ブレグジットで原油価格の主導権はブレントへ
懸念される欧州の原油需要減少

藤 和彦 上席研究員

英国のEU離脱決定を受けて、欧州の銀行は金融市場から容赦ない洗礼を浴びている。前回のコラム(「英EU離脱が引き起こす金融危機、震源地はここだ」)でドイツ銀行の苦境ぶりを説明したが、7月に入るとイタリアの大手銀行に対する懸念が急速に高まってきた。

イタリア最大の銀行であるウニクレジットの株式時価総額は120億ユーロだが、抱える不良債権は4倍以上であり(510億ユーロ)、イタリア全体で不良債権の総額は1980億ユーロにも上る(7月5日付ブルームバーグ)。

英国でも不動産関連ファンドの償還凍結が相次ぎ、不動産関連融資が銀行にリスクをもたらす懸念が急速に高まっている(7月6日付ブルームバーグ)。

このように欧州の銀行がまるでリーマン・ショック前夜の様相を呈してきており、欧州全体がリセションに陥る可能性が高まっている。

そして、このことが原油価格の動向に影響を与えつつある。

市場関係者の注目はブレント原油へ

世界の原油価格はこれまでのところ米国の事情が大きく反映されていた。米国で在庫が減少するとWTI原油先物価格が上がり、石油掘削装置の稼働数が増えると原油価格が下がるという具合である。

だが、英国のEU離脱決定を受けて、渦中の英国が生産する「ブレント原油」に市場関係者の注目が集まりつつある。

ブレント原油とは、英国領北海海域にあるブレント油田から採掘される硫黄分の少ない軽質油である。生産量は日量約50万バレルと少量だが、米WTI原油(日量約30万バレル)と並ぶ世界の原油価格の指標となるマーカー原油である。

ブレント油田が属する北海油田は150余りの海底油田・ガス田から構成されており、英国、ノルウェー、デンマーク、ドイツ、オランダの各経済水域にまたがっている。それらの大半の油田、ガス田は、英国とノルウェーの経済水域の境界線付近に存在している。

1960年に英国が開発に着手すると、ノルウェーもこの動きに追随して開発に乗り出した。北海油田の生産量は、1970年代の2度にわたる石油危機による原油価格の急上昇によって急拡大し、この拡大によって英国は1980年代に原油輸出国となった。だが、1990年代後半に英国の原油生産量はピークを迎え、2004年に原油の純輸入国に転じる。現在の原油生産量は日量約90万バレルである(ただしEU加盟国では最大の原油生産国である)。

ノルウェーも2001年に原油生産のピークを迎えた。だが、2010年に有望な油田が発見されるなど、英国に比べ埋蔵量は豊富である。現在の原油生産量は日量約190万バレルと英国の生産量の2倍以上で、その3分の2が輸出されている。ノルウェーはEU加盟国ではないが、原油の輸出の8割以上がEU諸国向けである(英国の23%が最大)。

苦境に陥る英国の石油業界

北海油田はEU諸国にとって貴重な原油の調達先であるが、生産コストが高く、原油価格下落によって石油開発企業が苦境に陥っている。

特に英国の石油業界は深刻な打撃を受けている。生産コストが1バレル当たり60ドルを超える企業が少なくないため、2015年の1年間に破産に追い込まれた企業数は28社と、1年前の18社から急増した(2013年はわずか6社だった)。石油関連業界の従業員数も、2014年のピーク時に45万人だったが、昨年末には37万人に減少した。

英国政府は救済策として、原油から上がる利益に対する税率を2015年初めの60%から50%に下げ、今年3月にはさらに40%にまで引き下げることを決定した。しかしその効果は表れていない。英国の石油業界は2016年6月、「年末までに従業員をさらに4万人削減する」との見通しを明らかにした(6月10日付ブルームバーグ)。

「弱り目に祟り目」ではないが、英国のEU離脱決定により石油業界は今後数年間にわたって政治リスクに振り回されるとの見方が広がっている。スコットランドで、独立を巡る2度目の住民投票が実施される可能性が出てきたからだ。

英国に属する北海油田の大部分はスコットランド沖にある。その収益の全てが英国政府に吸い上げられる構図になっている。2年前に実施された、スコットランドの英国からの独立を巡る住民投票では、この北海油田の帰属が問題となった。今後この問題が再び蒸し返される可能性が高い。これにより政治的麻痺の状態が生ずれば、石油業界にとって投資環境はさらに悪化するだろう。

ノルウェーでも賃上げをめぐって会社側と労働組合の対立が深まっている。6月末の労使交渉が決裂すれば、日量20万バレル以上の原油生産が停止する可能性があった。スト開始直前に双方が合意したため事なきをえたが、ノルウェーでも来年までに約4万人の雇用が失われる見通しだという(6月1日付ブルームバーグ)。今後もストによる供給途絶が発生する火種は残っている。

懸念される欧州の原油需要減少

このように、北海油田の生産は原油価格の下落や英国のEU離脱決定に伴う政治的な混乱により減少する可能性がある。

ただし、北海油田の操業に支障が出ても、それが原油価格に直接影響する可能性は少なそうである。ロシアとイランという大産油国が欧州市場を虎視眈々と狙い、市場がロシアとイランの「つばぜり合い」の場と化しているためだ。

