北米における漫画・アニメ市場の現状と課題

開催日 2009年7月13日
スピーカー 松井 剛 (一橋大学商学部・大学院商学研究科准教授)/ 三原 龍太郎 (経済産業省)
モデレータ 山田 正人 (RIETI総務副ディレクター)

議事録

松井 剛写真松井氏:
本日は、「北米における漫画・アニメ市場の現状と課題」というタイトルで三原さんと2人でお話をいたします。まず私の方から、北米における漫画市場がどのような経緯を経て発展してきたのかをお話しします。次に、三原さんからアニメ市場の現状についてお話ししていただきます。

マンガはアメリカのコミックス(いわゆる「アメコミ」)とは多くの点で異なります。たとえば、マンガはおよそ17×11センチの大きさであり、通常200ページ以上あるのに対して、伝統的なアメコミはおよそ23×15センチと大きく通常32ページからなる薄い冊子です。またマンガが右綴じであるのに対してアメコミは左綴じです。カラーのアメコミに対して白黒のマンガという違いもあります。さらに細密なアメコミの絵柄に慣れ親しんできたアメリカの人々にとって、目が皿のように丸く大きく、鼻がほとんどないといった日本産マンガのキャラクターの描き方――「マンガ・スタイル」と称される――は非常に独特なものに映ります。こうした違いにもかかわらず、2002年にわずか6000万ドルであった北アメリカのマンガの市場規模は、2007年には2億1000万ドルにまで急成長しました。

翻って日本では、2003、4年頃から、「ジャパン・クール」とか「クール・ジャパン」という言葉が流行しました。ご存じの通り、アメリカ人ジャーナリスト、ダグラス・マクグレイが『Foreign Affairs』誌に「Japan's Gross National Cool」という記事を発表したことに端を発しています。1980年代に経済的な超大国だった日本が1990年代に入って「失われた10年」という停滞期に入った。しかし考えてみると、ゲームやアニメ、漫画といった日本のポップ・カルチャーが世界市場を席巻しており、今や日本は文化的な超大国になった。このような趣旨の記事でした。これが日本語に翻訳されてから、産業振興、文化外交といったさまざまな政策的文脈で「クール・ジャパン」というコトバが使われるようになったり、大学で漫画やアニメを学ぶための学科や学部が設立されたりしました。こうした盛り上がりはどこまで本物なのか、海外で日本のポップ・カルチャーがどれだけ受け入れられているのか、という素朴な疑問を抱くようになりました。好運なことに、この3月までプリンストン大学で在外研究をする機会を得たので、ぜひこの問題を調査してみたいと思いました。そこでアメリカにおける漫画市場の発展についてのプロジェクトを立ち上げたわけです。

「ゲートキーパー」(門番)としての現地マンガ出版社

このプロジェクトの基本的な問いは2つあります。1つは、なぜ文化的独自性が高いマンガのような外国産の文化的製品が別の国の市場において人気を博すのか、というものです。もう1つは、コミックに関するアメリカでの受け止め方に関わるものです。アメコミのほとんどはスーパーヒーローものであるため、アメリカではコミックとはすなわち男の子のためのエンターテイメントであるという強固なイメージがつきまとっています。こうしたステレオタイプにも関わらず、アメリカのマンガ出版社はいかにして少年のみならず少女マンガ市場を開拓することができたのでしょうか。

この問いを明らかにするために、私が注目したのが、外国の文化的な製品を紹介する「ゲートキーパー」(門番)としての現地マンガ出版社の役割です。膨大な数の漫画のうち、アメリカの市場にふさわしいものをどのようにして選択し、翻訳し、出版し、流通させてきたのかという「門番」としての役割は、ある文化圏で産み出されたものが、別の文化圏で定着する上で重要であると考えるからです。

