リスク、不確実性、そして想定外

開催日 2012年7月11日
スピーカー 植村 修一 (RIETI上席研究員)
モデレータ 中沢 則夫 (RIETI研究調整ディレクター)
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開催案内/講演概要

西ドイツ(当時)の社会学者ウルリッヒ・ベックが『リスク社会』の到来を唱え、世界的に話題になったのが1986年である。それから4半世紀が経ち、わが国の経済社会情勢を含め、リスクの高まりや不確実性の存在を指摘する声はさらに高まっている。

このBBLセミナーでは、これら用語の概念整理から始まり、リスクの源やリスク管理が失敗する理由、リスクと企業経営や政策との関係など、リスクに関連した一連の項目や事象について論じる。スピーカーは、日本銀行において長らく金融リスク管理に関する業務に携わってきたことから、取り扱う分野としては金融問題を中心とするが、金融以外の分野からも幅広く材料を提供する。

議事録

「リスク」について

植村 修一写真著書『リスク、不確実性、そして想定外』は、この3つのワードが本来どのような意味をもっているのか、こうした事象がなぜ起きるのかを、できるだけわかりやすく伝えたいとの思いで書きました。おもに、ファイナンスならびに経済学的なアプローチをメインとしています。

私たちのまわりでは、事件や事故を含め、日常いたるところで同じような失敗が繰り返されています。なぜリスク管理は失敗するのでしょうか。「リスク」はどちらかというと嫌われる存在であり、リスク管理は一部の特別な組織や人々の仕事という認識があるように感じます。

いまの社会では東日本大震災の影響もあり、たとえば首都直下地震のように、滅多に起きないけれども、起きた場合の影響が極めて大きい事象には問題意識をもつようになっていますが、日常的に繰り返される失敗やリスクへの認識は、あまり変わっていないようです。もっと日常のリスクにも、社会全体あるいは1人1人の仕事として目を向ける必要があると思います。

1986年にドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックは、「近代産業社会がさまざまなリスクを生み出し、我々の生命と社会関係をむしばむ時代を迎えた」(邦訳『危険社会』1998)と指摘しました。日本では、1990年代に入ってバブルが崩壊し、大企業・大銀行の破綻や合併、就職氷河期といった時代を迎えました。2000年代にかけては、牛肉偽装事件や脱線事故、耐震構造偽造事件、銀行の大規模システム障害、SARSや鳥インフルエンザ、臨界事故や原発データ改ざん事件など、安心安全を脅かす事件・事故が相次ぎました。

2000年代後半になると、サブプライム問題に続いて金融界が大激震に見舞われました。2008年のリーマンショックです。そして2011年の東日本大震災によって、私たちは「想定外」の地震や津波、原発安全神話の崩壊など、テール・リスクといえる事象を経験しました。

3・11以降にも、タイの大洪水や欧州信用不安、超円高、オリンパス社による巨額損失隠し発覚、AIJ投資顧問による企業年金消失問題が起こり、最近の社会面では、自動車暴走事故や竜巻、関越道高速バス事故といったニュースが、次から次に伝えられています。

こうしたリスクの源として、たとえばジェイコム株誤発注にみられる「うっかり」、「慣れ」が招いたコスタ・コンコルディア号難破、「他人任せ」に起因するシステム障害やAIJ投資顧問問題をはじめ、「記憶の風化」や「ロスカット(損切り)に対する心理的抵抗」、「問題の先送り」などを指摘することができますが、これらはごく一部にすぎません。

リスクについて、ピーター・バーンスタインは「現在と過去との一線を画する画期的なアイデアはリスクの考え方」であり、「リスク概念の数学的核心をなす確率論の発展」が社会を変える大きな原動力になった。そして「リスクマネジメント上の変革によって、人類は経済成長や生活の質的向上、あるいは技術革新を追求するよう動機づけられていった」と述べています(『リスク―神々への反逆』原著1996)。

不確実性の概念として、フランク・ナイトは、経験やデータをもとに「測定可能な不確実性」をリスクと呼び、「測定不可能な不確実性」が真の不確実性であると定義しました。そして、不確実性下で意思決定する企業家への対価が利潤であると説きました(『リスク、不確実性および利潤』1921)。

想定外について、畑村洋太郎先生は『「想定外」を想定せよ』の中で、「人間は、何かものを考えようとする時に、これについて考えるという領域を決める。この領域を区切る境界を作ることが想定だ。(中略)したがって、その範囲を超えた領域である『想定外』は起こりえないのではなく、確率は低いかもしれないが、起こる可能性はある」と位置づけています。