ロシアエネルギー省によれば、今年上期の原油輸出量は前年比4.9%増の日量555万バレルと史上最高レベルに達している。通貨ルーブル安による価格競争力の向上が貢献しているが、その輸出先の大半は欧州諸国である。

また、イランも今年1月の経済制裁解除後、2012年以降にロシアに奪われた欧州の顧客の再獲得に躍起である(ロシアが生産するウラル原油はイラン産原油と性質が似ている)。

むしろ、懸念されるのは欧州の原油需要の減少である。

先述した通り、欧州全体で金融システムに対する懸念が高まっており、これにより企業の景況感が既に悪化している。国民投票の1週間後に英国で実施された調査によれば、同国の企業の景気の先行きに対する悲観度がほぼ倍の水準(25→49%)に高まったことが明らかになっている(7月5日付ブルームバーグ)。

英投資銀行であるバークレイズは、「世界経済の見通し悪化や金融市場の不透明感が、既に弱い産業需要のトレンドを悪化させる可能性が高い」としている。

欧州地域全体の原油需要は世界の中で約15%を占め、米国(約21%)に次いで第2位である(中国は約12%)。

原油価格は6月上旬に1バレル=50ドルに達して以来、同45〜50ドルのボックス圏を保ってきた。しかし、英国のEU離脱決定を契機に「欧州の原油需要が減少する」との見方が高まれば、ブレント原油が主導する形で世界の原油価格を引き下げることになるのではないだろうか(アジア時間7月5日朝方の取引で、ブレント原油先物価格は1バレル=50ドルを再び割り込んだ)。

中国の原油需要にも悪い兆候

欧州経済に暗雲が立ちこめる最中の7月1日、サウジアラビアのファリハ・エネルギー産業鉱物資源大臣は、「原油の供給過剰が過去数カ月間でようやく改善した」との見方を明らかにし、中国のエネルギー産業に対する投資の拡大に意欲を示した。相変わらず強気の姿勢を崩さないファリハ大臣だが、「今後の問題は、世界の原油在庫の過剰がどれだけ速いペースで解消されるかだ」という悩みも漏らしている。

「世界の原油の在庫過剰は少なくとも3.5億バレルである」というのが専門家のコンセンサスだ。これは大型タンカー350隻を満杯にできる規模であり、大型タンカー350隻の列はスエズ運河の全長の3分の2(100キロメートル超)に達するという(7月1日付ロイター)。まさに気の遠くなるような量である。

市場の需給均衡期待により、原油価格は1バレル=50ドルまで上昇した。だが、膨大な原油在庫がなくなるとの見通しが立たなければ、原油価格が引き続き上昇するのは困難だ。さらに長い時間をかけて原油在庫の取り崩しをしているうちに世界の原油需要が落ち込んだら、その苦労は油ならぬ「水の泡」になってしまう。

世界の原油需要については、欧州に加えて中国についても悪い兆候がある。

7月1日、JPモルガン・チェースが「中国が戦略石油備蓄の積み増しを終了する可能性がある。備蓄向けの購入が停止されれば、中国の原油輸入は約15%減少する」との見通しを示した。中国の原油輸入は今年16%増加しているが、JPモルガンの「戦略石油備蓄の量が貯蔵能力に近づいている」という予測が正しいとすれば、世界の原油需要にとっての最大のリスクである。

米国でも英国のEU離脱決定により金融市場が動揺しているため、自動車販売の伸び悩みが予想され、ガソリン在庫の増加が堅調になりつつある。

英国のEU離脱決定後、ナイジェリアの停戦などで供給途絶の材料が目立たなくなっても原油市場が底堅く推移しているのは、大手金融機関が引き続き強気の見方を崩していないからだ(6月28日付ウォ-ル・ストリート・ジャーナル)。だが、彼らの下支え努力はいつまで続くのだろうか。

原油市場が恐れるブラックスワンとは

7月2日付け日本経済新聞は、市場で想定外の事態を意味する「ブラックスワン(黒い白鳥)」が登場する可能性を示唆する「スキュー(ゆがみ)指数」が、6月末に1990年以降で最高を更新したと報じた。

原油市場におけるブラックスワンは、なんといっても「湾岸大産油国でアラブの春が勃発する」ことである。

サウジアラビアで7月3日、イスラム教の第2の聖地であるメディナをはじめ3件の自爆テロが発生するなど、湾岸地域でテロが頻発している。

OPEC加盟国の原油収入は昨年5182億ドルとなり、前年に比べて4380億ドル減少している。国内の治安を改善したくてもカネがなければいかんともしがたい。

原油市場にブラックスワンが発生すれば、中東情勢が反映されやすいブレント原油が主導する形で価格が高騰するのは火を見るより明らかだ。日本が戦後築いてきたエネルギー安全保障も最大の危機を迎えることになる。

2016年7月8日 JBpressに掲載

2016年7月15日掲載