マンガ出版社の行動を調査するために、ジェイソン・トンプソンが作成した包括的なマンガ・データベースを用いて出版パターンを分析しました。彼の『Manga: The Complete Guide』(Del Rey 2007)は、2007年はじめまでで入手可能な英訳日本産マンガの書誌情報をすべて収めてあります。各作品について、出版社、出版年、巻数、ジャンル、年齢レーティング、性や暴力表現など過激な内容(objectionable content)といったさまざまな属性について記述されています。1980年から2006年までにアメリカで出版された作品は1058ありました。簡単ではありますが、以下ではこうした属性を用いて、マンガ市場の発展と競争プロセスを説明します。なお在外研究中は、出版社などへのインタビュー、アニメ・コンベンションでのフィールドワークなど、出版データを解釈する上で有用な定性データも収集しました。ニューヨーク市で行われたアニメコンベンションで三原さんとお会いして、似たような研究をしているということで、それ以来、協力する関係にあります。

アメコミと漫画の違い

漫画は文化的独自性が強いため、アメコミしか知らない米国人にとっては異質なものです。そこで漫画市場の発展を追う前に、アメリカで売られている日本産漫画の特徴を5点に分けて説明したいと思います。

(1) 漫画スタイル
米国のコミック(アメコミ)の登場人物は目も鼻も現実の人間に似せて描かれていますが、日本の漫画では、目が異様に大きく丸かったり、鼻がなかったりする人物が登場します。この「マンガ・スタイル」に対する違和感は米国では年齢層が高くなる程、大きくなります。

(2) 4つのデモグラフィクス
コミックの大半がスーパーヒーローものとなっている米国には「コミック=男の子のためのエンターテイメント」というステレオタイプがあります。これに対し、日本の漫画は年齢と性別に応じて、大きく4つのデモグラフィックス、少年漫画、少女漫画、青年漫画、女性漫画に分類できます。それぞれ英語でshonen, shojo, seinen, joseiと呼ばれています。日本ではそれぞれのセグメントがマンガを消費しているが、アメリカでは主要なセグメントはshonenであり続けました。ただ2002年以降shojo作品が多数出版されるようになっています。

(3) 「作品」(Title)と「巻」(Volume)
複数の巻にまたがるのは、米国のコミックにはない、日本の漫画の特徴です。前の巻の話が次の巻でも続くというのは、米国人にとってはめずらしいようです。

(4) ジャンルの多様性
スーパーヒーローものがドミナントなアメコミに対し、日本の漫画には、SF、ファンタジー、コメディ、アクション、ドラマ、ロマンス、ロマンティック・コメディなど、多様なジャンルが存在します。

(5) 年齢レーティング
米国で売られる漫画にはすべて、年齢レーティングが付されています。これは、米国社会では、性や暴力の表現に対する道徳的批判が日本よりも厳しいことを意味しています。同時に、年齢レーティングからは、出版社がどの層をターゲットにしているのかを読み取ることもできます。

米国における漫画市場の発展

米国での漫画刊行作品数上位3社のうちの1社、ビズ(Viz Comics)が漫画ビジネスを始めたのは1987年のことです。上述の通り、日本の漫画と米国のコミックは大きく異なるため、漫画をどこまで米国人読者の認識や嗜好に合わせるのか、つまりどこまで現地に適応化させるのかが、当時、漫画ビジネスを米国で展開するにあたっての大きなポイントになりました。

ビズが行った現地適応化策の中で最大のものが、反転印刷です。これは漫画とは反対側に表紙のあるコミックに慣れた読者が読みやすいようにするためのものです。版形も32ページのパンフレット型に変えられました。

漫画のオノマトペ(「ミーン、ミーン」や「ドカーン!」)も忠実に英訳されましたが、英語は日本語に比べオノマトペが少ないため、英訳の際には1つ1つの言葉を作る作業が必要となりました。米国のコミックに合わせて行われたカラー化は、日本の漫画の良さが失われるとして、数年後に中止になっています。

日本の漫画は週刊誌に最適化されているので、感情表現に多くのページが費やされています。一方、米国のコミックは月刊ペースで出版されます。週刊ペースを念頭に置いた漫画の編成は月刊ペースには合わないため、間を取っての隔週での発行となりました。性的表現や暴力表現の扱いについては、ビズは長らく、オリジナルを主張する日本側の出版社・作家と、当該部分の変更を求める米国の出版社の間で板ばさみとなってきました。

