インテリジェンス戦争の十年 -9.11テロから3.11事件へ-

講演内容引用禁止

開催日 2011年11月30日
スピーカー 手嶋 龍一 (外交ジャーナリスト・作家)
モデレータ 中富 道隆 (RIETI上席研究員)
開催案内/講演概要

アメリカは、2001年9月11日に超大国の本土に襲いかかった同時多発テロを機に、アフガン戦争からイラク戦争へと突き進んでいきました。中東と東アジアというふたつの戦略正面のうち中東に戦略の重心を決定的に傾け、世界経済の推進エンジンたる東アジアに巨大な力の空白を生じさせてしまったのでした。オバマ・クリントン・チームは、「ブッシュの戦争」を精算してその空白を埋めようとアジア回帰を策しています。

しかし、この十年、新興の大国中国の登場で、この地域の戦略風景は様変わりしてしてしまい、経済大国ニッポンは3・11事件に見舞われて、リーダーの地位を失おうとしています。

「東アジアのいまと明日」を現実の動きを紹介しながら考えてみたいと思います。

議事録

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TPP環太平洋パートナーシップ協定と参加の意義

手嶋 龍一写真日本はいま、TPPへの参加を通じて、世界経済の推進エンジンとなった東アジア・環太平洋地域の将来像を自らどう描くかが問われています。この新たな枠組みはまず2006年に、シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイが経済連携協定を結んで始まった。その後、米国、オーストラリアなどが参加を表明し、現在は9カ国間で交渉が行われている。TPPが目指しているのは、原則として関税を撤廃した自由貿易圏づくりであり、交渉前から対象品目に例外を認めることはない。野田総理はTPP交渉への参加表明を行いましたが、そのおずおずとした参加表明は、外交交渉としては到底高い評価は与えられず、日本の発言力を殺いでしまっていると言わざるをえません。

TPPとASEAN+6に関る中国の動向

TPPの陰の主役は、実は中国であるといえます。中国は当初からTPP参加には手を挙げていませんでしたが、中国商務省の高官は最近、「我々(中国)は、これまでTPP参加国から招待状を受け取っていない」と発言しました。これに対し、カーク米通商代表部(USTR)代表は、「TPPはすべてのAPEC諸国に開かれており、招待状を待つ必要はない」と応じて、米中間では打々発止の駆け引きが行われています。

一方、中国は、ASEAN+3(日中韓)の枠組みに加えて、インド、オーストラリア、ニュージーランドを加えたASEAN+6を新たな自由貿易の拠り所と考え、ASEAN首脳会議でもそうした意向を提唱しています。しかし、動き出したばかりのASEAN+6に対し、TPPは基本協定の枠組みを整えつつあり、かなり先に進んでいます。

アジア太平洋地域の経済連携の枠組みと日本にとってのTPP

TPPの事実上の仕切り役は米国ですが、TPPには中国が含まれていません。一方、ASEAN+6は新興経済大国の中国が取り仕切ることになりそうですが、米国はここには入っていません。つまり、世界トップ3の経済大国の中で双方に足が掛かっているのは日本だけなのです。野田総理はこのことを報道陣から問われ、TPPとASEAN+6の「両にらみ」というニュアンスで応えました。しかし、国際社会は日本がキャスティングボードを握っているとは受け取っていません。また、TPPをめぐる日本政府の見解として、0.54%のGDP押し上げ効果と、10年間で2.7兆円の経済効果が期待できる旨が発表されています。TPP参加の経済効果をアピールする狙いであったのだろうと想像できますが、国論を二分するほどの議論の中では、経済効果がこの程度ならむしろTPPの推進には逆効果になることも考えられます。

このような中、アジア太平洋地域の経済連携枠組みにおいては、「米国のTTP」対「中国のASEAN+6」という対立構図ができあがりつつあります。本来ならば、この2つの格好のかすがいとなるのが日本ですが、政治指導力不在のため、千載一遇の機会を逃しつつあります。

これからの日本は、東アジアという限られた枠組みのなかで生きていくのか、アジア・太平洋という広い枠組みのなかに新たな進路を見出すのか、重大な選択を迫られています。前者はASEAN+6を指しており、21世紀半ばまでに中国人民元経済圏へ傾斜していくことを示唆しています。一方、後者のTPPを選択するとすれば、それは東アジアに加えて米国・オーストラリアを含む経済圏との連携を意味します。

