政府の失敗―市場の失敗への介入としての規制の法と経済学

開催日 2005年4月27日
スピーカー 福井 秀夫 (政策研究大学院大学教授)
モデレータ 田辺 靖雄 (RIETI副所長)

議事録

政策評価の基準

政策評価の基準は、「資源配分の効率(社会的余剰増大)」と「所得分配の公正」という2つの概念に収斂します。「市場が神の“見えざる手”によって最適な状態をもたらす」というアダム・スミス来の格言がありますが、それはさまざまな財やサービスについての完全競争を前提としたものであり、その最適な状態が「資源配分の効率」にかかわる概念となるわけです。政策とは、完全競争の前提が欠けることとなる市場の失敗をできるだけ回避するための営みであるともいえます。

一部では、生命や健康、環境を経済効率で考えるのはナンセンスだという根拠のない批判がありますが、価格機構を理解する上で重要なのは、限界費用と限界効用の考え方です。同じ財やサービスに対して見出される価値は千差万別です。多様な個人ごとに、あるサービスや財に対して違った評価が行われるわけです。そこで評価(価格)と需給量の関係をグラフに表すと、需要曲線と供給曲線の交点で需給均衡が達成されますが、基本的に、この均衡点で価格と量が決まっている場合、生産者余剰と消費者余剰の合計である総余剰が最大化します。この総余剰をそれぞれの財やサービスごとにどれだけ大きくできるか、または、大きくあって然るべきものがどれだけ小さくなっているのかといった分析や評価を行うことは、政府が何をなすべきかを考えるときの出発点である事実認識の前提となります。「完全競争はパレート最適である」というのは、まさに完全競争状態であれば、総余剰が最大化されているということを意味するわけです。現実の市場が完全競争の仮定そのものであるわけではないから経済分析は万能ではない、などという批判を得意げに行う向きもありますが、これは、引力法則の分析を行う際に、真空中で物体が落下するものと仮定することは現実には空気摩擦があるから非現実的であり、引力法則は無意味だと批判することに等しいものであり、かえって物事を正確に把握するのを妨げる考え方です。

先進諸国あるいは途上国を問わず、政府による介入が行われている領域として家賃が挙げられます。水や塩など、生命の維持にかかわるものも同様でしょう。日本でも水道事業者の料金設定は、政策価格となっています。こうした価格統制の問題として、たとえば家賃については、政府による公営住宅の割り当てに際し、立地がよく人気の高い物件では多くの超過需要が発生していますが、価格統制が行われていることによって、需給の均衡量は人為的に留められて死荷重が発生し、その分の利得が社会から損失しているといえます。それは、消費者の「思いのほか安い値段で買えてよかった」とか、生産者の「思いのほか高い値段で売れてよかった」といったそれぞれの利得の一部が確実に失われるということを意味します。また、割り当てに外れてしまった人々の中に、さらに低所得で困窮した人が混じっていないという保証はありません。つまり価格統制というのは、実は不公平かつ資源配分を歪め、社会的な利得を減らすものだということが標準的な議論の帰結となります。

本当に価格の引き下げが必要ならば、価格統制をせずに死荷重を復活させた上で、その状態で課税を行って低所得者などにとっての価格引き下げのための財源に充てるほうが余剰損失は少ないというのが、標準的な経済学の分配と効率の調和に関する考え方です。規制を考える上では、価格規制の余剰損失、分配上の不公平の問題が基本的な議論の枠組みとなります。

また、厚生労働省が行っている薬の審査についても、同じようなことがいえます。日本でも、エイズの非加熱製剤による感染が問題になりました。薬の審査というのは副作用を防ぐために行われるものですが、その反面、審査にあまり時間がかかるようでは、早く認可されていれば助かったはずの人が亡くなってしまうというトレード・オフの問題がつきまといます。薬の審査精度(時間やコスト等)と助かる人命との関係は、限界費用および限界効用と同じ観念で捉えることができるといえます。「過ぎたるは及ばざるがごとし」の格言どおり、審査は厳しければ厳しいほどいいというわけではなく、どこかに最適値があります。そして、その最適値と「パレート最適である」ことは、同じことを意味しています。つまり、「限界費用と限界効用の交点が常に最適値である」ということが大前提となります。

