WTO農業枠組み合意と食料・農業・農村審議会の農政改革報告についての評価

開催日 2004年8月24日
スピーカー 山下 一仁 (RIETI上席研究員)
モデレータ 児玉 俊洋 (RIETI上席研究員)

議事録

戦前の農業問題

最初に戦前の農政が抱えた課題を見てみることにしましょう。当時の日本では、小作人は収穫料の半分を小作料として地主に支払わなければなりませんでした。そのような悲惨な状況にあった小作人を解放することが戦前の農政が取り組んだ1つ目の課題でした。2つ目の課題は、零細農業構造の改善です。小作人の解放は農地改革により実現され、零細農業構造の改善は農業基本法により図られようとしましたが、実際の農政はそれとは全く逆の方向を歩み始めました。

農業基本法の基本的な狙いは、構造改革により規模を拡大しコストを下げることで農業所得を上げ、農業と工業の所得格差の不均衡を是正することでした。ところが、その後の農政は米価を引き上げることで所得を向上させようとしたのです。これが問題の発端となります。

高米価政策では、需給均衡価格に基づく価格設定を行なわなかったため、生産量が需要を追い抜く形で需給ギャップが生じました。米に対する農業支援が強化されたため、米の生産が過剰となり、その他の農作物の生産が減少することとなりました。過去30年にわたり生産調整政策を実施してきました。これにより、食料自給率は1960年に79%であったものが40%にまで低下することになりました。

収量を上げるということは、供給量の増加を意味しますので、さらなる生産調整の強化が必要となります。よって、収量増加による競争力強化という選択は事実上できなくなりました。残された選択肢は、規模拡大によりコストを下げるというものでした。

100ヘクタール、200ヘクタール規模の農場を持つ米国の方がコストが低いというのは、それぞれの農地規模に適した機械化技術を有しているためですが、日本の0.1ヘクタール、0.2ヘクタール規模の農場でそのような大規模な機械を操業することはできません。規模の増大に伴いコストを下げる機械化技術を導入できるというのが規模の経済です。

53年までは、米価は国際価格を下回っていました。ところがその後、米価はどんどん引き上げられ、現在では米は490%の関税で保護されるに至っています。比較優位性があったものが比較劣位の産業になってしまったというわけです。

欧州各国の農業政策

フランスの対応を見てみましょう。フランスは政策対象を主要農家に限定し、都市地域と農村地域の区別を行ないました(ゾーニング制度)。これにより、自給率を99%から132%へと、農場規模を17ヘクタールから42ヘクタールへと拡大させることに成功しました。さらに、農地の流動化を促進するための特別の土地公社が設立され、担い手農家に農地を集中させる政策を強力に推進しました。フランス、ベルギー、ドイツのゾーニング制度においては、加工用施設を例外に、農村地域に住宅などを建設することは認められていません。日本も昭和40年代に入り都市計画法や農振法を策定しゾーニング制度を導入したのですが、効果的に運用されていないため、農地を自由に宅地に転用できるという運用が取られ続けています。

欧州連合(EU)の場合はどうでしょうか。1980年代、GATT交渉はEUの共通農業政策を中心に展開しました。日本では生産調整で米の生産を抑えますが、EUはその逆で生産を増加させ過剰を国際市場で処分します。EUは国内価格と国際価格の差を輸出補助金で補いダンピング輸出したのですが、これが1980年代の米国との熾烈な貿易紛争を引き起こし、ウグルアイラウンドにつながる決定的要因となりました。

結局EUは米国からの攻撃に持ちこたえることができず、1993年に価格を大きく引き下げることでウグルアイラウンドは妥結ました。その代わり、国内価格と国際価格の差を面積当たりの直接支払いで農家に所得保証する政策を展開しました。単純に比較することはできないものの、域内の価格支持を大幅に下げたことで、現在のEUの穀物支持価格の水準は米国の小麦のシカゴ相場をはるかに下回る水準となっています。