TPPと安全保障の関連性

オバマ大統領は、11月17日のオーストラリア連邦議会での演説で「アジア太平洋地域は米国の安全保障上の最重要地域である」と明言しました。これまで米国の安全保障上の優先権は一貫してヨーロッパに置かれていましたが、最重要地域はアジア・太平洋地域であると初めて言い切った意義は小さくありません。米国の戦略の方向転換を公式に明らかにしたという点で、このオバマ演説は非常に重要です。

これに合わせて、外交誌である"Foreign Policy"の秋号に、ヒラリー・クリントンの論文、「米国にとっての太平洋の世紀」(America's Pacific Century)が掲載されました。この中で彼女は、「今後の国際政治はアジアが担う。過去10年、米国はアフガニスタンとイラクにすべての力を注いできた。米国のリーダーシップを維持し、国益を守るため、次の10年はアジア・太平洋地域に外交・経済・戦略上の重点を置く」と述べています。9.11以降、米国の安全保障は、中東と東アジアの2つの戦略正面のうち中東に大きく傾斜していきました。「ブッシュの戦争」によって生じた東アジアでの戦略的空白を今後10年で埋めると表明しています。これはまた、TPPを単なる通商の枠組みではなく、安全保障の枠組みとしても捉えている点が重要です。

アジア、環太平洋地域の安全保障を取り巻く状況

アラビア海、インド洋、南シナ海、東シナ海近郊には、中国が投資あるいは建設に参加している海軍基地および重要拠点が点在しており、これらをつなげたラインを、欧米の専門家たちは「真珠の首飾り」と呼んでいます。これは、東アジアへの物資の動きと大きな流れを表しています。一方、アメリカ政府は、オーストラリアの北部のダーウィンの米軍の基地に、将来最大2500人規模の海兵隊を駐屯させると表明しました。

米国はアジア太平洋に戦略の軸を移すことは明らかにしましたが、その中核を東アジアにおける米国の第一の同盟国である日本が必ずしも担っているわけではありません。私は以前から日米同盟に構造的な変化が起きていると指摘してきましたが、残念ながらそれが現実となりつつあり、日米同盟の基盤が大きく揺らいでいるといわざるを得ません。

アメリカの提唱するTPP構想は、このように安全保障と表裏一体となっているのです。21世紀の半ばを見据えて、世界は保護主義から自由貿易へと向かっており、国際競争力に乏しい農業分野では構造改革を迫られています。国益のため、守るべきところと改革すべきところの見極めが重要となります。このTPPの議論をきっかけに、日本という国をどのようにデザインしていくのか、地域社会をどう設計していくのか、人々の暮らしの質をどのように高めていくのか、国家の全体像に関する議論が行われるべきなのですが、日本の政治指導部による国家デザイン力の衰えが明らかであるように感じられます。

日本外交の劣化と日米同盟への亀裂

国境とは動かないものであると思われがちですが、その時々の国力やリーダーシップによって縮むことがありえると心得るべきです。昨年はメドベージェフ大統領の国後島訪問に関連し、当時の在ロシア大使が更迭されるという事態が発生しました。その年の11月には、日露首脳会談出席のため大統領が訪日しましたが、北方領土交渉の見通しは未だに立っていません。同時に、中国は尖閣諸島をめぐり対日攻勢を強めており、北朝鮮は新たなウラン濃縮計画を明らかにするなど、各国が外交的攻勢に出ています。これらの外交上の一連の動きは、水面下で連動しているとみることができるでしょう。

日米同盟に大きな亀裂が入っていることの証左と捉えるべきなのです。日米同盟は非対称同盟だと説明されます。米国には対日防衛義務があるのに対して、日本には対米防衛の義務はありません。そのかわりに、日本は在日米軍基地の提供を通じてバランスをとってきました。ところが在日米軍基地の中核を担う普天間基地の移設問題が一向に進まないことが、同盟の信頼性を揺るがせる結果となっているのです。

米国と日本におけるインテリジェンス

太平洋地域への回帰を表明した米国は、中央アジアと中東を安定させるために、アボタバードの隠れ家に潜伏していたオサマ・ビン・ラディンを殺害し、テロ戦争に区切りをつけました。オバマ大統領は2011年3月14日から作戦検討会議を始め、4月29日に作戦実行を承認しました。作戦終了後、大統領は「作戦行動を起こすに充分なインテリジェンス(情報)があると決断し、オサマ・ビン・ラディンを捕え、正義をもたらすための作戦を命じた」という声明を出しました。