企業経営を巡るリスク

最近の企業経営におけるリスクは通常の売上や利益の増減に留まらず、グローバリゼーションや技術革新に伴うシステム障害や情報セキュリティといったITリスク、さらに安全性や環境への配慮、コンプライアンスの要請が高まっています。金融市場からの影響や自然災害の危機管理、業務継続計画の必要性など、企業のリスク管理が多様化、複雑化、巨大化する中で、2006年施行の会社法では事実上、取締役会のリスクマネジメント義務が法制化されています。

オリンパス事件は、監査役や社外取締役、監査法人といったコーポレートガバナンスの重要な要素の信頼性に疑念を抱かせる衝撃的な出来事でした。コンプライアンスの本質は単なる法令遵守ではなく、業界や社内のルール、ときには倫理やモラルも含まれます。つまり組織の「品格」を高める行為であり、“noblesse oblige"といわれるように、大企業や公益的な事業等には、明示的あるいは暗黙裡に高いレベルが求められます。

AIJ投資顧問問題は、厚生年金基金の制度疲労や基金・資産運用業をめぐるガバナンス(検査監督、相互牽制体制、資産運用規制)、委託先管理の重要性(「他人任せ」のリスク)といった課題を示したといえます。ほとんどの基金は手元に損失を抱え、通常の運用では穴埋めできない状況にあるため、行動経済学のプロスペクト理論でいわれるように、一発逆転あるいは起死回生といった危険な意思決定をするようになります。そもそも、卵を1つのかごに入れてはいけないという極めて基礎的なリスク感覚や金融知識が欠如しているといわざるをえません。

「なぜ」それほど高い利回りが可能なのか――その「なぜ」という問いが重要です。2010年3月8日付日経新聞には、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の副社長を務めた大野耐一氏の著書『トヨタ生産方式』に出てくる「なぜ」を5回繰り返すエピソードとして、「なぜ機械は止まったのか。負荷がかかりすぎたのなら、それはなぜか。軸受けの動きがなめらかでなかったというなら、なぜなのか。5回、なぜと問うことで原因を掘り下げ、ある部品がすり減るのを防ぐ『カイゼン』で問題を解決する例が出ている。『原因』の向こう側に『真因』が隠れている、と大野氏はいっている」(水野裕司編集委員)と紹介しています。

金融危機と金融リスク管理

バブルの崩壊や金融危機は過去何度も起こり、そのたびにいろいろな書籍が出ています。チャールズ・キンドルバーガーが『熱狂、恐慌、崩壊―金融恐慌の歴史』(原著1980)で、「金融危機は何度も甦る多年草」といったことは有名です。またジョン・ケネス・ガルブレイスは、『バブルの物語』(1990)で、「市場での神話と金融レバレッジの形成が揃えばバブル」と指摘しています。

ケネス・ロゴフ&カーメン・ラインハートは『国家は破綻する―金融危機の800年』(2009)で、「金融危機のたびに『今回は違う』(This Time is Different)という言葉が繰り返される」としながらも、今回の危機(2007年のサブプライム危機に端を発するグローバル金融危機)のマグニチュードは大きく、1930年代以来の「第二次大収縮」であると述べています。

金融機関ではリスク管理の失敗が繰り返され、リスク管理の手法だけでなくモラルも問われています。JPモルガン・チェースは米国の大手金融機関の中で勝ち組といわれていますが、最近デリバティブ取引で失敗しています。まだ詳細は明らかになっておらず、金融コラムニストのGillian Tettは、フィナンシャルタイムズ紙に「大きすぎてつぶせない(too big to fail)、銀行における複雑すぎて把握できない(too complex to depict)問題」と書いています。これは非常に悩ましい問題で、経営陣を含めて本当に複雑な取引を理解できている人が組織の中に何人いるのか懸念されるような状況は、欧米の投資銀行ではとくに深刻です。

日本でも、野村證券における公募増資情報の流出が明らかになり、2012年6月29日の調査委員会報告書では、「これまでに野村證券の営業姿勢、執務態勢、コンプライアンス等における問題として示してきたことは、証券会社としての信頼性に疑義を生じさせるような重大な制度上の欠陥であり、こうした制度的欠陥を放置すれば、資本市場の公正さ・信頼性の維持に重大な影響を及ぼすことは明らか」と言及されています。

