戦後アジアの形成・変容と日本: バンドン会議から現代まで

開催日 2010年11月4日
スピーカー 宮城 大蔵 (上智大学大学院 グローバル・スタディーズ研究科准教授)
モデレータ 福山 光博 (RIETIコンサルティングフェロー/経済産業省 通商政策局 アジア大洋州課 課長補佐)
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議事録

バンドン会議

宮城 大蔵写真1955年に開かれたバンドン会議とはアジアが初めて国際政治における主体(アクター)として登場するようになった国際会議で、欧米抜きで開かれた会議としても史上初の会議となりました。反植民地主義と相互の連帯を打ち出したバンドン会議が独立を求める国の集まりであったことからもわかるように、当時のアジアは「独立」という概念で括られていました。

ただしそうしたイメージは会議の始めからあったわけではありません。

戦後アジアには新興独立国を代表する2つの国がありました。中国とインドです。中国とインドは「平和五原則」の下で枢軸関係、盟友関係を築き、そこには共産主義と民族主義とが手を握って戦後アジアを形作るという大きなうねりが存在しました。冷戦政策を進めるアメリカはそうした動きを非常に警戒します。そこでアメリカはフィリピンやトルコ等自由主義陣営の同盟国にバンドン会議に積極的に参加し、中国・インドの平和攻勢を防ぐよう求めました。

日本にとってもバンドン会議は戦後初の国際会議でしたが、日本がバンドン会議に呼ばれたのには日本の意図とは別の理由がありました。

インドに呑みこまれかねないパキスタンにとっては、インドと中国が手を結びアジアを主導するというのは何としても防がなければならない状況でした。そこでパキスタンは「反共最大の大物」である日本をバンドン会議に呼ぶよう積極的に働きかけます。日本には対中バランサーとしての役割が期待されたのです。このほか、反共陣営の一員としてしっかりとした働きをするようにとのアメリカからの圧力もありました。

当時の鳩山一郎政権はどうしたのでしょうか。反共陣営の一員として会議に臨めばインドや中国、インドネシア等との間で距離が生まれてしまいます。かといってこれらの国々と関係を深めようとすればアメリカとの関係が悪くなります。日本はジレンマに陥ります。

そこで日本は高崎達之助経済審議庁長官を送り込む決定を下します。周恩来やネルーが出席する中、経済審議庁長官を代表で送り込んだのには狙いがありました。政治的課題は極力回避し、代わりに経済的問題を全面に出し、経済でアジアをつなげようとしたのです。これは日本の戦後アジア外交の1つの原型として捉えることもできます。

何が変わり、何が変わらないか
1955年当時のアジアの構造と今日とで変わったもの、それはアジアを形作る「論理」です。変わらないもの、それは地域の力学です。戦後アジアの国際政治は「4つの論理」と「3つのアジア」の組み合わせで成り立っています。以下で詳しくみてみたいと思います。

戦後アジアの形成と変容

4つの論理
戦後アジアにおいてはアジアを形作る論理(または価値観)が競合していました。4つの論理とはすなわち、「冷戦」、「革命」、「脱植民地化」、「開発」です。

  1. 「冷戦」。反共か否か、つまりドミノ理論のロジックでアメリカが展開したものです。共産中国は認めず台湾国民政府を中国とみなすというのも、反共か否かに沿った国際秩序観です。
  2. 「革命」。国でいえば中国です。平和五原則における「内政不干渉」や「主権尊重」は革命政策の終焉を意味します。革命は中国が戦後アジアで地域秩序を作るためのロジックでした。
  3. 「脱植民地化」。スカルノ大統領は旧宗主国の影響力を払拭して初めて独立が実質化されると考えました。その一方で、マレーシアやシンガポールのように旧宗主国との関係を緩やかに保ちながら独立する国もありました。
  4. 「開発」。「冷戦」や「革命」といった政治的手段ではなく、経済成長によって問題を底上げし問題解決を図ろうとするロジックで、日本に色濃くみられた発想です。