一方、「市場は完全ではない」という議論から飛躍し、規制や許認可制度の必要性を叫ぶ人がいます。しかし、市場が完全でない場合の対処の仕方には、セオリーがあるのです。完全競争でない場合の典型例は、公害等の外部性によるものでしょう。公害は、市場取引を通じずに他者に健康被害をもたらします。そして、社会的なコストを余分に発生させているにもかかわらず、公害産品(公害をもたらす製品)の生産者はそのコストを負担しないことから、グラフに表すと、社会的な限界費用曲線と(公害産品の生産者の)私的な限界費用曲線との間に乖離が生じます。そこで公害規制や環境規制が行われるわけですが、経済学の標準的な考え方は、規制よりもむしろ経済的インセンティブ、すなわち課税や汚染権の売買のほうが有効だというもので、ピグー税と呼ばれる外部性対策などがこれにあたります。この場合も最適値が必ずありますが、最適価格(社会的限界費用に相当する分だけの課税を行う)もしくは最適量(最適点に相当する分だけ生産量を減らすような規制等を行う)のどちらかでコントロールしない限りパレート最適の状態にはなりません。ですから、厳しければ厳しいほどいいという考え方は、やはり棄却されます。つまり、必要にして十分な政府による失敗の是正の程度とやり方があるということを前置きとしたいと思います。

市場の失敗の是正

次の(1)から(5)は、市場の失敗として起こりうるすべてのバリエーションだと考えられます。つまり、この5つのうちのどれかに当てはまる規制や許認可でなければ、市場の失敗対策として理由がないということになります。合理的な規制や許認可、あるいは税制による政策介入であるならば、5つのうちのどれかに該当するはずですから、これを検証することは、政策担当者にとって非常に重要な役割です。

(1)公共財
不特定多数の者が同時にサービスを消費でき、他者を排除することが困難なもの。
例:防衛、外交、混雑のない一般道路。
(2)外部性
市場取引を通じないで他社に及ぼす利益または不利益。前者を外部経済、後者を外部不経済という。
例:都市計画・建築規制、環境規制。
(3)情報の非対称
売り手と買い手の持つ財・サービスに関する情報に格差が生じている場合。
例:欠陥住宅に関するチェック制度、弁護士や税理士等の各種資格制度。
(4)取引費用
権利の移転に関する交渉に必要な労力・時間・費用が大きいため、私人間の交渉が成り立たない場合。
例:裁判・民事執行制度、実体法による権利の設定、マンション建替え。
(5)不完全競争
独占・寡占。

(2)の外部性に関連して、ノーベル経済学賞を受賞したシカゴ大学のロナルド・コースによる「コースの定理」という非常に面白い理論があります。「権利が明確で、その実現のための取引費用がゼロであるならば、誰にどんな権利を与えても、社会的余剰は最大化される」というのがその命題です。これを、先ほどの公害の話に当てはめると、交渉費用がゼロで、公害を発生させる権利が企業側に100%あると考えても、あるいは公害工場を撤去する権限が住民側に100%あると考えても、資源配分の観点ではどちらでも同じ結論になる。なぜなら、それは交渉でそのような状態が容易に実現されるからだということになります。この含意は何かというと、権利を明確にすればするほど、あるいは取引費用や交渉費用、司法コストを安くすればするほど、政府が介入しなくても民間同士の取引で資源配分が改善される確率が高まるということです。ですから、権利関係はできるだけ明確であったほうがいいし、そのための執行コストは、できるだけ安価で労力がかからないほうがいいということになります。

これとまったく逆のことを唱えるのが法律家だといえます。たとえば民事法では、借家の貸主と借家人との間で立ち退きをめぐる紛争が起きた場合、借家法に基づき、弱者である借家人への高額の立ち退き料支払いを貸主に命じるなどして保護をするわけです。さて、このような考え方がどんな影響を及ぼすでしょうか。まず、あらかじめ予測可能性が小さければ家主にとっての取引費用が高まります。つまり、供給曲線は上へシフトするため余剰は確実に減少します。これに加え、借家法ではさらに家賃規制まで行っていますから、先ほども触れましたが、死荷重の発生と取引費用の増大によるそもそもの余剰の減少というダブルパンチで社会的余剰を減らしていることになります。法律家は、こうしたことを正義の名のもとに正当化しがちですが、やはり経済政策の観点で合理化するのは、なかなか難しいことです。このように、法律家の議論と初歩的レベルでの市場の失敗の議論とは、かなりの部分で衝突しており、日本の法と経済学の大きな課題は、こうした部分の調整にあると考えられます。