日本がEUに見習うべき点は何でしょうか。EUは1990年のブラッセル閣僚会議が失敗に終わったと同時に、欧州委員会の内部で共通農業政策の改革に着手し、当時12カ国の間で合意を形成させました。他方で、日本には「終わらないと(負けないと)改革しない」という気風が見受けられます。EUは、ウルグアイランドのときも、途中の段階で改革を行い、それを踏まえた上で最終交渉に臨むという姿勢を打ち出しています。

今回の交渉においても、EUは2003年6月にさらなる改革を行い、8月には米国との合意に至る結果となっています。2004年に入ってからは、輸出補助金の撤廃を打ち出し、大きく方向を転換しましたが、これが可能となった背景には、共通農業政策の改革を国内で終了させていたため、輸出補助金なしでもやっていける水準に達していたことがあります。

各国の政策比較からも明らかな通り、米国とEUについては直接支払いの比重がかなり大きくなっています。消費者負担による農業保護(関税)から財政負担による農業保護(直接支払い)に切り替えているので、関税は低くても問題はないわけです。いまや高い関税率で農業を保護しているのは日本のみとなっています。

高米価政策を導入した日本では、コストの高い副業農家でも高い米を買うより自ら作るほうが安上がりなので農地は貸し出されず、規模拡大の好循環に乗る形でコストを低下することができませんでした。加えて、生産調整により収量増大によるコストダウンも阻まれました。

では、このような状況にどのように対応できるのでしょうか。農地の貸し出しを促進する環境を整備するには、高米価政策とは逆の政策が有効と思われます。つまり、米価を下げるということです。ただ、ここで問題となるのは、米価が下がると大規模農家の地代負担能力も下がることです。このような問題を回避するためには、大規模農家の地代負担能力を向上させる面積当たりの直接支払いを出せばよいのです。このメカニズムを効果的に運用するというのが私の基本的な考えです。

農地市場に対する需給関係

農地市場に対する需給関係を見るために、米市場における農産物価格について実際に数字を当てはめながら説明をしたいと思います。現在の米価は60キロ当たり1万6000円となっています。需給均衡価格は約9500円、日本米と競合する中国産米の輸入価格は4000円程度です。490%という数字は2万円超の価格になると思われます。国際価格が下がればより高い関税率が必要となりますが、300%あれば、少なくともいまの価格は保護できる水準となっています。現在は190%の水増しの部分がありますが、これがなくなると大変なことになる場合も想定されます。

生産調整を停止すれば、価格は需給均衡価格まで下がります。この価格の下落から最も大きな影響を被るのは主業農家です。この下落の差の一部を、米国が1996年の農業法で導入したように、過去の販売・生産に対する直接支払いで直接所得補償するというのが私の提案する処方箋の第一です。

面積当たりの直接支払い

直接支払いにはいくつかの種類があります。世界貿易機関(WTO)では補助金を交通信号になぞらえ、「緑」「黄色」「赤」と分類していますが、「緑の政策」では基本的に生産価格、生産量、生産要素と関係しない支払いが行なわれます。輸出補助金は「赤の政策」で禁止されていますが、農業に関してはこの分類はなくなっています。「黄色の政策」は削減対象に対する補助金を指します。これらのほかに、米国とEUが談合して策定した「青の政策」もあります。これは、生産調整を前提に、面積当たりの直接支払いを認めたものです。厳密には、農地面積は生産要素ですので、面積当たりの支払いは「黄色」になるはずなのですが、生産調整を実施している条件の下で削減対象からは外され、「緑」のように完全に対抗措置を免れるものではない、ということで中間分類が設けられました。

デカップルされた直接支払いは生産に影響を及ぼしませんので、構造改革効果もありません。われわれの目標は国内価格を下げることであり、そのためには供給曲線をシフトさせる必要があります。私は、先に申し上げた直接支払いに加えEUが1992年の改革で行なったように面積当たりの直接支払いを導入し、大規模農家に直接支払いを行なうことで農地を流動化し規模を拡大させ、供給曲線を下げるという措置を提案しています。

