政策シンポジウム他

インターネット時代の著作権

イベント概要

  • 日時:2003年4月21日(月)13:00~17:00
  • 会場:RIETIセミナールーム(経済産業省別館11階)
  • 開催言語:第1セッション 英語&日本語(日英同時通訳あり)
    第2セッション 日本語(同時通訳なし)
  • 主催:RIETI(経済産業研究所)
  • 講演内容

    自由なソフトウェアの未来

    今日は、フリーソフト、そしてその倫理的・社会的・政治的な重要性について、またその経済的帰結についてお話ししたいと思います。

    フリーソフト議論は自由に関わる問題です。"Free"という言葉は、英語では二つの意味を持つので、わかりにくいのですが、幸運なことに、日本語では言葉を使い分けるので、意味の違いがわかるようになっています。つまり、日本語で"JiyuuNa Sofuto"と言えば、これは価格の問題ではなく、自由(Freedom)について語っていることがすぐに分かります。

    ですから私は、みなさんにわかりにくい「フリーソフト」ではなく、日本語の明瞭な意味の「自由なソフトウェア」という言葉を使っていただきたいと思います。

    自由なソフトウェア(※以下、「フリーソフトウェア」は「自由なソフトウェア」と訳出した)という言葉を使う理由は非常に単純です。自由な世界に生きるため、特に、他の人を公平に扱う自由のためです。自由でないソフトウェアは、あなたを無力な分裂状態に追いやります。つまり、そのプログラムが何を実行しているのかさえ知らされぬまま、開発者の言葉に従わざるをえないのです。また、そのソフトウェアが気に入らない場合でも、ソフトウェアを変更することはできません。プログラムを利便性のあるものにすべく、開発者がどんなに努力をしても、完璧ということはあり得ません。私にプログラムを書くことはできても、あなたの望むようなプログラムではないかもしれないのです。それは、私がそのプログラムを書いた目的とあなたがそのプログラムを利用する目的が必ずしも同じではないからです。万能なプログラムなどあり得ないのです。これは最高のプログラムだと思って書いたとしても、あなたのほうが良いアイデアを持っているかもしれない。自分だけが絶対に正しいということはないのです。

    自由でないソフトウェアを使っていると、行き詰まってしまいます。自由でないが故に苦しまなければなりません。そして、これが最も重要なことですが、自由でないソフトウェア故に、あなたは他の人とソフトウェアを(※ソースコードレベルで)共有することができません。この社会は、助け合いに依存しています。あなたが困ったときに助けてくれる人が身近にいれば安心です。もちろん、他の人を助けろと強制することはできませんが、友人だったら、しばしば助けてくれることがあるでしょう。もちろん、自分が困ったときに助けてもらいたいなら、助けた方がいいことは言うまでもありません。

    では、「他の人を助けてはいけない」と言われたらどうでしょう。ここにある有益な知識があるとします。その知識を共有することで、あなたの隣人を助けられるかもしれないのに、その共有を禁じられているような場合です。これは社会契約への攻撃であり、社会を互いに助け合えない個々人に分解するようなものです。

    これとは対照的に、自由なソフトウェアは、4つ(のレベル)の本質的な 自由を持っていることを意味しています。

    ■自由レベルゼロは、目的を問わず、好きなやり方でプログラムを実行する自由です。

    ■自由レベル1は、プログラムがどのように動作するかソースコードを研究し、あなたの必要に応じてプログラムを修正する自由です。

    ■自由レベル2は、コピーを頒布し隣人を助ける自由です。

    ■自由レベル3は、(その(自由な)ソフトウェアの)プログラムを改良し、コミュニティ全体がその恩恵を受けられるように、これを公衆に発表する自由です。

    このような自由により、ユーザーは、使用するソフトウェアをコントロールできます。
    このような自由が欠如すると、ソフトウェアの所有者がソフトウェアをコントロールし、そればかりか、ユーザーをもコントロール下においてしまうことになります。