所得分配の公正

基本的に、完全に機能している市場、失敗のない市場については、介入をするべきではありません。仮に弱者が発生した場合は、生活保護といった一般財源によって調整していくべきでしょう。また、それは増えた余剰の中から行うほうが、国民全体の公正という面においても、弱者の満足度という面においても優れるということがいえます。公営住宅のようなモノによる調整は、不正の温床になりますし、実際に分配の不公平という問題も起きていますので、望ましくありません。

経済的規制と社会的規制

最近の規制会議などでは、医療・教育・福祉等の「社会的規制」であったとしても、市場の失敗に合致しない、あるいは市場の失敗に合致していても必要にして十分な対策でない場合には、その規制は必要にして十分な範囲に留めるべきだということは普遍的に妥当するという方向に、議論は整理されています。

先ほどの薬の審査では、その薬が世に出回らなかった場合に亡くなった人は、存在していたとしても検証することはできません。ところが、薬の副作用で亡くなった人ははっきり目に見えるため、ジャーナリズムや世論の非難が集中しやすくなります。そこで、目に見えるコストの方を評価し、とにかく副作用の事故を起こさないようにする方向で審査そのものをやたらと慎重に進めるという傾向が強くなります。そうしたインセンティブの構造を変えるということも、規制改革の重要な役割であろうと思います。

政府の社会実験としての構造改革特区

構造改革特区の制度については、日本は連邦制ではありませんから、条例によって国内に2つの異なる制度を設けることは認めがたいという議論が内閣法制局を中心に行われました。そこで、国法の中で地域バリエーションを作るという考え方で特区構想が進められたわけです。また、日本は一国一制度の歴史が長かったために社会実験がまったく行われることなく、そのために規制改革も進まなかったという問題意識も根ざしていました。

現在、教育バウチャー(切符)についての議論が盛り上がっていますが、私立学校が公立学校に比べ極端に冷遇されているという差別に対し、イコールフッティングを確保することなどは、特区の対象としても馴染むといえます。特区では、単なる飴としての減税や補助金といった財政的支援措置のみの特例は対象外としていますが、規制を撤廃もしくは改革した場合に同じ競争条件とするための特例整備については、本来の役割としています。

「政策」―政府介入の論拠に理由はあるか

ここで、政府介入の論拠に理由はあるかという点について、規制会議で議論となったトピックをいくつか紹介したいと思います。

(1)株式会社病院
現存する62カ所の株式会社病院においては、利潤追求による医療過誤や薬害といった問題が起きているわけではありません。にも拘らず、この「株式会社性悪説」の議論は十分に決着していません。また、「個人開業医」は利潤を追求しないが、「株式会社」は利潤を追求するという議論がありましたが、これも成り立ちようがない議論です。

(2)幼稚園、保育園の一元化
厚生労働省の担当者によると、保育園の敷地内に調理室の設置を義務付けるのは、調理室がないと、園児が大人になったときにきちんとした家庭を作れないからだそうです。また、調理室がなくても給食センターを活用すればいいといった代替策に対し、説得できる理由は示されていません。

(3)株式会社による農業経営は借地によらなければならず、土地保有は禁止
個人農家は耕作放棄をしないが、株式会社は耕作放棄をするという議論が基になっていますが、実際に耕作放棄をした当事者に実施されたアンケート結果では、高齢化、あるいは後継者不在を理由に挙げる零細農家の回答が1位を占めています。つまり、個人農家であるが故に、高齢化や後継者不足の問題が起きているといえます。株式会社は自然人ではありませんから、このような問題が生じようがないのに悪者扱いです。また、農業経営の収益性という点でリース方式のほうが優れているという議論がありますが、その判断は事業を営む本人に委ねるべきでしょう。