1980年代末から1990年代にかけて米国では、ビズに続く形でさまざまな出版社が漫画をだすようになりました。この時代には、『子連れ狼』『Akira』『アップルシード』のようにアメコミに近いリアリスティックで精細な絵柄のタイトルが意識的に選ばれていました。このように1980~1990年代のマンガはコミックスにおけるマイナーなカテゴリーに過ぎませんでした。そのため主流のアメコミに同質化することで、コミック専門店を訪れる既存のアメコミ読者をターゲットとしていました。そのため当時出版されたマンガの多くは少年マンガと青年マンガでした。

少年漫画と青年漫画が大半を占めた状況は、トウキョウポップ(TokyoPop)(当時、ミックスエンターテイメント(Mixx Entertainment))が女の子をターゲットにした漫画雑誌に『セーラームーン』を連載するようになって大きく変わりました。興味深いことに、この雑誌の創刊号はコミックスにまとわりつく「男の子もの」というステレオタイプを避けるためにマンガのことをコミックスとは言わず「motion-less picture entertainment」と称していました。

トウキョウポップは2002年以降、「本物漫画(authentic manga)」で大きな変革を起こします。本物漫画は当時の常識を覆し、「右から左」に読む日本開きとなっています。オノマトペも翻訳せずに日本語のままにして、英訳を下に小さく載せる形にしました。このように、反転印刷もオノマトペ翻訳もしないことで、つまり漫画の標準化策を展開することで、トウキョウポップはページ当たりのコストを大きく抑え、当時約15ドル程度だった漫画を9.99ドルにまで下げることに成功しました。さらにビズが少年漫画を独占している状況であったため、トウキョウポップはニッチの少女漫画を狙うことにしました。結果、当時6000万ドルの漫画マーケットが1億ドルにまで成長し、2003~2004年にかけては新規参入が大きく増えることになりました。

急激な市場の成長と新規参入の増加は同時に、多くのリアクションをも引き起こしました。

たとえば『天上天下』は米国での出版時に、裸や下着姿のシーンに大幅に変更が加えられたため、米国のコアな漫画ファンの怒りを買う結果となりました。日本では『天上天下』はそもそも、ハイティーンから20代の読者をターゲットにした内容になっていたのですが、米国ではそういったセグメントは漫画を読まないので、16歳以上のより若い層を狙うことになり、そこで内容を大幅に変更する必要に迫られたのです。『ヒカルの碁』では登場人物がタバコを碁盤の上でもみ消すシーンが、碁石を碁盤の上に置くシーンに変えられています。『666~サタン~』は「666」という言葉が持つ宗教的意味を踏まえ、タイトル自体が変更となりました。こうした修正は現在でもかなり行われています。

まとめ~漫画の現地適応化と標準化~

以上の話をまとめるとこうなります。日本の漫画が米国に進出するにあたっては、ビズがまず徹底的に現地適応化を行いました。2000年以降は、トウキョウポップが日本と同じ漫画、つまり標準化した漫画を売るようになりました。

ビズとトウキョウポップの間では、同一化と差別化の動きがみられます。ビズは長年、少年漫画を手がけてきましたが、2004~2005年頃にトウキョウポップが少女漫画を多く出版するようになってからは、ビズも少女漫画に進出するようになっています。しかし2006年からは、ビズは少年漫画、トウキョウポップは少女漫画で差別化が進んでいます。ビズは16歳以上のセグメントを重点的に狙っているのに対し、トウキョウポップは13歳以上の若い層を狙っていることが年齢レーティングから読み取れます。

これらのことから2つの結論が導き出せます。

第1に、米国での漫画は経路依存的に発展してきました。標準化が現地適応化に続くという順番が逆であったら、マーケットはこれほど大きくはならなかった筈です。第2に、米国の漫画市場では、「男の子もの」といったステレオタイプや、過激表現へのモラルコードに対するきめ細やかな手配りがなされてきました。時に大きな反発が巻き起こりはしましたが、そうしたスティグマ(一般には、ある属性を持つ人物に対するネガティブな社会的イメージ。この場合は、「コミック=男の子ためのエンターテイメント」といった社会的認識)のマネジメントがうまくなされたためにマーケットとして成功したと考えられます。