現在、金融危機を踏まえて制度の改正等がさまざまに行われているわけですが、今後、二度と金融危機を起こさないことは可能なのでしょうか。よく考えてみれば、今の金融危機すら終わっていません。債務調整問題は長期化し、リーマンショック後の世界経済を救ったといわれる中国やインドの新興国経済も不安を抱えています。そして、おそらく最後に残るのは中央銀行のバランスシート調整問題でしょう。

金融市場のグローバル化や拡大・複雑化に歯止めをかけることはできません。そうした中でグローバル・ガバナンスは不十分な状況にあり、 ポストVaR(バリュー・アト・リスク)もみえず、金融リスク管理のイノベーションは頓挫しています。さらに懲りない、傲慢であるといった人間の性(さが)や歴史の必然性として、危機の後に来るものは次なる危機であるように考えられます。不確実性の時代が長く続くことが予想されます。

政策とリスク管理

民間でさまざまなレベルのリスク管理が求められている中、公的部門はまだ追いついていない状況にあるため、民間とのダブルスタンダードにならないよう注意が必要です。またリスク・コミュニケーションの強化はかねてから指摘されていることですが、 やはり「想定外」への備えは不十分であると感じています。「予測」や「見通し」は単なる想定ととらえ、想定外の事象が起こることは普通だと考えるべきです。それを前提に、リスク・シナリオやストレステスト、コンティンジェンシー・プランを備え、さらに「不作為」がもたらすリスクへの気づきを強めていく必要があります。

リスク・ガバナンスの強化のためには、リスク管理部署を設置し、「横断的」かつ「客観的」な組織内リスク評価をおこなっていくことが重要です。リスクを洗い出し、PDCAサイクルといった手法を活用してリスク管理に取り組んでいただきたいと思います。

リスクの非対称性として、リスク管理の担当者は、警告をどの程度発すべきかという悩みを抱えています。2009年の中国・九州北部豪雨の対応を振り返り、山口県防府市のある担当者は「これまでに土砂災害警戒情報が出ても、土砂崩れは起きなかった。安易な勧告はかえって危険を招くこともあると考え、現場を見るまで出せないとの認識でいたが、甘かった(7月24日付讀賣新聞)」と反省の弁を述べています 。 2012年5月に茨城・栃木両県で竜巻が発生した際も、「自治体の担当者は『認識が甘かった面はあるが、頻繁に情報を流すと警戒感が薄れるかもしれない』と対応に頭を悩ませている(5月8日日本経済新聞夕刊)」とあるように、いわばオオカミ少年のつらさが存在するものです。しかし、結果的に警告が外れたとしても、それは幸運であったととらえるべきでしょう。リスク管理において、オオカミ少年は大事にすべき貴重な存在だと思います。

やはり社会全体として、リスクやリスク管理に関する知見の共有ができていないと感じます。公的部門と民間部門間の知見の共有に努力している機関もたくさんありますが、さらに進めていくべきです。また、学問や実務の世界における分野を超えた横断的な研究や交流、リスク教育の充実を進めていく必要があると思います。日本人はリスクに対する認識が甘い部分がありますが、子どもの頃から、ある程度リスクに向き合う教育が必要でしょう。

リスク管理はなぜ失敗するのでしょうか。一言でいえば、インセンティブ(誘因)がないためです。たとえばオオカミ少年の話のように、現実にならなければ認識されず、リスクのままで終わってしまうと評価されないという現状があります。金融機関でみられるように、リスクを管理するとリターンが得られないという誤解に基づく経済的なモチベーションのなさも一因でしょう。こうしたインセンティブの問題に加えて、「予測可能な領域」と「予測不可能な領域」の境界が絶えず変化するという事実に対する認識も不足しています。

「守るべきものは何か」という発想からリスクを認識すれば、リスク管理とは、すなわち「大事なものを守ること」であり、それが真のインセンティブといえます。そのためには、将来のことに対し謙虚であること、気づきを大切にすること、木にとらわれず森をみることが必要だと思います。将来を予測することはできなくとも、変えることはできます。

質疑応答

Q:

日本人はリスクに対する感覚が鈍いということですが、具体的にどのような点が問題であって、どうすればなおせるとお考えでしょうか。

A:

「日本人は水と安全をタダだと思っている」とは、かねてからいわれていることですが、おそらくそれは島国で、多民族による直接的な侵略が滅多になく、温暖な気候で比較的食料に恵まれた環境で長く暮らす中で育まれた民族性のようなものがあるように思います。しかし、だからといってリスク管理の問題を、その民族性のせいにすべきではありません。「日本人だから」ということを言い訳にするのはやめて、さまざまなことを学び、ものごとを変えていくべきです。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。