金型屋と高性能COセンサー~冬来りなば春遠からず~

開催日 2002年3月22日
スピーカー 坂口 正明 ((株)坂口技研代表取締役)

議事録

はじめに(梅村副所長)

坂口技研の坂口社長は、昭和46年に金型の事業を開始し、昭和58年に現在の坂口技研を設立されました。平成6年にはCOガスセンサーの開発を着手、金型の製造事業からCOガスセンサーへと事業の変換を行うなど、事業の多角化を行って来られました。本日は、国、県、市の制度を利用しておられる経験などを踏まえて、行政に対する辛口のお話をお願いします。また、商品開発にあたっての産学の共同研究や、産学連携についてのお話などもお聞きかせいただきたいと思います。

バブルと共に人情も崩壊

本日は、金型屋の観点からお話しをさせていただきます。

私がこの職業(金型産業)に就いたのは、自身の生い立ちと深く関わっております。まずはそこからお話しましょう。

私は、太平洋戦争の真っ只中、昭和17年6月5日に東京で生まれました。当時、父は勲章を作る職人でしたが、私が2歳のときに戦争へ招聘され、上海に行く途中で亡くなりました。当時の東京はまさに戦禍でしたから、母方の実家がある柏市に疎開しました。疎開先では、当時の皆がそうであったように、私も非常に大変な生活を送りました。中学を卒業するときには奨学金制度を使って進学する話もありましたが、それを断って金型の世界に入りました。そこで12年間金型の修行をし、27歳のときに柏金型製作所という会社を起こしました。創業するときには、修行していた金型屋の親方に30万円の退職金をいただきました。出入りの機械屋に「この30万円で独立をしたい」といいましたところ、機械屋のおやじさんはさらに400万円を出世払いで貸してくれたのです。いまの時代には考えにくいことですが、当時はそのようなことが当たり前の時代でもありました。そして、「独立するなら1つ教えてやる。人が8時間働いたら、10時間働けよ。必ず2時間は多く働くんだ。これの積み上げしかないからな」といわれました。独立当時は、ちょうど昭和46年のオイルショックで景気が停滞していましたが、働けばなんとかなるという時代でした。

その頃の金型業は今と違って、業者間の連絡が密に取れていました。また、独立を目指して皆が商売をやっていました。この業界ではそれぞれが独立して作った会社が系列会社になり、それぞれの系列に対して、さらに規模の小さな業者がぶら下がっていたのです。私は、その系列会社制度の恩恵を受けてここまで育ってきたと思っています。しかし、バブルの崩壊を境に、このような体系が変わってしまいました。最大の変化は信頼関係を築けなくなったということです。購買との癒着などという次元ではなく、問題があってもお互いを信頼し、助け合うという関係はバブルの崩壊で全て失われてしまいました。

当時の私は、バブルの崩壊にまったく気が付かずに仕事をしていました。しかし、仕事は一向に増えず、1年くらい経った頃にやっと気付いたときは、状況がかなり変わっていました。お得意さんに行ってもそれまでの担当者はおらず、若者が出て来て受注価格を値切るような状態になっていました。

そのあたりからモノづくりに関わる業界の雰囲気がおかしくなってきたと思います。「これではダメだ、どのように生きていこうかな」というときに、息子が大学を卒業し、一緒に金型業をやるといい出しました。そして、今後の会社の方向性、従業員のことを考え、やはり自社製品を持たなくては生き残れないと考えたのです。

出会い~意識の変化

自社製品を開発しようと思い立ったとき、大野先生との出会いがありました。大野先生がCOガスセンサーの研究をされているということで、当社でそれを製品化してみようと決断しました。私にとって、これは1つの大きな転機だったと思います。それから8年後の今日まで続けてこれたのは、「これを作れば人の命が助かるのだ」という大野先生の情熱、そして人と人との出会いでした。

