存在感低下する成長戦略 労働市場の流動化が先決

乾 友彦 ファカルティフェロー

6月9日に成長戦略の骨子となる「未来投資戦略2017 Society(ソサエティー)5.0の実現に向けた改革」が閣議決定された。

ソサエティー5.0とは、IT(情報技術)を社会全体が高度利用することにより、「新しい価値やサービスが次々と創出され、社会の主体たる人々に豊かさをもたらしていく」社会と定義されている。2015年のアベノミクス第2ステージ以降に提唱されたロボットや人工知能(AI)を駆使した「第4次産業革命」の推進を、医療分野や交通分野などあらゆる産業および生活分野に拡大していくことを主な政策目標としている。

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ただここで忘れてはならないのが、第4次産業革命の前段階にあたる1990年代半ば以降の情報通信革命がもたらした「情報革命」で、IT導入による生産性向上に最も成功した米国に対し、日本の生産性は90年代以降低迷し水をあけられたという事実だ。

経済協力開発機構(OECD)の統計を用いて、労働者1時間当たり国内総生産(GDP、購買力平価、12年基準)を比較してみる。90年には米国が42.1ドル、日本が28.1ドルだったのに対し、15年には米国が62.9ドル、日本は41.4ドルであり、日本の労働生産性は25年前の米国のレベルにさえ達していない。

情報革命と同様、第4次産業革命でも日本が米国に後れを取れば、生産性の向上を促すような社会全体のイノベーション(技術革新)を引き起こすと期待されているソサエティー5.0は絵に描いた餅となる。そうならないためには、生産性向上が実現しなかった要因を明らかにし、その教訓を生かすことが肝要だ。

筆者は、IT導入の重要性が認識されながら、その導入が社会経済構造により遅れたことが一因だと考える。

深尾京司・一橋大教授を中心とする研究グループは、日本でのIT導入の障壁の1つとして、労働市場の流動性の低さを指摘している。

日本企業によるIT導入の主要な目的は業務の合理化やコストの削減だ。特にIT導入による非熟練労働者の削減が求められていた。しかしながら日本では高い雇用保障があるため、実際のところ人員削減は難しく、所期のコスト削減が期待できないIT導入は見送られてしまう。

加えてIT導入を見合わせた副作用として、コストが安く雇用調整が容易なパートタイム労働者など非正規労働者の需要が増えた。非正規労働者に対しては十分な教育・訓練が実施されないため、社会全体の人材への投資が削減された可能性も指摘している。

日本の労働市場の改革を進めない限り、IT投資は停滞すると考えられる。まして、より広範囲の労働需要に影響を与える可能性があるロボットやAIの導入の機運は高まらないことが予想される。

また未来投資戦略は、IT能力向上に向けた教育・人材育成への取り組みの重要性も指摘する。これも企業がIT導入に取り組める環境を整備しない限り、IT能力に秀でた労働者はその能力が十分に発揮されない可能性が高い。

米国の企業データを用いた研究でも、解雇規制の強化が企業の資源配分の効率性に負の影響を与え、生産性を低下させると報告されている。ソサエティー5.0を実現するには当初のアベノミクスの方針に立ち返り、解雇規制の緩和など労働市場の流動化の促進策を議論する必要がある。

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ソサエティー5.0は、IT利用による産業や企業の生産性向上やイノベーション加速に加え、医療分野でも大量に蓄積された医療関連データを利用した分析の推進により個人の健康管理能力を高め、健康寿命の延伸や生涯現役社会の実現を図るとしている。

ではどんなデータを提供すれば個人の健康管理能力は高まるのか。企業のIT導入と同様に、個人の健康管理への投資の制約要因や健康意識の向上に有効な政策のエビデンス(証拠)が示されないと、期待した政策目標が達成されず、結果的に資源が浪費されかねない。限られた政策資源を有効に活用するには、過去に実施された政策を評価したうえで、新たな政策を形成することが求められる。

政府は疾患の早期治療を可能とし、重篤化を防ぎ、社会全体の医療費増加の抑制が期待される健康診断の普及に尽力している。08年度からは生活習慣病の早期発見と治療を目的として、メタボリック症候群に的を絞った特定健康診査・特定保健指導を40〜74歳の公的医療保険加入者全員を対象に導入した。しかし特定健康診査(特定健診)の受診率は14年度で48.6%と目標の70%に遠く及ばない。

筆者を含む研究グループは経済産業研究所のプロジェクトで、特定健康診査・特定保健指導が健康意識などに与える効果を検証した。この政策を評価する際に注意せねばならないのは、そもそも健康意識の高い個人が特定健診を受診する可能性が高いという事実が評価に影響を与えることだ。よって受診が健康意識を高めたのか、健康意識が高いから受診したのか、因果関係を特定する必要がある。

この検証方法には疑似実験的手法(回帰不連続デザイン法)を用いた。この手法は特定健診の受診が40歳から対象になるという制度的な特徴を利用して、40歳前後での個人の健康意識の変化を観察し、特定健診が与える効果を検証した。具体的には40歳前後で検証対象の健康意識に大きなジャンプ(不連続)が観察されれば、特定健診の影響を受けたと考察する。データには、厚生労働省による大規模調査である国民生活基礎調査の10年と13年の個票を使用した。

分析の結果、特定健診制度の導入が一般健康診断を含めた健康診断全般の受診率を高めたことは確認されたが、個人の自己申告の健康状態の向上、健康行動(喫煙習慣)、医療費の支出などには明確な効果は確認されなかった。図からも分かる通り、40歳前後で自己申告の健康状態の大きなジャンプは観察されない。

図:自己申告の健康状態(2010年調査)
図:自己申告の健康状態(2010年調査)
よい=1、まあよい=2、普通=3、あまりよくない=4、よくない=5として数値化。は年齢別平均、実線は推計値、破線は推計値から±2標準偏差

この結果は健康診断や特定健診の効果を疑問視する国内外の先行研究と整合的だ。効果に関するエビデンスを行政が明確に示さないままでは、日々の仕事や子育てに忙しい個人が貴重な時間を割いてまで特定健診を受診するインセンティブ(誘因)は高くない。

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ソサエティー5.0実現の戦略的分野として(1)健康寿命の延伸(2)移動革命の実現(3)サプライチェーン(供給網)の次世代化(4)快適なインフラ・まちづくり(5)(金融とITを融合した)フィンテック――の5分野が取り上げられている。どの分野もITの高度利用を前提としているが、ITの導入・高度利用のためには人材の流動化を促進し、労働者が適材適所で活躍できる環境を整えることが不可欠だ。

ソサエティー5.0の実現のためには前述したように、政策効果の有効性について科学的・客観的に検証したうえでその結果に基づいた方策を推進することが求められる。

経済成長を実現する主体は政府ではなく企業や国民だ。企業や国民が政策の効果を理解し信頼できなければ、その行動を変化させることは難しい。政府は各種行政情報などの大量なデータを保有している。こうしたデータを使用して専門的に政策効果を分析する部署を政府内に設置し、国民のニーズが高く効率的な政策を検討することが、公的部門におけるソサエティー5.0の実現だと考えられる。

2017年6月26日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2017年7月10日掲載

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