中国の外交 ―歴史と現在―

開催日 2013年10月10日
スピーカー 川島 真 (東京大学大学院 総合文化研究科 准教授)
モデレータ 岩永 正嗣 (経済産業省 通商政策局 北東アジア課長)
ダウンロード/関連リンク
開催案内/講演概要

中国は伝統的に華夷思想に基づく対外観をもち、実質的な貿易関係とともに、この華夷思想をもとにした冊封・朝貢関係をもっていた。その関係は19世紀の末に大きく変化し、以後は不平等条約改正などを目指す近代外交へと転換する。19世紀末から20世紀初頭は、「中国」という国家概念が形成されるとともに、主権が重視され、奪われた国権を回収すること、これ以上国権を奪われないこと、そして国際的地位を向上させること、などが外交の目標となった。第二次大戦によって中国は四大国の一員となり、外交目標は達せられたかに見えたが、国共内戦によって、1949年に中華人民共和国が成立することで、中国はまさに「革命外交」の時代となった。

この講演では、こうした歴史的な背景を踏まえつつ、1978年にはじまる改革・開放以後の中国外交を整理する。特に鄧小平の韜光養晦外交と胡錦濤政権下での外交方針の強硬路線への転換、現在の中国外交の位置づけに重点をおいてみたい。尖閣諸島などの日中関係にも触れる予定である。

議事録

意識される伝統と「国権回収運動」

川島 真写真時代は動いていますが、私はこれまで、中国の外交文書をひもといて研究するというスタイルを貫いてきました。まず、今日は10月10日、すなわち1911年10月10日の辛亥革命の記念日ですのでその頃の中国の外交がどのようなものであったかを見てみます。清王朝の最後の10年間を考えると、中国という言葉自体が曖昧で、現在のようには使われていない時代でした。

梁啓超という人物が、「中国史叙論」を書こうと考えたのは1901年です。その当時、彼は「わが国には国名がない」と言い出します。自分の国の歴史は「清史」ではない。つまり20を超える王朝の名前をすべて並べて「史」を付けるわけにはいかないわけです。では、自分の国の名前は何か――「支那」というのは外国人からみた呼び名であるし、「中華」はあまりにも偉そうである。「中国」ならばいいだろうということで、この頃、「中国」、「中国人」という言葉が定着し始めました。そして、辛亥革命後に出来上がった国家は「中華民国」、略せば「中国」になります。それから100年が経つわけです。

1912年1月1日、中国は近代国家としてスタートするわけですが、外交の面では文明国として享受すべき権利を享受すると述べています。つまり不平等条約を改正し、欧米と平等な国家を目指すということです。中国は主権を非常に重視し、これまで奪われてきたものを取り戻し、これ以上は奪われないようにすることを基本的な外交目標とします。

この「国権回収運動」においては、「中国が一体何を奪われたのか」がポイントとなります。何をどのように取り戻せばバランスシートがゼロになるのか、それがわからないのです。奪われ始めた頃、たとえばアヘン戦争のあった19世紀半ばには、明確な主権国家概念がなく、国境概念も明確ではないからです。当時までさかのぼるには無理があるにもかかわらず、中国はその頃から相当なものを外国に奪われていったという話をつくっていくわけです。その物語づくりは、清王朝末期から始まっていました。

1924年、孫文はこのように語っています。「500年前から2000年以上前の時期、その間の1000年以上、中国は世界で最も強い国家であった。(略)中国のかつての強さはぬきんでており、いわば一強であった。(略)当時の弱小民族と国家は、みな中国を上邦として崇めていた。そして中国に朝貢し、自らを藩属と位置づけるように求めた」――つまり孫文は、武力を用いて植民地とする帝国主義よりも、朝貢のほうがいいと言っています。さらにこのとき、孫文は日本に対し「覇道(帝国主義)ではなく王道の国になれ」と語り、その王道の例として朝貢を挙げているのです。

革命外交の時代

中国は1949~1959年の10年間、当時のソ連と緊密な関係にありました。1920年前後に米国と近い時期がありましたが、これほどではなかったと思います。それでも、国権回収と主権重視は継続していたと考えられます。中ソの対立は、最近では1959年が起源といわれていますが、当時中国がソ連に対して原爆を開発するためのサンプル提供を求めたところ、その見返りとして、中国沿岸部における無線電信の自由な利用権および中ソ連合潜水艦部隊の結成を要求されました。事実上、ソ連が中国の主権を侵害するということになります。これに対し、毛沢東が"No"を突き付け、中ソ対立が始まっていくわけです。

現在の中国外交をみる上で重要なことは、主権を重視することと同時にある鄧小平以来の路線です。鄧小平は1978~79年辺りに登場してくるわけですが、改革開放といった政策はその前の華国鋒がつくったものです。鄧小平は社会主義市場経済をうたい、西側の国々とも付き合うようになります。そして日中平和友好条約締結後、日本は1979年に対中ODA開始を決定しました。円借款は中国にとって、ドルにもポンドにも換えられる素晴らしい外貨の塊です。こうして中国は、日本に依存した経済発展を遂げていきます。