ただし、マーケットは縮小しています。これは景気の悪化を受け大手書籍チェーンの業績が悪化したことや、日本アニメのテレビ放送が減少したこと、女の子向け小説およびその映画化(『トワイライト』)から少女漫画が打撃を受けたことなどによります。このように、マーケットの基盤は依然脆弱で、業界大手のトウキョウポップ、ビズともにリストラに踏み込んでいます。老舗のセントラルパークメディア(Central Park Media)も倒産しました。

急速に成長した後、現在はつまずいているのが、米国における漫画業界の現状です。

北米におけるアニメ市場の現状

三原 龍太郎写真三原氏:
松井先生は北米の漫画事情について発表されましたが、私は同時期の北米におけるアニメ事情について発表させて頂きます。漫画とアニメはコンテンツの隣接メディアということで、重なる部分もありまた異なる部分もあります。この両方について見ることで、北米のコンテンツ事情がより立体的に見えてくるのではないか、と思います。

海外で日本コンテンツのファンのマスが存在しているということは、企業のマーケティング的な関心の対象であると同時に、日本にとってのパブリックな資源・可能性という観点から政策的な関心の的でもあります。私は全米各地で開催されているアニメコンベンションに7カ所近く参加いたしました。実際にその現場に立って、会場に大挙して押し寄せてくるコスプレをしたアメリカの人たちの中に身を置いてみると、そこに日本コンテンツのパブリックな求心力・可能性を感じます。そこに日本の政策の大きなフィールドが広がっていると思いました。

北米のアニメマーケットの現状を一言で言うと、ファンの数は増加しているにも関わらず市場規模は縮小している、ということになります。これは、ファンのマスは拡大しているのに、そこからの利益を十分に刈り取れていない、ということを意味します。

ファンの数の指標としては、アニメコンベンションの参加者数がありますが、これは年々増大しています。2008年における北米各地の主要24のアニメコンベンションの参加者数の発表を見ると、ほとんどのアニメコンベンションで前年より参加者数が増大しています。減少していたのは1カ所だけで、しかも10人前後でした。

北米における日本コンテンツのファンの裾野も拡大していると思われます。ファンの関心の対象はアニメ・漫画そのものからその周辺領域に広がっています。北米最大のアニメコンベンションであるアニメ・エキスポ(2008年・ロサンゼルス)には日本のゲームセンターにある筐体がたくさん置かれているブースがあり、そこでいわゆる「音ゲー」などで遊ぶ参加者がたくさんいました。また、北米第2のアニメコンベンションであるオタコン(2008年・ボルチモア)のマージンではJAMプロジェクトのライブが行われ、彼らは北米では余り展開していない『スーパーロボット大戦』というゲーム関連の楽曲を歌ったのですが、熱心なファンが数千人近く集まり非常に大きな盛り上がりを見せていました。また、ファンの年齢層の裾野も拡大していると思われます。私は各地のアニメコンベンションで小さな子供にコスプレをさせた親子連れをよく見ました。おそらく80~90年代の初期のアニメファンが結婚して家族を持つ年齢に達し、自分たちの子供を自らの趣味に引き込むべく連れてきていたのでしょう。

にもかかわらず、北米におけるアニメのビジネスニュースは暗い話題が多いです。北米のポップ・カルチャー誌である「ICv2」の試算によると、北米のアニメの市場規模(アニメDVDの売り上げ)は2007年の1年間で20%縮小した、とのことですし、2007年のアニメの市場規模は2005年のそれの半分になった、という試算すらあります。日本のコンテンツ系企業も次々と北米市場から撤退していますし、「ニュータイプUSA」(アニメ雑誌「ニュータイプ」の北米版)や「Shojo-Beat」(日本の少女漫画を連載している北米の少女漫画雑誌)といったメジャーなアニメ・漫画関連雑誌も廃刊してしまいました。

このように、北米の日系コンテンツビジネスは非常に厳しい状況に置かれています。アニメコンベンションに行くとそこに来ている人の多さが壮観で明るい気持ちになるのですが、一歩中に踏み込んでビジネスパネルなどに参加してみると、「我々は果たして生き残れるのか?」といった形の非常に深刻な議論をしていたりします。このコントラストが北米のアニメ市場の特徴だと思います。

