原油価格の下落が引き起こす未曾有の事態
中東で地政学リスクが飛躍的に高まる懸念

藤 和彦
上席研究員

米WTI原油先物価格は供給逼迫懸念の後退などから6月下旬以来の安値(1バレル=60ドル台後半)に下落している。

その要因として第1に挙げられるのはリビアの原油増産である。政府の分裂により原油生産が半減(日量53万バレル)していたが、7月12日に東部の輸出港から出荷が再開され、原油生産量が2月の水準(日量128万バレル)に回復する見通しが立ちつつある。

次にロシアだが、7月16日にヘルシンキで開催された米ロ首脳会談の場でガソリン高を懸念するトランプ大統領がロシアに原油の増産を要請して「ロシアの原油生産に拍車がかかる」との観測が広がった。ロシアの6月の原油生産量は日量1106万バレルだったが、7月には1119万バレルにまで達する見込みである。

サウジアラビアの6月の原油生産量も前月比40万バレル増の日量1042万バレルとなり、7月には1080万バレルの過去最高水準に達すると言われている。

米国の原油生産量はシェールオイル産地からの輸送パイプラインのボトルネックの問題でこのところ頭打ちになってきているが、直近の生産量は日量1100万バレルを突破した。2019年第1四半期には1161万バレルにまで達するようだ(米エネルギー省の予測)。WTIと北海ブレント原油先物の価格差の縮小で米国産原油の輸出量が大幅に減少(日量300万→146万バレル)したことから、需要期にもかかわらず国内の原油在庫が増加に転じた。

さらに「主要産油国の増産でも国内のガソリン価格が下がらなければトランプ政権は11月の中間選挙前に戦略石油備蓄(SPR)の取り崩しを積極的に検討している」との報道(7月14日付ブルームバーグ)も「売り」を誘った。6.6億バレルを擁するSPRのうち最大3000万バレル放出することが検討されているようだが、「これにより原油の需給関係は劇的に緩和する」との指摘がある。

ベネズエラもイランも原油の供給は途切れない

一方、供給減の要因については、市場はあまり反応しなくなってきている。

原油生産量が減少し続けているベネズエラは事態が好転する兆しは見えない(6月の原油生産量は前月比5万バレル減の日量134万バレル)が、ベネズエラにとっての最大の資金の出し手である中国が7月に入り原油生産の回復のための投資として2.5億ドル超の資金を緊急援助することを決定した。将来的に50億ドル規模の資金を拠出することも検討し始めている。ベネズエラへの新規融資は米国の経済制裁に抵触する可能性があるものの、中国に次ぐ主要債権国であるロシアも支援を続行すれば、ベネズエラの原油生産量が急減するリスクは小さくなる。

イランへの経済制裁による同国産原油の輸入停止についても、7月10日、ポンペイオ米国務長官は「イラン産原油輸入を継続した場合に科す経済制裁の適用除外を検討する」考えを表明した。ムニューヒン財務長官が7月13日に「すぐにゼロにできない場合は例外も検討する」と発言したこともあり、日量80万〜200万バレル規模で国際市場から閉め出されるとされているイラン産原油の供給は途切れないとの見方が出てきている。「日本の石油会社がイラン産原油の輸入を手控える」との報道(7月19日付日本経済新聞)が出ているが、米国との対立を深める中国が米国産原油の輸入をイラン産原油に切り替えれば、その影響は軽微なものになるだろう。

その他、ノルウェーで石油関連施設の従業員が待遇改善を求めてストライキを行っていることや、イラクで反政府デモが拡大していることなどが報じられているが、原油安の流れを反転させる材料にはなっていない。

世界の原油需要が低迷

7月上旬のヘッジファンドによるWTI原油先物の買い越し幅は4週連続で拡大し、史上最高レベルに達しており(米商品先物取引委員会調べ)、高値警戒感から相場の流れが変わりつつあるのではないだろうか。供給面に加え需要面でも懸念材料が出ているからだ。

OPECは7月11日、「消費が減速するため2019年のOPEC産原油の需要は日量3218万バレルとなり、2018年から76万バレル減少する」との見通しを示した。OPECをはじめとする主要産油国の減産措置にもかかわらず、原油市場が再び供給過多になる可能性が出ている。

世界最大の原油需要国である米国の直近の数字は日量1991万バレルとなり、節目の2000万バレルを下回って低迷している。石油製品価格の高騰が消費を手控えさせているからだ。6月の米生産者物価指数の伸びが加速しており、物価上昇圧力が米国の利上げのペースを加速させ、石油製品需要をさらに減少させる恐れがある。米エネルギー省は今年(2018年)の原油消費量を2041万バレルから2035万バレルに引き下げた。

世界最大の原油輸入国となった中国の6月の輸入量も前月比9.2%減の日量836万バレルとなり昨年12月以来の低水準となった。独立系製油所(茶壺)の原油輸入量が20カ月ぶりの低調となったからである。

茶壺は2015年に原油輸入が認められると猛烈な勢いでその量を拡大させ、現在中国の原油輸入量全体の5分の1を占めるまで至っている。昨年の原油輸入量の増加の85%を占めた茶壺が輸入に消極的になったのは茶壺に対する税制が強化されたからである(7月15日付OILPRICE)。茶壺はこれまで消費税が実質的に免除されてきたが、今年3月以降、その例外が認められなくなり、原油価格の上昇による精製マージンの低下もあいまって経営環境が急速に悪化している。中国政府が7月に実施した今年2回目の原油輸入枠の入札も極めて低調に終わっていることから、茶壺の原油輸入量は今後も低調となる可能性が高い。