このインテリジェンスとは、単なる機密情報に留まらず、決定的な決断をするにあたっての拠り所となるものを意味しています。それは、膨大な一般情報の海から貴重な情報の原石を選り抜いてその真贋を確かめ、周到な分析を加え、情報が意味する全体像を描き出す作業であり、組織の舵取りを委ねられたリーダーが決断に踏み切るに当たり役立つよう精選された情報をインテリジェンスといいます。

日本では極秘情報(インテリジェンス)も一般情報(インフォメーション)も同様に「情報」と翻訳します。この似て非なる2つの概念に対して、日本では未だに同じ訳語を当てています。これこそ、日本のリーダーシップがいかにインテリジェンス感覚を磨いていないかを示すものといえます。情報収集、情報分析、情報報告、決断と連なり、情報の心臓となるのがインテリジェンス・サイクルです。3.11のその日、初動の24時間が勝負だったにもかかわらず、菅直人前総理は、原子炉のメルトダウンを防ぐための決断を下そうとしませんでした。これは、日本の政治指導部の中枢にインテリジェンス・サイクルが働いていなかったことを物語るものです。

3.11から見える日本の政治指導力

ワシントンポスト紙は福島の原発事故について、「FUKUSHIMAにブラック・スワンが舞い降りた」と書きました。「ブラック・スワン」とは、白いはずの白鳥が漆黒の姿で現れ、起きるはずがないと考えてきた事態が現実になるという隠喩です。それゆえ従来の経験知では予見できず、それだけに大きなインパクトを人々に与えることになりました。官邸・保安院・東電は当時、口を揃えたように「想定外」を繰り返しましたが、それ自体に重大な問題を孕んでいます。

「想像すら出来ない事態を想定して備えておけ(Think the unthinkable)」といい続けたのは、過去の米ソ冷戦の時代に核戦略を練り上げ、真に独創的な核抑止理論を打ち立てた、アルバート・ウオルステッター博士でした。想像を絶する事態に立ち向かった被災地の人々には世界中から尊敬の念が寄せられています。その一方で、政治指導部こそメルトダウンを引き起こしたと海外のメディアは書きました。日本には真に決断できる政治家が余りに少ないのです。半世紀に及ぶ日米同盟の中で日本は経済発展を遂げましたが、その間に、大事な決断を海の向こうのワシントンに委ねてしまっていたのです。そしていつの間にか、国政を左右するような外交や安全保障問題、また今度のTPPに際しても、「決断するは我にあり」といえる指導者が日本から消えてしまったと指摘せざるをえません。

質疑応答

Q:

民主党のオバマ政権が取っているアジア太平洋地域に関する戦略は、今後共和党が政権を取った場合には変わってくるのでしょうか。

A:

結論からいいますと、仮に次の選挙でオバマ大統領が負けて政権が共和党に移ったとしても、戦略上の大きな基軸は戻らないと思われます。最大の理由は、世界の経済や推進力が東アジアに移ってきているという認識は超党派のものだからです。さらに、現在の欧州には米国をつなぎ止める力が無いということも、理由として挙げられます。ただ、世界第三の経済大国であり日米同盟も結んでいる日本は、本来、アジア・太平洋地域における米国の最重要なパートナーであるべきなのですが、実際は楽観できない状況にあるということを申し上げておきたいと思います。

Q:

米国の戦略軸がアジアに帰ってきたということですが、もし将来イランの勢力が大きくなり、中国がイランやパキスタンを刺激するなどという状況になった場合の米国の状況と動きをどのようにご判断されますか。

A:

オバマ大統領、ヒラリー・クリントン国務長官共に、アジア太平洋地域に戦略の軸を移すということで基本的には一致しています。ただ、最も不確定要素として挙げられるのがイラン情勢であり、それが安定しないことには基軸を移せません。イランと直接交渉をする、もしくは周囲のアラブ穏健派と協力してイランを封じ込める、という2つの選択肢があったのですが、これまでの米国は戦略が定まらず揺れ動いていました。現在は、アラブ穏健派の中核であるエジプトに関して米国外交の基軸が崩れており、イランを充分にコントロールしかねているという難しい情勢にあります。また、ロシアを中心とするプーチンのユーラシア同盟、TPP、ASEANの一部、そしてインドという形で、中国を取り巻き牽制する動きがありますが、これは逆にいうと、それだけ中国が存在感を強めているということを意味しています。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。