「クール・ジャパン」の下部構造

日本産コンテンツの国際的な人気の高さについては、注目されるようになってから既に10年近くが経ちます。しかしながら、ニュースでの報道のされ方や主な政策的議論の論調は、先ほどのアニメコンベンションのたとえで言えば、「アニメコンベンションに多くの人が集まっているのを見て明るい気持ちになる」というレベルにとどまっているのではないか、と思われます。

そこからさらに、北米におけるアニメの経済的・産業的基盤にまで踏み込んだ議論が必要なのではないか、と思います。このレベルはこれまで余り詳細な議論が行われてこなかったと思われますが、米国で厳しい状況に直面している日本のアニメ産業の今後の「持続可能な発展」のためには、クール・ジャパンを支える経済・産業的基盤という、いわば「クール・ジャパンの下部構造」を見ようとする視点が非常に重要となります。その意味で、松井先生の研究成果の重要性は極めて高いと思われ、私の問題意識も、基本的にこの線に沿ったものです。

現地適応化(ゲートキーパー論)および市場成長の経路依存性について

松井先生のご発表に沿う形で、私はその議論に大きく2つの点を追加・補足したいと思います。第一点は、ゲートキーパー論についてです。

松井先生は日本の漫画の北米における展開を考える際にゲートキーパー(北米現地の翻訳出版社)に注目することの重要性を示されましたが、これには私も全く同感です。北米のアニメ市場を考える際にも、アニメの現地化担当企業(ローカライザー:日本アニメのライセンスを受けて、それの英語吹き替え版・字幕版を制作する企業)に焦点を当てる必要があります。松井先生はこれをマーケティングの立場から「ゲートキーパー」と表現されましたが、これをカルチュラル・スタディーズやメディア論の観点から、スチュアート・ホールの「コード化(encode)」・「脱コード化(decode)」というフレーズにならって言えば、メディア商品が国境をまたぐ際には、ある国の生産者(コード化主体)からその商品のライセンスを受けて別の国の消費者(脱コード化主体)に供給する際に、文化的背景を考えた現地化(=コードの転換)を行う「換コード化主体(trans-coding agencies)」といった存在を新たに想定し、これに注目する必要がある、ということになると思います。

事実、日本とアメリカ、日本語と英語では、文化背景や言語体系が大きく異なる(一説によると真逆である)といわれています。そうした中で、いかにして良質の翻訳・現地化作業を行うかがアニメの成功のカギを握ります。たとえば米国のアニメファンが英語字幕付き日本アニメをみているとき、あるシーンが何を意図しているのか、何が面白いのかわからないという経験をすることは、私たちが考える以上に多いようです。「私にはこのシーンの意味するところが分からない(I don't get it)。」という北米アニメファンの声をよく聞きました。日本文化や日本語を共有していないことからくる「伝わらなさ」はありとあらゆるシーンで生じるわけで、たとえばカラスが「アホー」と鳴くシーン1つにしてみても、米国のカラスが「stupid!」などと鳴かない以上、何らかの説明が必要となってきてしまいます。こうした部分で「換コード化主体」がコードを米国人の感覚に合わせてどう転換していくのかが、非常に重要となります。

追加・補足の第2点目は、「市場成長の経路依存性」に関してです。これに関連して1つ付け加えるとすれば、北米の漫画・アニメ市場の成長には、顧客獲得努力やニッチ市場の開拓といった、企業の側からの「プッシュ」要因も重要な役割を果たしていますが、同時に、草の根レベルのファンの自主的活動が日本のアニメ企業を北米市場に引っ張り込んだという、ファンの側の「プル」要因も重要な役割を果たしている、ということです。つまり、松井先生のご発表にもあったように、日本企業がアメリカの顧客にゼロから営業をかけて彼らのプロダクツを買わせるように仕向けた、という側面はもちろんあるのですが、それだけでなく、企業が進出する以前に北米市場に当該アニメが知れ渡ってしまっていて、すでにファンとなっている消費者から企業が逆に北米版の発売を急かされる、企業が消費者に振り回されてしまう、という側面があることも見逃せません。

