【通産政策史シリーズ】地域小売商業政策の展開

開催日 2011年6月13日
スピーカー 石原 武政 (流通科学大学商学部特別教授/大阪市立大学 名誉教授)
コメンテータ 藤野 琢巳 (経済産業省 中小企業庁 経営支援部 商業課長)
モデレータ 西垣 淳子 (RIETI上席研究員(兼)研究コーディネーター(政策史担当))
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開催案内/講演概要

日本の流通政策は、振興政策と調整政策からなると考えられてきた。そのうちの調整政策は、最も重要な役割を果たした大規模小売店舗法が2000年に廃止され、基本的には姿を消した。それに代わって近年、特に大きな注目を浴びているのが地域小売商業政策である。中心市街地活性化法や地域商店街活性化法はその代表である。

他方、振興政策の主流を担ってきたのは、流通近代化やシステム化、商慣行改善など、流通全体の近代化や効率化を求める政策であった。それでも、地域小売商業は流通政策(振興政策)の中で絶えず意識してこられた視点であった。

今回の報告では、戦後の流通政策の中から、この地域小売商業政策の視点を特に抜き出し、その展開を跡づけてみたい。その上で、いくつかの課題を抽出できればと考えている。

議事録

石原 武政写真「流通政策は、大きく、振興政策と調整政策の2本柱で成り立っている」と理解されるのが一般的ですが、私はこれに対し、果たして本当にそうなのかという疑問を抱いています。 私はむしろ、流通システムと地域商業という、もう1つの軸があったのではないかと考えています。生産と消費を効率的に結び付けるのが流通の役割であるとすれば、流通システムが全体として効率的に動く仕組みの話が生まれます。その話と並行して、流通政策の中で長い間、見え隠れしてきたのが、空間論(地域論、地域商業論)です。このような仕方で政策が二重写しになってきたのではないかというのが私の見方です。 本日は、地域的な視点が通産省・経産省の流通政策の中でどのように見え隠れしてきたのかを、順を追って振り返ってみたいと思います。

高度成長期(1973年頃まで)

戦後の流通商業は、焼け野原の中にヤミ市ができ、劣悪な密集市街地が立ち上がり、その中で多くの卸・小売業が営まれるところから始まります。政策全体としては生産に傾斜し、流通のプロセスにはほとんど手が出されませんでした。

流通政策が本格的にスタートしたのは産構審流通部会が設置された1964年4月ですが、それ以前にも、流通に影響を与えた政策はありました。その多くは建設省の制度(市街地改造事業)で、そうした制度の下、商店街整備や駅前整備は大きく進み、経営の近代化や合理化も進められてきました。民間でも、その頃から、さまざまな商業セミナーの開催や商業の近代化に向けた取り組みが始まり、そうした動きは、高度成長期に入り本格化しました。この時期に地域商業に向けられたと思われる政策に「商店街振興組合法」がありますが、これはいわば伊勢湾台風の後始末のようなもので、それだけを根拠に、独自に流通政策の地域版が動いていたと言うことはできないと思います。

初期の産構審流通部会答申では、当面の重要問題を集中審議した上ですぐに問題点を指摘するという形で、中間報告が矢継ぎ早に公表されています。それらの報告を受け、やや時間をかけて産業構造審議会の中間答申としてまとめられたのが「流通近代化の課題と展望」(1968年7月27日)です。これは歴史に残る報告書です。その過程で作成された第4回目の中間報告「卸統合センターについて」では、都市問題(都市の過密問題)を背景に、「都市再開発に資する」といった表現も出てくるようになりました。そうしたことから、流通の現場である空間・地域が意識されていたことが読み取れます。

1968年の都市計画法の制定の際には、都市計画の中で商業立地をコントロールしようとする建設省の動きが、現場を仕切る通産省の反対にあい、結局、立地誘導は成功しなかったようです。都市計画法で実現できなかった立地誘導が改めて目指されたのが1970年にスタートした「商業近代化地域計画」です。当初は卸売業も計画の対象に含まれていましたが、やがて中心は小売業へと移っていきます。ここでは「都市計画との整合性」が強調されますが、建設省と通産省の力の差は歴然としており、通産省側は何もできず、あったとしても、せいぜい「用途地域にしたがって」というほどの意味しかなかったようです。この用途制限は極めて大括りで、規制も緩やかであったため、市街化調整地域や白地地域の抑制はできず、計画になかった大型店の出店が進む結果となりました。

そうした中、物価問題、流通近代化問題、資本の自由化問題が切羽詰まった問題として浮かび上がり、それに百貨店と中小小売商の不満が合わさって、それらをまとめて解決する必要が生じました。これが大店法の制定が求められるようになった背景です。

大店法運用強化期(1973-1985年)