現状に目を向けてみましょう。直接支払いによりWTO交渉や自由貿易協定(FTA)交渉を進めるというアイデアには次のような2つの大きな問題があります。(1)価格支持はすべての農家に影響を及ぼしますが、直接支払いの最大のメリットは問題となる対象に直接ターゲットを絞って政策を実施できることにあります。しかし、兼業農家が圧倒的多数を占める状況においては、この政策上の最大のメリットが政治上の最大のデメリットになります。このような政策は、かならず農業団体から選別政策であると非難されます。(2)既得権益で動きの取れない農林水産省の予算を見直すには、大きなリーダーシップが求められます。

8月13日に米国とEUの間で、一定以上の農産物関税は認めないという合意がなされました。これを受けて農林水産大臣は、「『諸外国の直接支払いも視野に入れて』食料・農業・農村基本計画を見直す」という談話を発表しましたが、発表の背景には、490%の米の関税率が100~200%まで下がれば日本の農業は壊滅するという大きな危機意識があったと思われます。

その後9月のカンクンWTO閣僚会議で、上限関税率に関して食料安全保障等の非貿易的関心事項については一定の例外も可能であるとする文書が発表され、上限関税率に米の例外を設けることができるかもしれないとの期待が生まれました。これは、米の改革意欲を大きく減退させる要因となりました。

そのような状況下、2004年7月にWTO農業枠組み合意がなされました。この枠組みは「市場アクセス」、「国内支持」、「輸出競争(輸出補助金)」の3つの分野に分けられ、現在それぞれの分野で交渉が進められています。

WTO農業枠組み合意

日本の最大の関心分野は「市場アクセス」です。米国やEUと異なり直接支払いを導入していない日本にとって関税の維持は至上命題となっています。しかし、私個人としては、議論が逆転している感を否めません。「関税」や「直接支払い」は保護のための手段にすぎず、日本の農業をどのように保護するのかというのが本来至上命題となるべきなのですが、現在の日本では関税引き下げ反対がスローガンとして打ち出されています。ウルグアイラウンドの際には包括関税化反対、輸入制限を守る、というスローガンが打ち出されたのと同じです。

枠組み合意では、上限関税率については、事実上先送りになりました。さらに、関税率別に品目をグループ化し、高い関税品目には、一定の重要品目については例外を認めつつ、高い削減率を課すという階層方式が採用されました。交渉によって品目数を決定する場合、米国や豪州等輸出国の力が強ければ品目数が削減される可能性がありますので、当初の議長案のように、関税化品目数を目安とするという点で妥協をしていた方が望ましかったのではないでしょうか。

どのような場合に例外が認められるのでしょうか。GATT・WTOには例外に対し代償を求めるという基本ルールがあります。日本はウルグアイラウンドの際に米の関税化特例措置を要求しましたが、その代償として、関税化していれば消費量の3~5%ですむミニマムアクセスを4~8%とすることが義務付けられることになりました。例外措置を要求する際にはこの代償主義を常に念頭に置く必要があります。

この代償主義の観点からいうと、関税割り当てやミニマムアクセス等の低関税輸入枠の拡大について、今後の交渉の中で義務付けられないように交渉していくことが可能とする農林水産省の見解はかなりの度合いで希望的観測であるといえるでしょう。関税削減率を甘くしてもらうと、その代償として関税割り当ての一層の拡大を求められることになります。

次に国内支持について考えてみましょう。米国は、農業生産額の5%以内の「黄色の政策」においては削減対象外とするデミニマスの維持に努めていましたが、「青の政策」についても米国寄りの基準が設けられ、今のところは米国は二重の面で得をしています。

輸出競争(輸出補助金)については、類似の共通農業政策の改革を経たEUは輸出補助金をほとんど必要としなくなっています。特にEUは、砂糖と乳製品についても共通農業政策の改革を行なうこととしていますので、近い将来に輸出補助金を撤廃できる状況にあります。