柏市役所では、何かテーマを持っていてやる気がある会社をフォローしてくれますし、申請書等の作成等も手伝ってくれます。このような人との出会いや環境の変化によって、社員の意識も変わってきたと思います。COガスセンサーに取り組み始めて数年後の平成10年に東葛テクノプラザ(※1)ができました。「入居しておいたほうがよい」という行政の勧めもあり、入居を決断しました。東葛テクノプラザに入居したことで、ずいぶん意識も変わったと思います。

ここには今まで出会えなかった人達との出会いがあります。彼らは、さまざまな情報を持ち、その場所に集まり話をしてくれます。こうした環境の変化は、当社の意識の変化に大きく影響しています。

たとえば、平成11年7月には、天皇陛下がお見えになりました。1つの町工場でいましたら、なかなかこのような機会に遭遇することはなかったと思います。他にも、独立行政法人消防研究所から「選択性のあるセンサーはないか」との問い合わせがあり、新宿火災のモデル用のサンプルとして使用していただく話もありました。これも紹介によるものでした。やはり、今の時代、1人の力でやっていくのは難しいと思います。ですから、政府からの補助金も恥じることなく利用しても良いと思います。今まで系列会社の中でぬくぬく育ってきたのですから、今度はさまざまな政策行政の中でお世話になりながら、堂々と助けて欲しい、と頼って良いのではないかと思うのです。そのあと1つの形になったら、将来税金等で返せればよいのではないでしょうか?

異業種間の交流から異業種の融合へ

今後、生きていくためにはどんな小さな零細企業であろうが、自社製品の保有が重要になってきます。選択をしていた時代は終わり、今は決定の時代だと思います。決定を行っていかなければ、精神的にも持ちませんし、周りにもインパクトを与えられません。卓越した技術には、いろいろな意味があります。自分が卓越していると思っても相手が認めてくれないと駄目ですから、自分が持っている技術を信頼関係の上で融合をしていくことが大切です。今後は、異業種間の交流ではなく、異業種の融合が必要となっていくでしょう。これを行うには相当の時間とお金が必要です。しかし、時間とお金がないからと諦めてしまったら、モノづくりは終わってしまいます。諦めることだけはしたくないという思いから、東葛テクノプラザの方々と花見月の会(※2)を作りました。その会では各会社の社長が集まり、今現在の仕事の状況などを話し合います。ある会社の社長からは「機械を作って海外で売れば、真似されてコピー商品を販売されてしまう。そうならないために、自分の所で製品を作って加工をしたいのだが」というお話が出ました。そこで、彼の機械と私の金型屋の技術で協力してやってみようということになり、3日程度で話がまとまりました。これが東葛テクノプラザの使い方、信頼関係、持っている技術の融合だろうと思います。花見月の会は最初の頃、会議の夕方版という意味合いで、毎日のように行っていました。最近は参加者も60人を越え、1カ月に1回程度集まっています。この会には議題もありませんし、挨拶演説等もいただきません。先日は、花見月の会に堂本知事と本多市長がお見えになりました。知事は大家さん、市長は地主ということで、会が始まって以来初めて挨拶をいただきましたが、その挨拶以外のときには座敷でそれぞれ雑談をされていました。そのような雑談の中からいろいろな形が見えてくるのではと思っています。

現在、品質が落ちない(変質しない)冷凍庫の開発等、東葛テクノプラザから少しずつですが、さまざまな分野でのテクノロジーが生まれてきています。普通の町工場のままでいたら、門をくぐることさえないと思われた東京大学物性研究所との共同研究も行っています。花見月の会で家教授とお会いしたときに、一酸化炭素に反応するセンサーについて「うち(坂口技研)では現象をとらえることはできても、原理がわからないのです」とお話すると、「原理をやるのはうち(大学)のほうの仕事だから、やりますよ」といってくださいました。これが東京大学の物性研究所との付き合いの始まりでした。先生方が興味を惹いたものについては、進んでやってくださいます。わからないことがあるときには、東大であろうが県の施設であろうが、進んで協力してくださいます。このことを、自分が今までお世話になったお礼として、世間に広めて行かなくてはいけないと思っています。