北米の古いオタクの回顧談などには必ずといっていいほど「昔自分たちがいかに苦労して日本からアニメのビデオテープを入手して同志で共有したか」という話が出てきます。80年代~90年代前半にかけてはインターネットもDVDもなかったので、彼らは日本のペンフレンドにお願いして、たとえば『らんま1/2』のアニメをVHS(もっと古い場合はベータマックス)のビデオテープに録画して北米に送ってもらい、高価で特殊な機材でそれに自主的に字幕をつけて、郵便でやりとりしつつそれをダビングしていったそうです。そういう背景があるので、彼らは一面でとても「誇り高い」人たちです。「北米にアニメを広めたのは俺たちだ。日本の企業はそれに後から乗っかっただけではないか。」という極端な主張をするアニメオタクも北米には一定数います。

「同時・多発」から「異時・単発」へ

ゲートキーパー論すなわち換コード化主体の活動をもう少し掘り下げて見てみます。

ゲートキーパーに注目したときに見えてくる問題は、北米ではアニメのゲートキーパーと漫画のゲートキーパーが別々で、かつ両者の間での「ヨコの連携」が取れていない点です。日本のコンテンツプロジェクトはアニメのみ・漫画のみで閉じているケースが極めて少なく、漫画、アニメ、小説、ゲーム、CDなどメディアをまたいだ「メディアミックス展開」が基本となっています。そうしたメディアミックス戦略でメディア横断的な一大複合体が形成され、「同時・多発的」にプロジェクトが進行するのが日本国内での話ですが、これが海外に進出する際にはメディアミックスの結びつきがほどけてしまい、「異時・単発」的に、すなわちそれぞれのメディアが異なるタイミングで個別的に北米市場に導入されてしまっています。そのために、メディアミックス展開による相乗効果が期待できないだけでなく、同じシリーズの漫画とアニメであっても、担当する企業が全く異なり両者の連携がないことなどにより、訳語や登場人物の名前が漫画とアニメで違うといった事態が発生しています。また、日本ではメディアミックス展開を極限まで推し進めた結果として、小説でしか読めない・漫画でしか読めないエピソードなどを意図的に作るやり方を採用しているプロジェクトが多くありますが、そのようなプロジェクトのうちたとえばアニメしか北米に展開できないケースも多く、北米のファンが当該プロジェクトの世界を十全に味わえないような事態も起きています。

とりわけ、「異時・単発」の「異時」の方、すなわち日本でのリリースから北米版発売までの「タイムラグ」は、日本コンテンツの国際展開に際して深刻なボトルネックとなっています。私がケースとして追跡調査していた『涼宮ハルヒの憂鬱』では、2008年10月現在、日本で展開している主だった関連商品の内の40%しか北米版が発売されていませんでした。特に、北米のアニメコミュニティ内で『ハルヒ』ブームがあったのは2007年ですが、それから1年近く経った後も『ハルヒ』の原作としてコアのメディアである小説が一冊も英訳されていなかったのは個人的に驚きでした。またアニメ版はこの時点で全てavailableになっていましたが、日本での放映終了からアメリカで正規品が入手可能になるまではおよそ1年かかっています。アニメの場合、ライセンシング業務や脚本の翻訳、吹き替え作業、プロモーションやパッケージングなどでどうしてもそれくらいの時間がかかってしまう、ということでした。

このようなタイムラグは、海外のファンからすると大きなストレスです。北米ファンの間には、「そこにあることが分かっているのに正規のアクセスが提供されていない」、「見たいけど見ることができない」という状況に対する根源的な怒りのようなものが伏流しているように思われます。皮肉なことに、アニメに対する愛が深ければ深いほどその怒りは大きくなってしまうようです。

補完的インフラとしてのインターネット

次に、ファンの側の「プル」要因についてもう少し掘り下げて見てみます。

先ほど申し上げたような「見たいけど(合法的には)見ることができない」状況に置かれた北米のファンがどのような行動を取るかというと、インターネットに走ります。「企業の側が満足に提供してくれないのなら、自分から取りに行ってやる!」とばかりに、インターネットで出回っているアニメに自分たちで無許可で勝手に字幕を付けて、ファイル共有サイトに上げて皆で共有する、ということが行われています。このような、ファンにより違法に字幕(サブタイトル)を付されてネット上に出回っているアニメ動画は「ファンサブ」と呼ばれています。