1980年代、すでに鄧小平は対日政策について「歴史を強調せよ」という指示を出しています。80年代に入ると、中国は経済について日本に学んでいくことになるが、それ一辺倒では若者が歴史を忘れてしまう。だからこそ中国は歴史を強調するのだと言い始めます。江沢民ではなく、鄧小平が「歴史と経済の両輪」をつくったのです。ご存知のように、現在の日本には経済カードがありません。歴史一辺倒の状態といえます。

「韜光養晦・有所作為」

その鄧小平に起きた試練が、1989年6月4日に起きた天安門事件です。一般的に、この事件は中国政府を孤立に追い込んだといわれています。その際、鄧小平は「韜光養晦(とうこうようかい)・有所作為(ゆうしょさくい)」という言葉をいったと伝えられています。この方針は、言葉の上では、以後の中国外交を規定するものになっていきます。

ただ、この天安門事件後の状況について、西側の対中包囲だけで捉えることはできません。実は西側の包囲網の下で、中国は後の周辺外交の基礎となるような外交を展開していたのです。天安門事件後の数年間で、中国は東アジアの台湾承認国を相次いで北京承認に切り替えることに成功しました。韓国、シンガポール、ブルネイなどです。またソ連崩壊に伴って成立した中央アジアの国々と、早々に国交を結んでいます。周辺外交の最低限の基礎は、まずは国交樹立です。今から振り返ると90年代前半には、台湾承認国を北京承認に切り替え、メコンをめぐる開発を共同で行い、そして上海協力機構をつくるといった周辺国との足固めを着々と進めたことになります。

その頃のスローガンが「韜光養晦・有所作為」です。日本語では、「能ある鷹は爪を隠す」と訳す人もいますが、自分の能力はあまり見せず、取れるべきものを最低限取っていくという趣旨です。経済を重視し、主権や安全保障の面ではあまり自己主張をせず、粛々と発展に向かうという中国の外交政策に見合ったスローガンであると評価されます。

「外交は発展に従属する」という言葉があります。あくまでも対外政策は経済発展のためにある、という意味です。1990年代に中国は、ロシアあるいは中央アジアとの領土問題の解決を相次いで成し遂げました。ときには、ある部分の領土を相手国に明け渡してまでも調整をしています。

「和諧社会」と2006年の調整

江沢民政権は鄧小平路線を継承して、経済優位の対外関係を築いてきました。胡錦濤政権は、その江沢民政権の発展重視によって生じた諸問題、すなわち格差問題や環境問題などに取り組んでいく姿勢を示しました。これは対外政策の面では、胡錦濤が意図するしないに関わらず、経済発展のために対外協調をしなければならない、という路線に修正が加えられていく可能性があることを示していました。そして、胡錦濤政権は内政に於いて、格差問題などに逆に苦しめられ、次第に社会主義的な路線を重視する保守派の台頭を招きます。この背景には、当初の予想よりも早く経済発展目標が実現したということがありました。

胡錦濤は2005年、外交政策の新たなスローガンである「和諧世界」を国連などで盛んに提起しました。中国は世界の秩序において脅威になることなく、ともに発展していくのだという平和的なイメージを打ち出したわけです。これは中国の国際社会における消極性を意味するものではありません。グローバル・ガバナンス領域において力を強めるといった平和的な発展を目指すスローガンが掲げられ、実際にWHO等さまざまな国際組織においても、多くの中国人リーダーが生まれました。この路線は、対外協調と、中国の国際的地位の向上という2つの路線を組み合わせたものでした。

しかし、中国の経済発展が想定よりも早く実現する中で、インターネット等でさまざまな外交をめぐる議論が巻き起こります。これ以上発展を重視し、我慢して穏健に振る舞う必要があるのかという疑問が各方面から出てくる状況がありました。発展重視の外交への疑義が呈されたわけです。2006年には、中国政府の外交をめぐる語り口に変化が現れます。同年8月、胡錦濤は共産党中央外事工作会議において「国家主権、安全を重視する」など、いわば外交において当然のことを述べているのです。これは、「発展だけではいかん」というグループに対する配慮と思われます。

2008年は日中首脳会談がもっとも多く行われ、昨今の日中関係における黄金の1年となりました。共同声明では、「戦略的互恵関係の実質化」がうたわれています。

中国外交の積極化?