今までの33年間、右肩上がりでやってきましたが、ここにきて将来を目指したとき、叩きのめされました。残念ながら、これからは意地をはろうが、どんな技術があろうが、皆さんにお助けいただいて、行政という大きなものの中で、頑張っていくしかありません。今、自力で中国に行ける人はいいと思います。しかし、取り残された人達は、行政を頼りにして行くべきですし、私も恩恵に預かりながら、頑張っていきたいと考えております。ご静聴ありがとうございました。

(※1)東葛テクノプラザ:千葉県の産業支援施設。柏市所在。平成10年11月にオープン。現在入居企業数:35社、大学:10校。5人の民間のコーディネーターが駐在し、大学等と中小企業との技術の橋渡しを行う。年間20件ほどの共同研究が開始されている。国と県等の補助金によって賄われ、運営は財団法人で行う

(※2)花見月の会:坂口社長主催の地元経済会の方60~70人を中心に開催している会

質疑応答

Q:

平成11年に工業技術院部室工学工業技術研究所との共同研究開始、13年には東大の物性研究所との産学官の研究開始等をされておられますが、具体的には研究の分担はどのようなやりかたで行われているのでしょうか?

A:

たとえば、触媒の原理原則の解明は、東京大学の家教授のグループと我々のメカニックとで行うことができました。その触媒表面の物質の変化については、我々では機材的にもレベル的にもそこまでは分析はできません。しかし、将来の量産を考えたときに、そこを解明しておかないと不都合なため、家教授にお願いして触媒専門の先生に機材を揃えて分析を行っていただくことになりました。今は評価テスト中です。実験のための実験ではなく、製品を世の中に出すためのサポートとして、大変親身になって協力してくださっています。その結果、製品に対して、量産に対して自信が出てきました。

Q:

売り上げとして立つ自社製品を持つことがポイントだとおっしゃっていましたが、下請け型企業から自社製品を持つ企業への変換を行うにあたり、従業員全般の技術力向上等をどのように行い、どのように産業事業の転換をなさってこられたのですか? また、それらの要因は何だったのでしょうか?

A:

産業事業の転換ができたことについての要因は、弊社にはすでに金型を作る基礎技術があり、元々自社製品を作るだけの技術があったということです。そして、私という会社のトップがいい出したことが大きいと思います。町工場においては、そのトップがやるのだという信念を持ち、やりたいとうことが大切です。トップがいい出さないとその信念が揺らいでしまいます。モノを1つ作るのにもいちいち伺いを立てているようでは、よいモノは作れませんし、開発はできません。開発を行ったあとには、そのモノをお金に換えて行かなくてはなりません。ここまでモノが充満していたら、作っても簡単には売れません。もし、支援策があるならば、本当に使えるモノを開発したときに、開発した意義を持たせる門戸を開いて欲しいと思います。

Q:

今日の話は大変参考になりました。日本の事業が変わろうとしている中で、新しい事業を起こすためにはいろいろなサポートが必要とおっしゃいましたが、このサポートをいつまでも続けていくわけにはいかないと思います。将来その企業が支援なしでも、中国とかに対抗していけると思われますか? そして、そう思うポイントは何でしょうか? 産学連携のお話についてですが、我々の想像では大学の先生は論文を出すことや基礎研究に集中されているというイメージがありまして、応用研究に力を貸してくれる方がどのくらいいるのかわかりませんが、そのあたりをどのように思われてますでしょうか? 開発された製品に関しての特許問題というのはどのようになっているのでしょうか?