    我々は、コンピュータはそれ自身、意思決定ができないことを知っています。彼らは、それを扱う人間から命令されたことを行うのです。しかし、誰がその命令を行うのでしょうか。あなたがコンピュータを使っているとき、コンピュータに命令するのはあなたですか。それとも誰か他に、命令している人がいるのでしょうか。いったい誰があなたのコンピュータを(真に)コントロールしているのでしょうか。これこそが、フリーソフトウェアの問題なのです。自由なソフトウェアの定義に係る自由レベルゼロ、1、2、3という4つの自由が重要なのは、それが、市民が自分のコンピュータをコントロールする上で必要な自由だからです。自由レベルゼロは、あなたがコンピュータでやりたい仕事を実行するために必要です。自由レベル1は、あなたがソフトウェアにさせたい仕事をさせる際に必要です。この自由がなければ、あなたは行き詰まり、(自由でない)ソフトウェアの奴隷になってしまうのです。

    しかし、全ての人がプログラマーではありません。もし、我々に自由レベルゼロしかなかったとしても、プログラマーは、ソフトウェアをやりたいように改変できたでしょう。ただし、それぞれのプログラマーが個人的にソフトウェアを改変しなければならないのであれば、真にコンピュータをコントロールしているとはいえません。個々人でできることには限界があるのです。そして、プログラマーではない人は、まったく恩恵を享受できません。自由レベル2と3が非常に重要であるというのはそういうことなのです。自由レベル2と3は、ユーザーが協働して自分たちが望むソフトウェアを作っていくことを認めています。したがって、ソフトウェアを、それぞれ個人的に変更することに限らず、(例えば)あなたと同じ目的を持つ50人の人々がいるとすれば、みんなでグループを作ることが可能なのです。その中で2、3人がプログラマーであれば、彼らが必要な改変を施せるでしょうし、改良されたバージョンをグループの他の仲間に配布することができます。もちろん、あなたが望む変更に対する対価をプログラマに払っても構いません。あなたの会社が同じ事(その会社が望む変更を、自由なソフトウェアのグループに所属するプログラマーにしてもらい、対価を支払うこと)をしても構いません。もちろん、改良されたバージョンを公表すれば、誰でも使える状況になります。こうして、社会の全ての人々が、そのソフトウェアに対してのコントロールを確立するのです。

    自由なソフトウェア(の考え方)は、ソフトウェアの開発を巡る意思決定のための民主主義的な方法です。しかし、選挙を行うわけではなく、それ自体誰が何をすべきか命令するわけでもないので、ちょっと変わった形の民主主義といえます。自由なソフトウェアのコミュニティでは、誰に何かを指図されるということはありません。誰もが自分で意思決定できるのです。もし、多数の人々がある方向でソフトウェアを改良しようとしていたら、多くの人が携わるので非常に早く改良が行われます。しかし、その方向での改良を望む人が少数である場合は、携わる人も少数なので、必ずしも早く改良されるとは限りません。誰も(そのような方向に)改良を望まない場合は、改良はあり得ないでしょう。我々個人個人がどうしたいのかをはっきりさせることが、これからのコミュニティのあり方、そしてソフトウェアの改良される方向性の決定に寄与することになるのです。

    そうすれば、社会が一丸となって、ソフトウェアの全体的な発展に関する問題をコントロールすることになります。しかし、それは、集団的に意思を全員に強制するということではなく、あなた個人、またはグループや会社として、ソフトウェアをどのように開発していくかを決めることができるということです。その結果、自由なソフトウェアは、開発者ではなく、ユーザーの望むことを実行するようになるということなのです。

    例えば、「誰もがソフトウェアを自由に改変できたならば、互換性はどうなるのですか」という質問がよくあります。この質問からわかることは、ユーザーは互換性を求めているということです。しかしながら、そうとばかりも言えない場合があります。時折、他の便益のために、(確信犯的に)互換性を捨て去る改良を施す例もあります。しかし、ほとんどのユーザーは互換性を欲しているのです。そういうわけで、ほとんどの自由なソフトウェアは、互換性に非常に留意して開発されています。私が互換性をなくしてしまう改良を自分のプログラムに施して、ユーザーがそれを嫌ったとしたらどうでしょう。何人かのユーザーは、プログラムを修正して互換性を保つように改良し、そちらのバージョンが全体として支持されるようになるでしょう。そして、彼のバージョンが評判になり、私のバージョンは忘れ去られるというわけです。もちろん、そうなって欲しくはありません。人々に(私のソフトウェアを)気に入って使って欲しいと思っているので、最初から互換性が確保されるソフトウェアを作成するようになるでしょう。私たちのコミュニティでは、開発者はユーザーのニーズに抵抗することはできません。我々はユーザーの求める方向に共に歩んでいくしかないのです。