1974年の3月に施行となった大店法では、「消費者利益」への配慮が明示された点が高く評価されました。大店法は国(あるいは少なくとも通産省)の当初の意図をはるかに超えて運用されるようになりました。きっかけとなったのは自治体の独自規制で、先頭を切ったのが、大阪府豊中市による中型店の調整条例の制定です。これに続き、熊本県が府県で初の条例を罰則規定付きで制定し、大店法運用強化の動きが各地に急速に広がることになりました。そうした動きが1980年代の流通産業ビジョンに結び付きました。通産省はこの時期に政策として初めて、地域商業のようなものに深くコミットしたのではないかと思われます。実際、1983年12月の「80年代流通産業ビジョン」では、経済的効率性と社会的有効性の概念が示され、地域商業が賛歌されています。同ビジョンを読んでみると大型店の抑制を予感させる書き方になっていますが、それは時期的に考えても納得のいく話です。

「80年代流通産業ビジョン」から生み出されたのが「コミュニティ・マート構想」です。現在も続く「まちづくり社会」構想はこの「コミュニティ・マート構想」を出発点としています。この頃から、いろいろな仕組み作りが始まりました。

規制緩和期(1985-2000年)

1982年11月の中曽根内閣の発足により、日米摩擦の中で、国際協調と輸入拡大が強調され、1985年の対外経済問題諮問委員会では「原則自由、例外規制」が答申され、1988年には「前川レポート」が発表されることになりました。1989年6月の「90年代流通ビジョン」答申では、後の特定商業集積整備法につながるハイ・アメニティ構想が示され、その後、1989年9月に日米構造問題協議が開始となり、1989年6月の最終報告に大店法の3段階での規制緩和が盛り込まれることになりました。

この頃になって、地域商業、あるいは商店街の疲弊が鮮明になってきました。それを受け、通産省は1989年3月に全振連に「商店街振興基金」(50億円)を造成しましたが、それが具体的な政策ツールとして浮かび上がってきたものなのかは定かではありません。

1991年5月に公布となった特定商業集積整備法は、建設省・通産省・自治省の三省共管の法律ですが、「商業基盤施設と商業施設の双方を一体的に整備することで、新地に新しいまちをつくる」といった発想に基づく、開発志向の非常に強い政策でした。同法における商業基盤施設はレジュメ(「地域小売商政策の展開」)の「資料7」にある通りで、さらに、1993年から1997年の間には、高度商業集積型として、店舗面積が2~3万平方メートルのショッピングセンターが10店舗整備されることになりました(同「資料8」)。

1995年6月に策定された「21世紀に向けた流通ビジョン」は非常に重要で、そこで初めて、流通は、「生産から消費までをつなぐシステム」と「消費者との接点としての社会的存在」の2つの側面をもつものとして整理されました。同ビジョンでは、前者は「機能としての効率性」の問題であり、後者は「付加価値の創造、社会的存在としての規範性」にかかわる問題であり、2つは決して矛盾するものではない点が強調されました。

まちづくり三法時代(1998年~)

大店法廃止に向けた動きが確実になったのはその直後で、1997年頃からは中心市街地活性化法に向けた動きも活発になり始め、「まちづくり三法」へとつながります。

まちづくり三法では、改正された都市計画法で立地誘導をはかり、大店立地法で周辺の生活環境の維持を図り、中心市街地には別途、総合的な対策を講じるという形になりました。曲がりなりにも、土地利用を担当する建設省と流通政策を担当する通産省との間で議論が成立した瞬間だったともいえます。

このようにしてまちづくり三法は動き出そうとしましたが、建設省の法律の枠組みを変えても、実質的には動けませんでした。中活法については「中心市街地に投資する分、郊外の開発は抑制することを前提とする」という議論は、当時はできようがありませんでした。まちづくり三法は必ずしもうまく運用できないことが明らかとなり、2005年に約束されていた立地法のガイドラインの見直しと合わせて三法全体が見直されることになりました。

その間、中心部の衰退と郊外化の進展が進み、予想よりも1~2年早いタイミングで人口の減少が始まり、地方財政の悪化も顕著になってきました。それにより、これから先の郊外開発に伴うランニングコストを次世代が担えるのかという問題が生まれ、枠組みを変える必要に迫られた、というのが、2005~2006年頃のまちづくり三法の見直しの意味だと考えられます。

見直しの結果、中活法は改正され、特定商業集積整備法は廃止となり、新しく、まちに機能を集積する方向に進むようになり、2009年には地域商店街活性化新法が公布・施行となり、まちづくり支援センターが発足することになりました。

むすび

振り返ってみれば、縦の流通を見る目と、横の地域商業(現場、空間)を見る目があり、その横の視線の中に、振興政策的部分と調整政策的部分が入り込んできて、その片方のみがクローズアップされていた、というのが筋書きなのではないでしょうか。そうだとすると、これは空間の話になるので、通産省・経産省の法律の枠組みの中だけでは収まりません。