(4)理容師と美容師が混じると危険
理容師と美容師が同じフロアで働けるようにしてほしいという規制改革要望があった際、厚生労働省の担当者からは、混じって働くと文化が破壊されて客に危険が及ぶという理由が示され、規制は存続しています。

(5)入管行政の恣意
外国人の永住許可の基準は基本的に居住年数ですが、たとえば「学術研究に優れた者」という基準に適合すれば年数は短縮されることになっています。その「学術研究に優れた者」であるかどうかの審査は、審査付きの論文数等の実績ではなく、本人が単に自己申告した論文数が基になるそうです。このように詐称が可能な基準では、国益を阻害することになりかねません。

(6)薬剤師がいないと副作用に苦しむ?
コンビニエンスストアには薬剤師がおらず、副作用の説明ができないから薬を販売してはいけないという議論があります。しかし、特例販売業として認められている「富山の薬売り」に薬剤師の資格は必要なく、3~5年の実地の販売経験があれば誰でも置き薬ができるわけです。しかし、コンビニエンスストアに対しては、同じような実地の経験年数による許可は認められていません。「富山の薬売り」は、利権および既得権ということになります。しかし、健康や安全という面において、薬剤師のいない「富山の薬売り」から買った薬には副作用が起きてもよいが、コンビニエンスストアで販売する薬に副作用が起きてはいけないということにはなりません。やはり、政策は目的に照らして、対等、対称にしなければいけないはずです。

(7)車検延長をすると交通事故者が増える?
車検延長については、本年3月の規制会議において答申とする旨を国土交通省と合意していたにもかかわらず、業界と政党の反対によって答申から脱落するという珍しいケースとなりました。理由は、部品の耐久性が向上していないからだということですが、その根拠は、部品メーカー9社からの聞き取り調査です。部品メーカーにとっては、整備が頻繁に行われるほうが市場を拡大でき、利益につながります。劣化試験や磨耗試験は一切行われていませんから、これでは判断の基準にはなりません。また、部品劣化のうち走行劣化の割合はおよそ7割、経年劣化はおよそ3割という国土交通省による調査結果があります。中でも最も多いタイヤの磨耗は、年数ではなく走行距離によりますから、むしろ走行距離と年数の併用制のような車検でなければツジツマが合わないはずですが、その点についても十分な議論が行われていません。実証や理論のきちんとした調査がなされないまま政治的に決着しているのは、大変残念なことです。

政策形成の担い手としての行政の歪み

次に、官僚の論理と心理についてお話ししたいと思います。福沢諭吉は「惑溺」と表現しましたが、もし担当の官僚が、本気で「保育園に調理室がなければ歪んだ大人になる」と信じているならば、問題は深刻です。また、薬害の問題にも絡みますが、官庁の利害と規制・助成とのかかわりに関しては、生産者団体のバイアスを受けやすいものです。消費者の薄く広がった利益は、なかなか結集しにくいものですが、生産者は業界団体等を通じて結束しやすいためです。政治家にとっても、浮動票の消費者のための政策よりは、確実な票となる業界団体のための政策に尽力するほうが有利となります。しかし本来官僚は国家公務員法によって政治的中立性が確保できる立場にありますので、もう少し消費者の利害を代弁したほうがいいのではないかと思います。規制会議での議論などを聞いていますと、「惑溺」ではないかと思う人が10人に1~2人ほど混じっているように感じます。しがらみや打算ではなく本気でいっていますから、どうしようもありません。規制あるいは法改正を考える際は、本来の一般消費者の利害を考えた選択肢を念頭に置くということが必要でしょう。

また官僚にとって一番の関心事といえば、「天下国家のため」に働くといいながらも、実際のところは昇進レースです。昇進レースの覇者になるためには、やはり業界団体や政治家とつつがなく付き合うことが不可欠となり、大臣さえ政治的な指揮監督ができないというのが実態です。やはり官僚機構自体に内在するバイアスがあるということについては、内部の人々にも一定の自覚が必要でしょう。

