日本政治改革の幻想

CURTIS, Gerald
RIETIファカルティフェロー

日本の政治改革の歴史には、繰り返されるパターンがある。それは、ある思い切った改革さえすれば、日本政治システムは劇的によくなる、というものである。問題は、その「よくなる」姿だ。それは他のどの国にも存在しない理想化したモデルである。従って、その改革を取り入れても、政治問題が解消せず、やはり「日本の政治は遅れている」という結論になる。また数年たつと、今度こそ政策本位の高度の理念に基づいた政治は実現できるのだ、と誇張する政治改革運動の推進者が現れる。1990年代には「選挙制度が変われば、理想的なシステムが実現する」と言われた。今は、その理想を実現するのはマニフェストと盛んに言われる。

ちょうど10年前、中選挙区制度を変え、定員1人の小選挙区制を導入すれば、革命的といえるほど、良い変化が起こる、とその推進者は強調した。選挙は異なる政策を掲げる2大政党の戦いになり、選挙は地元利益とか、候補者のコネなどに左右されなくなる、と。

中選挙区制を擁護して、新制度に疑問を呈した人々は「守旧派」と名づけられ、批判の的になった。マスコミは選挙制度改革に飛びつき、93年には、もはやこの流れを押し返すことは不可能となった。

しかし、小選挙区比例代表制の導入から10年。今からみると、改革推進者が想像した結果になっていない。個人後援会は依然強力で、有権者も地元問題に関心がある。理念や政策の違いによって、2大政党が争うはずだったが、民主党と自民党の違いがはっきりしないばかりか、自民党内で、小泉首相と抵抗勢力の違いのほうが目立つ。二世議員が多いのは、選挙民は党とか政策より個人を選ぶ傾向が強いことの証しである。

今年になって、理想的な政党政治を実現するために、新しい運動が現れた。マニフェスト運動である。政党や党首を目指す政治家に、もし政権を取ったならば、何をやるのかを公約するのである。ただ、これを「選挙公約」と言えば、新鮮味がないので、わざわざカタカナでマニフェストと書く。政党、政党指導者がマニフェストを出せば、有権者は政策を元に投票し、政治は候補者よりも、政策や政党中心となる。しかも、マニフェストで武装した首相は公約実行のために猛進し、その党の国会議員は首相を支える義務を負う。首相に賛同しない政治家は党を去るしか選択肢はない。その結果、政党が再編成され、政治が活性化する。要するに、小選挙区比例代表制が導入された10年前と、基本的には同じ主張が行われているわけである。

政党や政治家が、実現させたい政策を表明するのは大事である。特に、政党が政策の優先順位を明確にする、という意味ではマニフェストがあったほうがよい。しかし、マニフェストの意義はそこまでである。

米国などの民主主義国家をみても、有権者が選挙公約を勉強して、一番良い候補に投票するという国はない。投票行動を決める要因はたくさんあり、政策だけではない。リーダーの魅力、候補者の性格、現職議員の評価、経済情勢などである。政権を取った政党は必ずしも、首相の政策をそのまま支持することはない。政権党の中に抵抗勢力があるのは、他の国にもみられる現象だ。

マニフェストがあるからといって、政治が良くなるわけではない。過剰な期待を与えることで、過剰な失望感を味わわせるのが、今までの日本の政治改革の歴史である。直すべきところを直しながら、非現実的な政治モデルの追求をやめ、ある特定の改革だけで、日本の政治文化が一夜で変わる、という幻想を棄てるべきではないだろうか。

2003年8月3日 東京新聞「時代を読む」に掲載

2003年8月5日掲載

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