A:

我々は、金型業は忙しいと量産で忙しく、生産がないと開発に忙しいという認識をしています。その中で、ひとつのサイクルは5年だと思います。開発も普通は5年だと思います。5年のサイクルで支援をしていただければよいでしょう。できれば補助金制度ではなく5年をめどにした融資制度に変更して欲しいと思います。認定は厳しくてもよいと思いますが、金利を1%程度にしていただきたいです。そのサイクルで融資制度をしていただけると、余裕をもって着実に取り組めます。大学についてですが、産学連携が浸透してきていますし、ある先生は論文先生ですが、ある先生は独立法人化を踏まえて何かをしなくてはと思っているようです。筑波の例を見ているため、法人化を意識して、民間と交わることを斡旋してやってきていると思います。製品開発の特許については、論文ありきという考えもありますし、民間会社のためにという意識があるので、特許をくれという話はありません。

Q:

先日、新聞に金型業界の話が出ていました。メーカーから注文があり納入すると、データを出して欲しいという依頼があり、データを渡すと、そのデータを海外(中国)等に持ち出してしまうということでしたが、これは本当にあるお話なのでしょうか? マーケットが大きくないので、開発を続けていくのは大変だと思いますが、開発を続けていくことで、将来これらの企業の展望は開けていくのでしょうか?

A:

金型のパテントはありません。もともと金型は器用な人が作るものですから、図面やデータ等を出さなくても、作った人間がそのままデータを持っていってしまうことの方が問題だと思います。今はリストラされた人が国内に留まらずに中国等に流出してしまっています。ですから、私は技術の流出ではなく、人の流出が問題だと思います。世間では中国にメンテナンス会社を作るという話も上がっています。メンテナンスというのは技術がわからないとできませんから、これは大変なことです。
会社の展望についてですが、これまでとはスタイルを変え、食える分際のものを作っていけば良いと思います。粒が少しずつまとまればその中から何かが生まれ、これが融合の本管となっていくでしょう。

Q:

坂口社長は行政のいろいろな制度を利用していらっしゃいますが、受けられる立場からみると、国と県とがどのように分業されているのが、制度のあり方としてよいでしょうか?

A:

今の申請だと別々の申請をやらなくてはいけないので、1箇所で全てがすむのが一番良いですね。税金ですから、出所は一緒だと思いますが、これは県、これは市、これは国ではなく、全体の中で仕事をしているというのがいいでしょう。一番問題になってくるのは、事業のヒアリングをする場合です。東葛テクノプラザでは、コーディネータを入れて欲しいと頼み、コーディネータが色々なことを一括して行ってくれるので助かっています。

Q:

お話を伺っていて、柏市の方はすばらしく立派だなあと思いました。普通はお役人に頼みたいと思うと頼みにくいといったこともあるのではないかと思いますが、現在ある信頼感をお作りになっていった過程というのはどのような感じだったのかご紹介いただけないでしょうか?

A:

市が行政ではなく、同じ柏市に住んでいることや地域的な特色もありやりやすいのかもしれませんが、それよりも行政側が何とかしようという意識があることが大きいと思います。たとえば、申請書についても、何をやるのかということについて、行政の方から執拗に聞かれますし、彼らは現場にも何回も来ます。しかし、一旦承認をすると、我々の不得手なことは全てやってくれるわけです。僕は、お願いできるのであれば、せめて5年は担当者を変えないで欲しいと思います。5年というスパンで最初から関わっていないとわからないと思います。

Q:

先ほどおっしゃったように、市がコンサルテーションをやってくれるのは素晴らしいと思います。たとえば、中小企業創造活動促進法、中小企業経営革新支援法等がありますが、このようなことに関しては、どのような使い勝手があるのでしょうか?

A:

申請そのものは複雑で大変でした。どのようなことがあっても、コミュニケーションにつきるのではないかと感じました。

Q:

その2つの法の認定を受け、具体的によかったということはあるのでしょうか?

A:

金融機関への対応に関してはよかったと思います。残念ながら、今は金融機関から新しい融資を受けるときには、担保と実績しか認めてもらえない時代です。しかし、事業がこのような機関でこういう認定をされているということの積み上げが、金融に対しての担保になっていくことは間違いがありません。このような行政との関わりが、融資への効果になると思います。私のような実例があるからこそ、私は仲間にも勧めています。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。