1965年までの戦後前半期は「冷戦」、「革命」、「脱植民地化」がアジアの国際政治の主軸となっていましたが、1975年以降は「開発」が中心となっています。1965~75年の「転換の10年」に何が起きたのでしょうか。

1965年、アジアは政治の時代のクライマックスを迎えます。「北京=ジャカルタ枢軸」の縦の軸と「アメリカ=イギリス」の横の軸があり、アジアがどちらに傾くかは明瞭ではありませんでした。ドミノ理論にリアリティがあったのが1965年です。しかし1965年の9.30事件でスカルノは失脚し、枢軸は崩壊します。1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)が結成されました。1971~1972年には米国と中国がそれぞれ「冷戦」と「革命」をあきらめ接近します。1975年のサイゴン陥落とベトナム戦争の終結は「独立」の時代の終焉となりました。これ以降、独立戦争の色彩を持つ紛争はアジアから姿を消し、そのことにより「開発」の時代の政治的基盤が固められることになりました。

1975年以降、アジアは経済の時代に向かい、日本のコミットが深まります。日本の「開発」には、経済によりアジアの非政治化を目指すという政治的意味がありました。戦後日本の対外援助の最大供与先がインドネシアとなり、2番目に大きな供与先が中国となっている背景には、戦後アジアの秩序形成でカギを握ったこれらの国々が転換期に「開発」の方向に進むよう後押しするという政治的意図がありました。「開発」は戦後アジア秩序を変革していく大きな手段となったのです。

3つのアジア
次に、戦後アジアが北東アジア、東南アジア、南アジアの3つのアジアの組み合わせでどのように形成・変容していきたのかを考えてみたいと思います。

  • 1950年代:中国とインドが平和五原則の下で提携を結び、影響力を持ったという意味で、北東アジア+南アジアの時代といえます。地域的まとまりとしての東南アジアは確立途上です。
  • 1960年代:北東アジア+東南アジアの括りが濃厚になります、ベトナム戦争にみられるように戦乱と緊張の舞台ができあがります。南アジアは分離し、存在が薄くなっていきます。
  • 1970年代:北東アジア+東南アジアの結びつきは依然として強いですが、中身は1960年代とは異なり、経済の時代へと突入しています。中国は改革開放路線を打ち出し、南アジアの分離は定着します。
  • 1980年代:北東アジア+東南アジアに太平洋が加わることで「アジア太平洋」という地域概念が生まれます。その括りとなるのが1989年から始まったアジア太平洋経済協力(APEC)です。
  • 1990年代:北東アジア+東南アジアの結びつきが深まります。マハティールの東アジア経済協議体(EAEC)が端緒となり、これら2つのアジアを合わせて「東アジア」とする考えが公の場で広く認知されるようになります。
21世紀:北東アジアと東南アジアに南アジアを入れるのか、ASEAN+3で東アジア共同体とするのか、あるいはASEAN+3+3で東アジア共同体とするのかで話が展開しています。

3つのアジアと日本
戦後日本はまず、世界的な注目を集めていた南アジアに進出します。その後、1950年代後半に賠償交渉が妥結することで東南アジアに入り込むようになります。北東アジアに進出するようになったのは1960~1970年代になってからのことです。

3つのアジアに対する日本の関心を比較すると、比較的明瞭な違いが見て取れます。

日本が南アジアに関心を持つのは北東アジア、東南アジアの代替としてバランスを取るためです。東南アジアに対しては経済的関心を強く有しています。裏を返せば、安全保障上の関心は希薄です。安全保障上の縛りが弱いということは自由に動けることを意味します。実際、戦後日本の外交地平拡大の試みは常に東南アジアから始まっていました。逆に北東アジアに対しては安全保障上の関心を強く抱いています。日本のように安全保障上の関心から植民地を保有した国は世界でも珍しい例となっています。