これまでに実施されてきた地域商業活性化政策は必ずしもすべてが効果を発揮しているわけではありません。むしろ、成功事例はそれほど多くはありません。なぜなのかを考える必要があります。地域商業活性化を担う組織のあり方は一様ではありません。それぞれの地域にあったメニューをどう準備するのかは難しい問題です。また、新しい政策に合わせて立ち上げられた組織が、政策の転換に伴って廃止されると、その段階で突然予算が途切れて現場が動けなくなるという不満もあります。

現場で「芽」を拾い出し、その「芽」を一般性・汎用性のある政策に大きく書き換えるのが政策作りの現場だと思いますが、その際には、(1) 部局間の一貫性、(2) 国と自治体の間の一貫性、(3) 大きな政策意図と実際の具体的指示、(4) 時間的流れにおける一貫性――の4つの「一貫性」が政策に求められることになります。

コメント

藤野 琢巳写真コメンテータ:
私からは、商業集積をマクロとミクロで捉えるアプローチについて話をさせていただきます。

マクロで捉えるアプローチとは、ゾーニング等、地域商業を「地域」の観点から捉える手法です。ミクロとは、その中にある人たちがどうあるべきかという視点です。中活法ではマクロ的アプローチが、地域商店街活性化法ではミクロ的アプローチが、それぞれ強かったのではないかいうのが私たちの捉え方です。

地域商店街活性化法は効果を発揮し、浸透しています。同法は、「地域にとっての商業集積(商店街)は大切であり、そのために支援を行っていく」という発想に基づいています。公的資金を投入する以上、そこは一種の公共的空間となります。商業集積を公共的空間と位置付けるのなら、その空間をいかに大切にし、維持するかという議論の中で、本当の意味でのまちづくり(まちづくり三法でいうまちづくりではなく)を考える必要があります。

一方、公共的空間に位置付けられた人々に対する政策をどう考えるかという問題もあります。公共的空間である以上、恩恵もあれば、義務もあります。公共的空間の中で機能を果たし得る人への施策は可能だと思います。それはディスインセンティブの形をとることもあれば、インセンティブの形をとることもあります。地域商店街活性化法の成功を基に議論を次の段階へと発展させることで、本日のお話にあった論点に何らかの回答が提示できるのではないかと考えています。

質疑応答

Q:

中心市街地活性化の枠組みがスタートしましたが、現状をどう評価されていますか。中心市街地活性化計画に取り組んでいる自治体の半数近くでは、中心市街地の歩行者通行量が改善しています。一方、小売販売額は8割以上の地域で減少しています。郊外と市街地の商業に役割分担ができつつあり、市街地の商業の衰退に歯止めがかかりつつあるのでしょうか。

石原氏:

現在の経済情勢ですので、小売販売額を成果指標にすると、日本中の小売業が全部アウトになります。通行量を指標にするのも総論としては難しいと思います。現状はそれぞれの地域により異なり、商業をベースにできる、あるいは商業機能を強化していける地域もあれば、そうではない地域もあります。それぞれが、基本計画に沿ってどのような目標を掲げるのかが肝になります。今回導入された数値目標では、売上高を目標に置けないため、何を数値目標とすればよいのかという点で、厳しい状況が生まれています。地域の人口が減る中でまちに集まる人の数を増やすというのは、努力の域を越えた話でもあります。私は訪問率を提案したこともありますが、何を数値目標とするかは、それぞれの地域にあった指標作りの話です。工夫の余地はあると思います。

藤野氏:

指標として販売額に着目するのには無理があると思います。私たちは、来外者数を数年規模でのトレンドとして捉えるしかないと考えています。あとは、それぞれの実態に即した数を目指すということでしょうか。5人で良いところもあれば、10人必要なところもあるでしょう。そのように細かくみていくしか手法はないと思います。今回の大震災等で数字が落ちるのは仕方ないことですが、その落ち方が、どこかで底を打つような落ち方であれば、それなりに成功していると捉えています。

Q:

商店街(地域商業者)の商業集積マネジメント能力はどれだけ高まっていますか。

A:

個々の商業者が集まる商店街で共同事業をしてどれだけうまくいくのかという話は元々ありましたが、ここ数年で、所有と経営の分離をどう図るのかという議論が強くできるようになってきていると思います。土地の所有の問題でいえば、高松市丸亀町のような定期借地権を設定した大がかりなものもあれば、大家と商業者の間で集団交渉が行われるところもあれば、横浜のように「まちづくり協定」による非常に細かな規制を敷いているところもあります。「まちづくり協定」は自主協定なので法的拘束力はありませんが、横浜市はまちづくり協定を求める条例を設け、条例で認定したところは地元が協定に従うように指導しています。一口に「所有と経営の分離」といっても、このようにいくつかのタイプがありますが、方向としては、それによって私権(自分たちの家なのでどんな商売をしようと自分たちの勝手だと思うような商業者)をどう制限するかに尽きると思います。その具体的なやり方をわれわれはもう少し丁寧に拾い出して、「それぞれの身の丈に合った形でてやりましょう」ということを同時発信しなければならないと思います。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。