官僚にとっての「合理性」

そこで、官僚にとっての「合理性」について考えると、次のようなことが挙げられます。
(1)「公共公益性」のたてまえの保持(例:審議会で「省益」を追認)
(2)消費者よりも業界重視
(3)政治への利益誘導(場合により、業界が政界・官界を支配)
(4)競争を制限(例:株式会社・NPO性悪説、教育・医療・薬剤師等の分野で新参者や非資格者を排除)
(5)官業の存続第一(例:公園、会議所、検査、検定、ハローワーク)
(6)効率は二の次

特に(4)では、安全や健康のためという非常に効果的な大義名分のもとで限界費用曲線を上方へシフトさせますから、確実な参入制限となり、既得権を持つ生産者余剰を増やし、消費者の消費者余剰を確実に減少させてしまいます。しかし、そうした自覚のない規制が多いわけです。

また(5)については最近、規制会議の民間解放部門において、実在するテーマパークのような公園や温泉地にしかない会議所、膨大な職員数に対して年間数件の検査などについて、民間にできる限り解放していくべきだという議論が盛り上がっています。しかし、こうした議論に対して、必ず判で押したように3つの反論が挙げられます。「公務員でなければ中立性がない」、「公務員でなければ専門技術的判断ができない」、「公務員でなければ守秘義務が守れない」というものです。これらはいずれも、民間企業において問題なく行われている“みなし公務員”の制度で対応できるはずです。つまり、公務員という身分の属性自体に大きな意味はなく、政策意思決定部門以外の現業部門は、基本的にかなりの部分が民間に馴染むということが、ここ1年ほどのさまざまな議論で明らかになったといえます。

(6)は、特に公共事業に関係する官庁が当てはまります。たとえば道路を作るときに、その道路ができたら国民経済にどれだけ寄与するのかというミクロ経済的な効果ではなく、どこの誰にどれだけの金銭支出を行うかということを重視することも可能なわけです。こうした事業評価は事業所管庁が行うのではなく、利害関係のない第三者が行うということも非常に重要なことです。

質疑応答

Q:

最近、規制改革の流れが停滞しているように感じるのですが、ブレイクスルーとして何かお考えになっていることがあればお伺いしたいと思います。

A:

10年ほど前と比べて、規制の費用と効果の両方について考えようという機運は、おそらく今のほうが盛り上がっていると思います。また、ドグマとしての社会的規制や経済的規制で効果や扱いに差を持たせようという議論は、完全に影をひそめました。たとえば、民間解放に反対する姿勢は変わらないまでも、その理由の質が変わってきており、より現実的な業務ごとの事情について議論されるようになってきています。そういう意味で、私はそれほど希望を捨ててはいません。また、マスコミの影響という問題があります。マスコミの方で、規制改革について正しく理解して記事を書いている人は少ないように思います。もう少し、内在的な理解を深めて批判なり賛同なりをするべきでしょう。学者も含め、一般人にわかりやすく伝える役割の方々が、十分に機能していないという感じがしています。

Q:

官僚の政治的中立性についてのお話で、生産者は業界団体等を通じて官庁や政治家に圧力をかけやすいのに対し、消費者の意見は広く分散してしまうということでした。そうした消費者の意見を結集し、利益を擁護できるような仕組みを作るためのアイデア等がありましたら、お伺いしたいと思います。

A:

なかなか決定打といえるものはないのですが、2つ念頭に置いていることがあります。1つは、行政官に対し、経済職や法律職といった職種を問わず入省後のできるだけ早い段階で、政策に関する経済学、特に標準的なミクロ経済学のトレーニングを1~2年かけて徹底的に行うということです。私は10年来、現在でも国土交通省の入省間もないキャリア官僚に対して経済研修の講師を務めていますが、こうしたトレーニングは、かなり効果的だと思われます。2つめは、選挙制度において1票の格差を完全に1:1にするということです。地方は人口が少なく1票の比重が大きいため、公共事業や許認可の問題に政治のバイアスがかかりやすいわけです。これは、最高裁が「1:2を超えると違憲である」としながらも選挙無効には至らないため、長年放置されている問題です。選挙の効力に影響がない違憲判決は意義が乏しく、このままでは1:1とするのは非常に難しいとは思いますが、本来はそれが近道だと思います。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。