今日的課題

日本から見て中国の台頭がこれだけ目立つようになったのはアジア通貨危機以降ASEANが弱体化したからです。リーマンショック以降、アメリカ主導経済が弱くなったことも別の理由として挙げられます。いずれにしても、戦後日本の対アジア政策に潜在した対東南アジアと対中国の間のバランスが崩れているというのが現状です。

そうした中、政治・安全保障と経済との間でズレが発生しています。1980年代には政治・安全保障でいえば、アメリカ中心のハブ・アンド・スポーク、経済においてもアメリカのマーケットが最終的な吸収力となっていました。その意味では政治・安全保障、経済ともに対米依存のシステムができていました。ところが現在では、安全保障面では依然としてアメリカが中心で中国は向こう側という構造がある一方で、経済面ではアジアの内部で一体化が進んでいます。このズレを少なくともズレとして留めるためにはどういう道筋があるのかを考えることが、今後最大の課題となります。

日本としては何ができるのでしょうか。

第1に、日米同盟を堅持・適切に強化し、力の真空を生まないことです。今後の中国においては政治・党が軍をどれだけコントールできるかが大きな問題の1つでしょう。中国周辺における力の真空は、軍事的な膨張の誘因を与えることにもなりかねません。第2に、経済連携を強化することです。第1と第2の組み合わせで地域秩序の安定化は相当程度達成できるでしょう。しかしそれは現状維持的なものであり、長期的には、第3に、論理・価値の問題として、「開発」の次に何があるのかを考える必要があります。これは、30年先の地域の姿を大きく変える可能性のある問題です。その時に置き去りにされないようにするためにも、日本は人権や民主化等の問題にもう少し積極的に取り組んだ方が良いのではないでしょうか。

「アジア共同体」が活発に議論されていますが、「アジア共同体」は目標ではなく手段です。日本は地域秩序をどう組み立てるのが好ましいのかを考える必要があります。

質疑応答

Q:

今後20~30年を考えるとき、アジア共同体的なものとしてどのようなものが現実的になるのでしょうか。対中バランサーとして太平洋がアジアで果たす役割は大きくなるのでしょうか。

A:

アジア共同体とは作るものなのか、あるいは、すでにできているものを共同体と考えるのかという話になると思います。共同体というと欧州連合がモデルとして捉えられがちですが、欧州連合は唯一のモデルではありません。であるとすれば、どのレベルのものを目指すのか。いろいろと語られるわりにはその部分がはっきりとしていないようです。

太平洋の役割は政治と経済のズレに帰着すると思います。アジア共同体論をアメリカの観点からみると次のようになります。つまり、1980年代にはアジアはアメリカの安全保障の傘の中にあり、両者の間には経済的結びつきもありました。しかしその後の20年で急激な変化が起き、アメリカは安全保障の傘を提供する一方で、アジアの経済的活力のメリットは必ずしも十分に享受できているとも見えない。そうした状況に納得するのかというのがアメリカからみた話ではないでしょうか。

Q:

ASEAN等東南アジア発の論理・価値について考えをお聞かせください。経済相互依存が安全保障に優位に働くというメカニズムにどの程度期待されていますか。

A:

「開発」の時代のASEANでは、民主化や人権等の価値は、反共と安定という最優先課題の前に、脇に置くことも可能でしたが、現在ではそうもいきません。開発の時代の次の段階として、民主化や人権といった価値をどう取り込むのか、それがASEAN諸国が現在直面し、取り組んでいる課題だといえるでしょう。ミャンマーのような国への対応や、タイで起きている内政の混乱などがその現れです。経済相互依存は安全保障に優位に働くのか。反証例としてよく挙げられるのが第一次世界大戦前のドイツとイギリスとの関係です。両国の経済関係は強まる傾向にありましたが、結局は安全保障の視点の方が強くなりました。相互依存による平和共存と政軍関係は別のロジックです。軍が冒険的行動にでないようにするにはその国の周囲に真空状態を作らないことも大事でしょう

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。