新たな基本計画に向けた中間論点整理

以上の点を踏まえ、2004年8月10日に食料・農業・農村政策審議会の中間論点整理が発表されました。中間論点整理は「担い手政策の在り方」、「経営安定対策(品目横断的政策等)」、「農地制度の在り方」、「農業環境・資源保全政策の確立」の4つの分野に分けられますが、特に注目すべきなのが直接支払いを念頭に置いた「経営安定対策(品目横断的政策等)の確立」です。「農地制度の在り方」ではゾーニング制度や株式会社参入の問題が扱われています。「経営安定対策」については、若干の方向性が提示されています。

私の主張は、関税による消費者負担から財政による直接支払いへと転換する方針の下で、関税ゼロを目指し農政改革を実施すべきだというもので、農林水産省の考えとは異なるものです。農林水産省は、コストと国境措置(関税)で入ってきた水準の上に不足払い的な財政負担を行なっており、これを過去の面積当たりの直接支払いに置き換えようとしています。

具体的に、麦を例に考えてみましょう。麦の国際価格はトン当たり2万5000円となっています。外麦を国内の製粉企業に売る際には、これを5万円で売ります。その差を国家貿易企業がマークアップという関税類似のものとして徴収します。国内農家に保証している価格は、トン当たり15万円程度となりますが、これを不足払いにより5万円の市場価格まで下げるというのが麦政策の基本的仕組みです。現在農林水産省は、この不足払いを面積当たりの直接支払いに移行しようとしています。この関税水準で守られた5万円には一切変更を加えないということです。

つまり、畑作物については、不足払いの部分は直接支払い移行する、過去の生産にのみに応じた支払い、現在の生産とはデカップルされた面積当たりの直接支払いに移行しようとしています。関税については、WTO交渉で負けた場合に措置を講じることとしています。米については、もともと不足払いがないので、直接支払いは適応されません。関税については、米の生産調整にも何も手をつけず、改革を一切行なわないことになっています。

問題となるのが酪農です。酪農は品目横断的ではありません。農林水産省は「品目横断的」という言葉のトリックにかかったようです。複数の作物が作られる水田や畑作では品目横断的政策への転換が可能です。しかし、酪農には品目横断的政策を適応することはできないと整理されました。これはつまり、酪農については関税引き下げの対応も一切行なわないということになるというのが私の理解です。土地についての直接支払い(米は水田、麦や大豆は畑、酪農は草地)をするわけですから、草地という観点からすると酪農も対象にするべきでした。しかし、農林水産省の中間論点整理ではそれが行われませんでした。ここが大きなポイントとなります。

日本の農業政策の問題点

WTO交渉の関税引き下げや農業の構造改革に対応するため、価格を下げて直接支払いへと移行するという考え方がないという点、直接支払いに移行するとしても、それは交渉に負けたときに限り、EUのように先手を打つ形で農政改革を行いWTO交渉に積極的に備えるという考え方がない点が問題です。そして、生産物補助金が過去の生産に応じたものとなり、現在の生産からデカップルされたものとなる点が最大の問題となります。

新しい食料・農業・農村基本法は食料自給率の向上を最大の目的として掲げています。しかし、実際の政策は食料自給率の向上とはおおよそ反対の方向に向かっています。さらに、水田といっても、直接支払いの対象となるのは「過去に麦等を作付けした」水田のみであり、ここに資源配分の歪みが生じるという制度上の問題も抱えています。

より根本的な問題としては、衰退の著しい日本の農業に内在する問題を解決しない限り、外から保護しても内から崩壊するのではないかと私は考えています。

農地制度については、ゾーニングの問題や株式会社参入の問題がありますが、後者の問題については、小倉武一氏の株式会社論(「農業主義は生きている」1967年『ある農政の遍歴』所収)をご参照いただければと思います。