米中貿易戦争の懸念も日増しに高まっている。米国の対中輸出額よりも中国の対米輸出額の方が格段に多いことから、中国経済に対する警戒感が高まっている。米国政府は7月10日、中国からの輸入品2000億ドルについての関税リストを公表し、10%の追加関税を適用する方針に明らかにした。最終的には中国からの輸入額全体に匹敵する5000億ドル超に追加関税を課すとしており、トランプ大統領の対中関税攻勢はもはや後に引けない地点に到達した可能性がある(7月12日付ブルームバーグ)。

中国の過去10年間の対米貿易黒字合計額は3.2兆ドルに上るが、トランプ政権は中国の対米貿易黒字を今後半減することを目標にしている。米国は最近まで「中国の発展を手助けすれば国際秩序を守る民主国家になる」との期待から中国を支援する「関与(エンゲージメント)」政策を採ってきたが、ようやく誤りに気づき、対決姿勢に舵を切ったようだ。「米国は20年後の覇権を賭けて中国の封じ込めを本気で狙っている」と指摘する向きもある。長年の懸案だった債務問題が表面化しつつあるタイミングであることも混乱に拍車をかけている。中国経済が急速に失速すれば、茶壺の需要減よりもはるかに大規模の原油需要の減少が生ずるだろう。

世界第3位の原油消費国となったインド経済も原油高のせいで原油需要が減少し始めている(7月11日付OILPRICE)。原油価格の高騰により多くの米ドルが必要となった石油会社のせいでインドの通貨ルピーが下落し、これにより原油輸入コストがさらにアップするという悪循環が生じており、急速なインフレの進行はインド経済全体の懸念材料になりつつある。

世界の1次エネルギー需要に占める原油の割合を見ても、2000年の4割弱から2020年に3割強まで下がるとされており(英BP予測)、原油需要の低迷は長期にわたって原油価格への下押し圧力になる。

ホルムズ海峡封鎖を匂わせるイラン

筆者は原油需要の減少から原油価格は年末にかけて1バレル=50ドル前後まで低下し、これにより中東地域で地政学リスクが飛躍的に高まるのではないかと懸念している。

まず、イランである。イラン革命防衛隊高官は7月10日、「イラン産原油が禁輸となれば、我々は原油を運ぶ船舶がホルムズ海峡を通過することを許さない」と発言した。

「米国の制裁によるイラン産原油の減少を補填しろ」という米国の要請を受け、サウジアラビアなどは増産態勢に入っているが、イランが「自国の犠牲によって他の産油国が経済的恩恵に浴するのはなんとしてでも阻止したい」と思うのは当然である。原油輸出量の減少に原油価格の下落が加われば、イランの「堪忍袋の緒」が切れてしまうかもしれない。

ペルシャ湾とアラビア海を結ぶホルムズ海峡を通過する中東産原油量は、世界の原油消費量の2割に相当する。ホルムズ海峡の一部はオマーンの領海であるため、イランが同海峡を一方的に封鎖することはできないが、イランのイスラム革命防衛隊の海軍の同海域でのプレゼンスは高い。イランはホルムズ海峡を封鎖したことはないが、欧米の経済制裁に反発したアハマディネジャド前政権が海峡の封鎖を警告したことがある。その後、革命防衛隊はペルシャ湾地域で米国と対決するため巡航ミサイル、弾道ミサイル、無人機、機雷などの軍備を増強し、巡航ミサイルや弾道ミサイルの演習を毎年実施している。バーレーンに司令部を置く米海軍第5艦隊は「ホルムズ海峡の通行の自由と航行の自由を確保する準備はできている」としているが、革命防衛隊が機雷を配備した場合、ホルムズ海峡の再開には長期の時間が必要となりそうだ(7月11日付ロイター)。

原油価格急落でサウジアラビアに政変?

原油価格の下落は、イランと同様にサウジアラビアにも深刻なダメージを与える。

サウジアラビア政府は失業率を下げるために外国人労働者(サウジアラビアの総人口3300万人の3分の1)を追い出す政策を実施した。その結果、サウジアラビアの外国人労働者の流出は2017年1月以降67万人となり、過去最大規模になった(7月11日付日本経済新聞)。だが、外国人労働者が離れた仕事にサウジ国民が就かなかったことから、失業率は13%と過去最悪の水準のままだ。民間部門の労働力の8割強を占める外国人労働者がいなくなったことで、国内経済が疲弊しただけの結果に終わっている。

7月5日付ウォール・ストリート・ジャーナルは「サウジアラムコの上場準備は行き詰まっている」と報じた。これが事実だとすれば、ムハンマド皇太子が打ち出している画期的な経済改革を前進させるという重要なエンジンがなくなってしまい、建国以来最大の改革は頓挫してしまうことになる。

2017年11月の汚職撲滅キャンペーンで拘束された王子や政府高官がいまだ多数存在している(7月10日付ウォール・ストリート・ジャーナル)ことが示す通り、ムハンマド皇太子と他の王族との対立の構図は変わっていない(「ムハンマド皇太子の実母は息子の独断専行に反対しているために自宅軟禁された」との情報がある)。

このような情勢で原油価格が急落すれば、サウジアラビアに政変がいつ起きてもおかしくない。世界の原油の余剰生産能力が縮小している状況下で未曾有の事態が勃発すれば、米国のSPRばかりでなく、日本や欧州諸国が一斉に国家石油備蓄を放出せざるを得なくなるだろう。

2018年7月20日 JBpressに掲載

2018年7月27日掲載

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