約できず、香港閣僚会議に向けて多くの課題を残した。

交渉がなかなか進展しない理由としては、先進国については、かなりの分野ですでに自由化が進んでおり、農業など残った分野では政治的な調整が難しいということが挙げられる。また、投資・競争・政府調達の透明性などといった分野が今回のラウンドからはずされたことが、日本を含む一部の国の交渉インセンティブを低下させた。途上国は、急速な自由化、とくにサービスの自由化に危機感を抱いている。

農業分野の交渉がカギ

9月以降、各国・各交渉グループ間の協議が再び活発化しているが、現時点では、とくに農業分野において各国の主張に大きな隔たりがあり、具体的な関税削減率などについて合意するのは困難な状況にある。

農業交渉は、農産物の輸出国と輸入国、先進国と途上国、それぞれの立場の違いによる利害関係が複雑に絡んでいる。さらに、例えば欧州連合(EU)は、米国やブラジルなどからの農産物市場開放圧力に対して、農業問題を鉱工業品やサービスの自由化とセットで交渉すべきだと主張しており、農業分野だけを切り離すことも難しい。

農業交渉の基本的枠組みは、輸出競争・国内支持・市場アクセスの3つである。輸出競争に関する交渉では、すべての形態の輸出補助金の削減・撤廃について話し合うことになっている。国内支持をめぐる交渉では、生産補助金や価格支持など農業補助金の削減のあり方が問題となり、ブラジル、中国、インドなどで構成する途上国グループG20が先進国の農業補助金を批判し、大幅な削減を求めている。市場アクセスでは、農産物の関税削減が焦点で、関税の引き下げ方法に関して、輸出国と輸入国の間に対立がある。とくに、日本、スイス、韓国など農産物輸入国で構成するグループG10は、関税の上限設定に強く反対している。

現在148カ国・地域がWTOに加盟しており、世界の貿易の90%以上を加盟国で占めていることを考慮すると、ドーハ・ラウンドで何らかの多角的ルール作りに成功し、さらに将来のラウンドへの道筋がつけば、貿易立国である日本が得る利益は大きいはずである。交渉はWTOの原則である互恵主義に基づいて行われるから、日本も要求を出すだけではなく、譲歩する必要がある。日本が求められているのはやはり農産物の市場アクセスであり、どのように譲歩して、多角的な枠組みを作っていくかということが重要になるだろう。

上限関税の問題については以下のように考える。確かに、日本のコメをはじめ、各国ともいろいろな問題を抱え、「重要品目」に対しては何らかの配慮が必要であるという共通認識がWTO内にもある。しかし、上限設定反対を過度に唱えることでどのような影響が生じるかをよく考えるべきである。あまりにも高い関税を強硬に要求することで、交渉における日本の立場が弱まってしまう可能性がある。

農産物高関税 効果に疑問も

かたくなに妥協しないという戦略は、それが最終的に交渉相手の妥協をもたらすという意味において交渉を有利に進める可能性もあるが、他方では、それならもう日本は相手にしないということになって日本の交渉力低下につながる可能性もある。WTOのように利害が複雑に絡み合った多国間交渉では、後者の可能性の方が強いように思われる。

カンクン閣僚会議のときも、最初はEU、米国、日本が連携して途上国と交渉し、妥協点を見いだそうという動きがあった。ところが、日本は農業問題が足かせとなってぐずぐずしている間に、米国とEUが連携を強める一方、日本は実質的な交渉からはずされてしまい、最終的には交渉は決裂してしまった。中には、思惑どおりにことが運んだと思う人がいるかもしれないが、日本全体の長期的な利益を考えると必ずしも望ましくない。

さらに、「日本はずし」によって、ブラジル、中国、インドなどが存在感を強めている。政治的な問題もあって上限関税に反対なのかもしれないが、それによって被るであろう不利益を考えなければならない。さもなければ、最終的に国内の農業関係者に対して利益を守ったという説明ができたとしても、日本の国益を守ることができたといえるかは疑わしい。

例えばコメに対する778%相当、こんにゃく芋に対する1705%相当といった高関税が本当に必要なのだろうか。コメの関税は内外価格差に基づいて算定されたが、その比較に用いられたコメは、日本の中でも比較的良質なコメとタイの低級米といわれている。また、高い関税によってこんにゃく芋そのものの輸入は阻止しているかもしれないが、こんにゃく芋を用いた加工品がかなり輸入されており、関税によるこんにゃく芋生産者の保護効果は疑わしい。したがって、コメやこんにゃく芋の関税をある程度下げても、現状にはほとんど影響がないと予想される。今後の日本の交渉力、リーダーシップといった観点に立てば、妥協の道を探ることが大切になるだろう。

現在までの経緯を見ていると、ドーハ・ラウンド成功への道のりはかなり厳しそうである。しかし、ラウンドが失敗に終わった場合のコスト、すなわち多角的な貿易・投資の自由化推進力の急激な低下による不利益を加盟国が憂慮することで、最終的にはまとまるのではないかと思われる。場合によっては、日本がカヤの外におかれた状態で、欧州主導で急転直下まとまる可能性もある。

ただ、無理矢理まとめるということになると、最終的に合意されるパッケージは当初期待されたほどのものとはならない可能性が大きい。とくに、交渉が行き詰まった分野は何らかの形での先送りが予想される。ラウンドで期待した成果が十分得られなければ、現在も進行しているFTA(自由貿易協定)などの地域主義に各国がますます傾斜することになるだろう。

ラウンドで大きな成果が期待できない大きな理由の1つは、WTOの加盟国が増加したにもかかわらず、GATT(関税貿易一般協定)から引き続いてコンセンサス(全会一致)主義をとっていることにある。このような状況下では、非公式な交渉を積み重ねることによって合意を形成していかざるを得ない。公式交渉はもちろんのこと、このような非公式な交渉においてもリーダーシップを発揮できるよう、長期的な視点に立った日本の戦略が求められている。

2005年11月9日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2005年11月14日掲載

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