2008年12月8日、中国が戦後初めて公船を尖閣の領海内に侵入させたことが、なぜ日本ではあまり強調されないのか、疑問に思っています。同年半ばには、東シナ海の共同開発をめぐるさまざまな取り決めがあったはずです。それがほぼ全部、事実上の白紙撤回になってしまったわけです。その間に何があったのかは明確でありませんが、現象をみていくと、この辺りで外交路線に変化があったものと思われます。つまり、2006年に中国で外交の語り口に変化が生まれ、2008年の半ばか後半までに、さまざまな路線の調整があり、2008年末には「主権」や「安全」を前面に出すような外交路線へと転換したのではないか、ということです。

そして2009年7月に北京で開催された第11回駐外使節会議では、「積極参与応対国際金融危機衝撃(国際的な金融危機の衝撃に対する処理に積極的に参加していく)」、「積極開展多辺外交(多元的外交を積極的に展開する)」など「積極」を多用する演説を、胡錦涛は行いました。

2010年末に王逸舟が盛んに言っていたのは、「経済力にふさわしい外交を」中国は行うということです。また「新たな地域主義」、つまり地域のことは地域で決めるべきであり、米国が入ってくる必要はないということを明確に述べる記事が書かれるようになります。かなり緊張した状況は、東シナ海、南シナ海をめぐる外交の変化と一致していました。

この当時も中国は、金融、エネルギー、気候変化などのグローバル・ガバナンスの各領域で何もしないとは言っていません。国際的な枠組みに対しては、つねに協調的な姿勢をみせています。中国は、現在の国際秩序に対する挑戦者か貢献者かという二分法ではなく、自らにとって有利なものには加わり、不利なものがあれば是正する側に回ります。問題は、主権や安全保障を強調する面と、安定的な秩序をつくっていくという面をどのように折り合わせていくのかということですが、地域においても、世界においても、なかなか答えは見出せていないようです。

習近平政権への宿題

習近平政権は、基本的に胡錦濤政権における多くの宿題を背負っています。ただし胡政権とは決定的な違いがあります。まだ副主席であった胡が国家指導者就任前に公式訪米した際、米国メディアは彼のことを"Who is Hu?"と揶揄しました。胡錦濤など、誰も知らなかったわけです。しかし習近平が訪米した際は、次期のトップとして厚遇され、ただちに米中首脳会談が行われます。このようなことは、胡錦濤時代にはなかったことです。明らかに中国の国力が増しており、ただ米中が会談を行うというだけで周辺国がざわめきます。G2論をかつて温家宝総理は否定しましたが、習近平政権は事実上のパワーを認めつつあります。

習政権は、中国を「発展途上国の大国」と位置付けています。そしてグローバル・ガバナンスにおいても相応の責任を負うが、経済力の増大に伴って、中国が国際社会で発揮すべき作用も大きくなる、つまり大国としての振る舞いは、経済力に応じるという方針はここでも受け継がれています。これは世界第2の経済大国として、役割を果たしていくといっているわけです。こうした言葉は、胡錦濤政権後期に現れてきています。

本年8月2日の中国とASEAN諸国との対話における発言にあるように、中国は自らが大国であること、また勢力を増していることを明確に容認しています。ただし最近は、中国国内において利益主体が多元化し、外交政策を一本化できないなどの大きな問題も抱え、難しい局面にあります。

国権回収の面では世界第2の経済大国として目標を達成しつつあるものの、中国は奪われたものを奪い返すといった物語からは卒業できていない状態にあります。しかしその一方で、国際社会における役割を果たすという新たなイメージも築きつつあります。この両者の調整が難しい中で、日本は「奪い返す」という方向に絡め取られています。それをどのように解決し、後者にうまく持っていけるかが歴史的な課題といえます。

質疑応答

Q:

今年に入って中国のプレゼンスが目立っていると感じますが、習近平主席が就任してからの米中関係について、コメントをいただきたいと思います。

A:

今年のカリフォルニアでの米中首脳会談には、象徴的な意味合いがあったと思います。おもにアジア太平洋地域の諸問題について米中それぞれの立場を確認し合い、いつでも話し合える状態にしておくことは、習近平にとって国内あるいは周辺国に対するアピールにもなりました。私たちが思っている以上に、米中間の交流の厚みは増しているといえます。中国は、今年5月にはイスラエルの首脳と接触するなど、米国にとってツボとなる地域との関係を深めている側面もみられます。米国は中国に一目を置き、中国側もそれにこたえつつ、米国がさらにコミットするような施策を講じている、といったところだと思います。

Q:

日本からは見えにくいロシア、中央アジア、インドといった地域と中国の関係は、どのように考えられるでしょうか。

A:

中国の外交は、東、北、南、西南、西の各方面に向いており、日本から見える姿が必ずしも中国の全体像ではありません。現在、中央アジアからインド洋へ抜けるラインが中国の海への新たな出口として作られつつありますが、同時にインドとの領土問題は依然としてあり、中央アジア諸国がそれほど中国に忠誠を誓うのかというリスクもあります。アフガニスタンを含めた西側にくさびを打つことは、中国の安全保障に大きな意味を持っています。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。