今後の交渉の見通し

最後に今後の交渉の見通しについてお話したいと思います。
私は、交渉はファストトラックの期限である2007年7月までは動かないと予測しています。なぜなら、米国の2008年以降の農業法がどのようなものになるかは2007年にならないと見えてきませんし、ドイツとフランスは2006年に大きな選挙を控えていますので、EUとしても譲歩しにくい状況にあるからです。山場は2007年でしょう。

参考として消えた日本提案をご紹介いたします。
日本の多面的機能の提案は日本政府自らによって落とされてしまいました。中間論点整理の中に、「農地資源や水資源の維持・管理に対する助成を目指した農業環境・資源保全政策の確立」というのがありますが、これは多面的機能についての日本提案が実現しなければ導入が難しい政策です。ですので、今後は日本提案の交渉にも尽力する必要があると考えています。

質疑応答

Q:

「新たな基本計画に向けた中間論点整理について」に「諸外国との生産条件格差の是正対策」として「直接支払いに転換」や「担い手に集中化・重点化」、「緑の政策を目指す」とあります。これだけを見ると農林水産省の中間論点整理は山下氏の主張に似ているものと思われるのですが、どの点が異なるのでしょうか。

A:

農林水産省が担い手農家に限定した直接支払いを導入したことは評価できます。問題は、直接支払いといってもいくつかの種類があり、直接支払いの作用する中身が理解されていない点にあります。総論では関税を直接支払いに転換するとされていますが、各論でその点が取り扱われていない点も問題です。「『緑の政策』を目指す」とありますが、「緑の政策」とは生産からデカップルされたものであり、生産量、生産価格、生産要素とのリンクは認められていません。つまり、面積や過去の販売量に応じての直接支払いであり、生産に携らなくとも支払いを受けることができる直接支払いです。このような生産に関係しない直接支払いに対しては構造改革効果を期待することはできません。構造改革効果を持つ直接支払いと、デカップルされた直接支払い――米についてはこの2つの直接支払いを導入すべきです。 生産調整の停止による価格下落に対応するための直接支払いについてはデカップルされた直接支払いでよいと思いますが、構造改革を進め日本の農業の国際競争力を高めるためには、生産とリンクさせた直接支払いが必要となります。中間論点整理ではこの点が見落とされていました。

Q:

各国が自国の農業保護に必死になる中、共存・共栄の観点から世界の農業を考える必要があると思います。また、世界農業における食料安全や環境保全も視野に、日系農民と提携しながら、アジアの農業が将来生き残るためのグローバルなビジョンを提示する必要があると思いますが、このようなビジョンはどのような機関により打ち出され、取り組まれるべきだとお考えですか。

A:

世界農業は、食料、環境、貿易の3つの観点から論じることができます。農業は工業と異なり、光、水、土という不可欠かつ代替不可の3つの生産要素を必要とします。ところが、米国や豪州の畑作中心の大規模農業は地下水を枯渇させてしまうような農業を行なっています。土についても、土壌を流出させる生産方法が採用されている米国では土壌保全局などを中心に改善策が講じられていますが、コストがかかるために農家においては実施されていません。豪州の農業も同様の状況です。世界人口の増加を考えるならば、持続可能な農業が今後の大きな課題となります。この点については持続可能な開発に関する世界首脳会議(WSSD)から提言が発出されていますし、経済協力開発機構(OECD)も同様の提言を行なうべきだと考えています。

Q:

米の場合、直接支払いにおける財政負担はどのくらいの規模になりますか。予算の抜本的見直しには大きなリーダーシップが求められたため実現しなかったとのことでしたが、予算の規模についてもお教えください。農家の反対はあったのでしょうか。反対があった場合、それはどのようにして抑えられたのですか。

A:

財政負担については、関税率をゼロにした場合、米、畑作物、酪農(草地)をすべて含めて約1.7兆円ですが、これは少し多めに計算した数値です。米については、約1.2兆円です。現在の農業予算は3兆円あります。このうち農林水産省が出しているのが約2.4兆円で、都道府県・市町村負担の部分を特別地方交付税で負担している分(総務省から流れている農業補助金)をあわせると3兆円くらいは財源があるのではないかと思います。OECDが開発した生産者支持推定量(PSE)は5.5兆円で、うち5兆円が消費者負担、0.5兆円が直接支払いとなっています。よって関税をゼロにすると、5兆円の消費者負担分がはずれ、農業保護は5.5兆円から1.7兆円に落ちることになります。これは米国の農業保護と遜色のない水準となります(GDP比較)。
EU内でも当初はフランスの一部とドイツを中心とした抵抗がありました。ドイツはミュンヘン周辺に比較的小規模な農家を抱えており、価格支持から直接支払いへと移行する際にはこれら保守派の農家から大きな反対が出ました。価格支持の場合、どの国の消費者も一様に消費者負担として負担することになりますが、直接支払いによる財政負担となると、一番拠出の高いドイツに大きな負担がかかることになります。つまりドイツのEUへの拠出金によりフランス農業をまかなうということになるのです。このようなこともあり、ドイツは最近では共通農業政策の改革派へと立場を変えつつあるようです。現在共通農業政策の改革に反対しているのは、伝統的に輸出を好むフランスのみなのではないでしょうか。

Q:

「都会に農業は関係ない」という考えがあるように、日本ではそもそも農業を保護すべき理由について国内でコンセンサスが形成されていないという大きな問題があります。さらに、国内における農業の位置づけが理解されていない点もWTO交渉においては大きなネックになっていると思います。WTO問題が国民の中でどのような位置づけであるのか、何が欠落しているのか、政策交渉を行なう際の国家としての姿勢についてご意見を伺えればと思います。

A:

戦後の農地改革・経済復興を主導した農林大臣兼経済安定本部長官の和田博雄氏らには農業保護のために農産物価格を上げるという発想はありませんでした。なぜならば、当時は食料費の家計に占める割合(エンゼル係数)がかなり高く、そのような状況での農産物価格の引き上げは消費者家計を圧迫することになり、結果として労働コストの上昇につながりかねないからです。労働コストが上昇すると製造業の競争力がなくなり日本経済の復興が阻まれることになるとの考えがあったのです。消費者家計の安定が農政の基本となっていました。
ところが、基本法制定後、高度成長期に突入し、エンゼル係数は下がり、米価が少々上がったとしても消費者から不満の声が上がることはなくなりました。このような状況を背景に、農政は、構造改革によりコストダウンを行いつつ農家の所得を上げるという真っ当な方法ではなく、米価を上げるという安易な方向に向かうようになりました。これが現在の農政が抱える大きな問題の原点となっています。
農業を保護すべき理由は明白です。いざとなったときに頼りになるのは食料を生産する国内農業であるとの認識は世界各国の国民が持つところです。食料安全保障においても効率化が求められていますが、ここでいう効率化の基本は国民消費者により安い食料を安定的に供給することです。日本は、企業家精神に基づく経営の合理化を図り、自由化に頼る強い農業を目指し、自活再生へ道を考える時期に来ています。強化された農業から消費者がメリットを受けるというのが農政の基本であり、あるべき姿なのですが、そこから外れたところに大きな問題が生じたのです。

Q:

直接支払いの際のコストについてのお話がありましたが、政策コスト、あるいは誰がどのような方法で配るのかについてはどのようなお考えをお持ちでしょうか。農業の周辺産業の構造改革は、直接支払いにとってニュートラルなのでしょうか。たとえば、農協などを通じて周辺産業の構造改革を行なうことができるのではないでしょうか。

A:

行政費用の問題は直接支払いに常に付きまとう問題です。関税の場合、行政費用は水内際で徴収するためかかりませんが、直接支払いは個々の農家に支払うため、行政費用は必ず発生します。とはいうものの、行政費用はたとえば、中山間地域直接支払いのように集落協定を策定し、集落ごとに支払いを行ない、配分は集落内で行なわれたり、対象となる農業者の数を限定したりすることで最低限に抑えることができます。関税では確かに行政費用は発生しませんが、関税の歪曲効果を是正するための化学肥料や農薬の過剰な使用に対し抑制を求める措置を導入するならば、そのような措置に対する行政費用は発生することになります。現在OECDでは価格支持に行政費用が発生するケースについての議論が行なわれています。
周辺産業の合理化は確かに難しい問題です。OECDの分析を例に考えてみましょう。たとえば、米100円の価格支持を行ないます。そうすると価格支持のうち、農家には農機具や肥料や農薬代を引いた分しか所得に残りません。この所得に残る部分は消費者負担の25%とされています。つまり、農家の所得になるのは25円となります。それならば25円を直接だしたほうがいいというのがOECDの発想です。これが農業機械産業であり科学肥料産業であり、構造改革は各産業で行なう必要があると思います。

Q:

農業を保護すべき理由について国民の間でコンセンサスが形成されていない点が先ほどの質問の中で指摘されましたが、これに関連して、コンセンサスを持った人間が行政として動かすためには、あるいは、山下氏の主張を実現させるためには何が必要となるとお考えでしょうか。

A:

現在の農林水産省の状況は中間論点整理にあるとおりですので、私が今、農林水産省に戻ったとして私の主張がそこで実現できるかというと、それはかなり難しいと思います。実現するためには、政治的リーダーシップが必要です。少なくとも農林大臣が食料の安定的供給という農政の基本に立ち、追い風を受けながらも邁進するという政治的意思を持たない限り実現はかなり難しいことだと思います。

Q:

食料安全保障について、政府が自給率の引き上げを掲げる一方で、自給率にこだわらなくとも国民が安心できる豊かな食生活が実現できるとの意見もあります。直接所得補償方式で効率的な経営を構築するという山下氏のお考えと政府の掲げる自給率向上との関連についてどのようにお考えですか。

A:

私は個人的には、今のような飽食の食生活を前提とした自給率の向上を目指すことはあまり意味のないことだと考えています。食料安全保障で自給率が問題となるのは海外からの食料供給が途絶して、国民に必要最低限の食料を保証しなければならないような状況においてです。その際に農地資源が重要となります。農地は、農業基本法が制定された昭和36年の609万ヘクタールをピークに減少傾向にあります。その後、100万ヘクタールの農地造成を公共事業で行ないましたが、現在は480万ヘクタールしかない状況です。消えた230万ヘクタールの半分は住宅地や工業地等の都市的用途に転用され、これにより農家はかなりのキャピタルゲインを得ることになりました。残り半分は耕作放棄され、山に戻りました。
農地資源の確保は食料安全保障を考える上で一番重要なポイントとなります。日本は、対外的にはウルグアイラウンドの場などでも食料安全保障を主張してきたにもかかわらず、国内では食料安全保障の基本的資源である農地の減少に何ら対策を講じなかったというのが大きな問題です。
私の主張する施策と自給率の向上の関係については、大きな効果を期待することができるのではないかと考えています。今の農政では、生産調整により生産能力が抑えられています。価格を下げると、生産量は拡大します。米の価格が下がることで麦の相対的収益性は改善され、より多くの麦を作ろうというインセンティブが生まれます。転作奨励金を出したのは、米の収益性と麦の収益性の格差を是正するためでした。ところがその後の財政負担の軽減により、格差はどんどん縮小してきました。現在では、相対的収益性の格差は是正するような水準ではなくなり、米に対する生産圧力がますます強まっています。
もう1つ重要なポイントとして、大規模農業ほど、環境にやさしい農業を行なっているという点を挙げることができます。週末しか農業に従事しない兼業農家は、化学肥料や農薬の多投で労働を代替します。ところが専業農家の場合、労働力があるので、農薬や化学肥料を労働で代替することができます。これにより、より環境にやさしい農業を行なうことができるようになる、というのが私の主張です。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。