正規のビジネス手続きを踏めば1年近くかかるところ、ファンサブは日本での放映からわずか数日後にネット上に出回らせることが可能です。ファンサブが名前を変えた海賊版であることは明らかで、それを許容するものでは決してありませんが、「見たいのに(合法的には)見ることができない」ストレスを抱えた北米のアニメファンがファンサブに走ってしまうのはある種の合理的な行動ではあり、その意味で、タイムラグの長さが海賊版につけ込む隙を与えてしまっている、ともいえると思います。また、事実の問題として、インターネットが、正規品をすぐに入手できない彼らの「見たい」欲望を満足させる「非公式な補完的インフラ」として機能していることは否定できないように思われます。

先ほどの『涼宮ハルヒの憂鬱』のケースで見てみると、正規に入手できる主な関連商品が全体の40%であることは先ほど申し上げましたが、ファンベースのネット上の違法なダウンロードやP2Pシェア等を使うと、全体の75%の『ハルヒ』関連商品のコンテンツが入手可能となります。特に驚異なのが『ハルヒ』の小説で、2008年10月現在で全9巻+2章分の内容のうち正規に英訳されているものはゼロでしたが、あるファンサイトではその全てがファンにより英訳されていました。そのサイトでは、『ハルヒ』小説の英訳のみならず、フランス語訳、ドイツ語訳、はてはタガログ語訳までありました。

このようなファンサブの跋扈を受けて企業の側もタイムラグの短縮やビジネスモデルの変更を議論しており、これは「消費者により企業が振り回されてしまう」という「プル」要因の現代的な形態であると思われます。

北米におけるアニメ市場の課題

以上のことを踏まえ、北米におけるアニメ市場の課題は、大きく2つある、と思います。1つは、公式ルートにおける「異時・単発」的な展開の仕方をいかにして解消するか、ということです。とりわけ、日本での放映から北米進出までのタイムラグを短縮・解消する必要があると思います。2つ目は、インターネットが北米におけるアニメ視聴の補完的インフラとして機能している現状を踏まえ、インターネットを活用した持続可能なビジネスモデルをどのように構築・確立するか、ということです。北米の日本コンテンツファンをマスとして今後ともつなぎとめておくために、これらの課題に取り組むことが急務、と思います。

質疑応答

Q:

日本企業が北米でメディアミックス戦略を展開しないのは何故でしょうか。

三原氏:

この点については私も機会がある毎に企業の方々に質問させて頂いていたのですが、明確な答えは教えて頂けませんでした。ただ、彼らの回答の「行間を読む」限りでの個人的な見解としては、北米のメディア環境・プラットフォームを整備して北米マーケットを本気で開拓するためには大きなコストがかかるが、コストに見合うだけの利益が出るか不明で、かつ日本のコンテンツ系企業にそれだけのコストをかけられる資金的体力がないこともあり、結果として二の足を踏まざるを得ない状況にあるのではないかと思います。

Q:

アメリカにおける漫画出版は出版業界にとってどれだけ重要なものなのでしょうか?

松井氏:

日本と違って、アメコミと日本産漫画を含めたコミック市場が出版市場全体に占める割合は微々たるものです。しかし出版市場全体が停滞する中、日本産漫画が過去5年ほど急成長してきたため、業界的に大きな関心を集めてきました。ボーダーズやバーンズ&ノーブルは「Manga」という棚をもうけるようになりましたし、ランダムハウスがデルレイ、DCコミックスがCMX、アシェットがエンプレスという漫画の出版社を相次いで設立しました。このような書店大手、出版大手も漫画ビジネスに参入したことは大きな意味を持っていると思います。

Q:

北米でのアニメ市場が縮小しているのは近年の日本コンテンツの質が低下したことによるのでしょうか。

三原氏:

質は落ちていないと個人的には思います。大好きな現代アニメ作品もたくさんあります。ただ、非常に多くのアニメが製作されているので、中にはあまり質の良くないものが一定数混じっているのも事実です。北米のアニメ市場は以前はごく少数の質の高いアニメ(たとえば、『AKIRA』や『攻殻機動隊』など)だけが入ってきていたようなのですが、近年の『ポケットモンスター』の大ヒットである種のバブルが起きて大量のアニメが買い付けられ、日本アニメが玉石混交の状態で一気に大量に米国市場に流入した結果、米国のファンの間で低品質のアニメをつかまされることに対する警戒心が高まり、アニメに手を出しにくくなったということはあると思います。また、発表の際に申し上げました通り、インターネットの影響も非常に大きいと思います。Youtubeなどが若い世代のコンテンツ視聴のスタンダードとなってしまったことで、コンテンツ産業の側が彼らに「お金を払ってコンテンツを手に入れる」という習慣を身につけさせることに失敗してしまった、というのは、最近よく耳にする話ではあります。

Q:

北米にも日本の同人誌に当たるようなファン活動の文化はあるのでしょうか。

三原氏:

日本のいわゆる「コミケ」ほどではありませんが、アメリカにも同人誌文化はあります。アニメコンベンションの会場には必ずといっていいほど「アーティスト・アレイ(Artists' Alley)」と名付けられている一画があり、そこでは北米の同人作家たちが自分達の作品を販売しています。ただ、個人的な感覚としては、絵柄がどこかぎこちなく、アメコミに近くなっているような気がします。同人誌以外で、かつそれよりも規模の大きいファン活動としては「AMVコンテスト」というものがあります。AMVとはアニメ・ミュージック・ビデオ(Anime Music Video)の略で、日本で言う「MADムービー」に相当するものと思われます。アニメや日本ゲームのシーンをつなぎ合わせて、それを全く関係のない音楽と組み合わせることで意外な演出効果を楽しむ(たとえば、『キングダム・ハーツ』のシーンにハロウィンのメタルを組み合わせて荘厳さを強調する、等)、というものです。AMVのコンテストはやはりアニメコンベンションで必ずといっていいほど開催されていて、多くの場合メイン・イベントの1つです。まず大きな会場でノミネート作品の上映会が行われ、その後観客の投票でグランプリが決められます。優勝者は日本における有名同人作家に匹敵するくらいの名誉を得ることができるようです。

松井氏:

今のお答えに付け加えますと、アメリカのアニメコンベンションと日本の「コミケ」の大きな違いは二次創作の有無です。日本のコミケでは既存のアニメや漫画のキャラクターを用いた同人誌が非常に多いです。これは知的所有権について厳しい社会であるアメリカから来た人々にとって驚くべきことです。ダニエル・ピンクという人が2007年の『Wired』誌に日本のコミケや同人誌文化をレポートする記事を書いています。彼が驚いたのは、日本の漫画・アニメ産業全体がこうした二次創作の存在を許容していることです。これはアメリカの文脈で考えてみれば、ミッキーマウスを使った同人誌を売ることをディズニーが許容するようなものであり、とうてい許されることではないわけです。したがってアメリカのコンベンションでは二次創作はまずみられません。

三原氏:

オタクの自己顕示欲がどこで満たされるか、という問題だと思います。日本の場合は主に同人誌に代表されるような既存作品の二次創作に向かいますが、北米の場合は少し方向性が異なり、(同人誌やAMVもありますが)「正確な」ファンサブを「迅速に」作成することによって「自分はこんなにこのアニメについて知っている、こんなに日本文化について知っている」ということをアピールすることに向かっているように思われます。その意味では、よりストレートな著作権侵害に向かってしまっている、ともいえます。

Q:

北米におけるファンサブの横行およびそれによる市場の蚕食を食い止める抜本的な解決策はあるのでしょうか。インターネットを活用したどのようなビジネスモデルが可能とお考えでしょうか。

三原氏:

これは自分もずっと考えている論点ですが、未だに答えは出ておりません。というよりもむしろ、今後人智を結集して考えるべき課題と思います。映像産業のビジネスは音楽産業のそれに追随するという見方があります。北米の音楽産業がナップスター問題やRIAAの訴訟合戦等を経てiTunesモデルに落ち着きつつあるように、もしかしたらアニメもiTunesのようなプラットフォームで1話1ドルのように「超薄利・超多売」で販売される日が来るのかも知れません。1つの取っ掛かり、1つの可能性ではあると思います。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。