    しかし、強大な力をもって非互換性を強制する、自由でないソフトウェアを開発する人々を見れば、その権力があまりに強力なので、ユーザーにはなすすべもないことが分かるはずです。マイクロソフトはこのような手法で有名ですね。彼らは、(ネットワークの)プロトコルにおいて非互換な変更を施すので、ユーザーは困ってしまいます。でも、これはマイクロソフトだけの問題ではありません。例えば、WAPプロトコル(※注1:GSM/CDMA方式の携帯電話でインターネットコンテンツを見られるようにする規格)を例に取りましょう。これは、通常のインターネット・プロトコル(TCP/IP)に、非互換になるような改造を加えたものです。この改造の背景にはWAPプロトコルを使う携帯電話をインターネットに接続できるようにするという考えがあります。しかし、WAPが通常のインターネット・プロトコルを採用しなかったことで、ユーザーが非互換の不自由を背負わされることになったのです。これは、(WAPプロトコル開発者達にとって)織り込み済みのことでした。ただし、幸運にもWAPプロトコルは(市場的に)あまり上手く行きませんでした(笑)。しかし、これは、ユーザーがコンピュータを本当に支配していない場合に直面する危険の典型であり、非互換を用いたこのような企みを行う者はこれからも出てくるでしょう。

    このように自由なソフトウェアは基本的に、政治的、倫理的、社会的な問題なのです。これまで、それらのレベルについて説明してきました。それに加えて、自由なソフトウェアは経済的な帰結も持ち合わせています。例えば、自由でないソフトウェアは、富の集約をもたらします。極端に富裕な企業の少数の人々が世界中の人々から金を集める一方で、その他の人々は収奪されるというような状況です。たぶん、日本はそうではないと思いますが、コンピュータを持つ余裕はあっても、自由でないソフトウェアの代価を支払う余裕のないような国々があります。そのような国々では、自由でないソフトウェアは、とてつもなく強力な収奪システムとして機能します。どのような国にあっても、大多数の人々から搾り取られた金は、自由でないソフトウェアによって富裕になろうとする一部の人々に集中するのです。自由なソフトウェアの下では、そのような企みはできません。他の人から多額の金を搾り取ることは不可能です。しかし、他の人々に真のサービスを提供し続ける限り、彼らとのビジネスは進めることができます。

    自由なソフトウェアによるビジネスは既に立ち上がっています。実際、私が自由なソフトウェアによるビジネスを始めたのは1985年のことでした。“GNU/Emacs”エディタのコピーを販売していたのです。私は、自由なソフトウェアで収益を得る道を模索していました。「$150払ってくれれば、“GNU/Emacs”エディタのコピーを納めた磁気テープを送付します」と言うと、人々がお金を払ってくれるようになりました。私は、せっせと“GNU/Emacs”入りのテープを送り、生活していくのに十分な資金を得たのです。その後、FSF(Free SoftwareFoundation:(フリーソフトウェア財団))を設立することになったので、この商売は止めました。それに、FSFが“GNU/Emacs”を配布し始めたので、商売をしなくても十分ニーズには応えられると判断したのです。FSFと競合したくありませんでしたから、私は別のやり方を見つける必要に迫られました。FSFは、数年の間はこのビジネスで十分な収益を上げ、プログラマーをはじめ、社員に給与を支払っていました。実際のところ、 (“GNU/Emacs”のような)自由なソフトウェアを自分で売っていれば、それで十分裕福に暮らしていけたと思います。

    その後、私は、手数料を変更するという形で、別の自由なソフトウェアによるビジネスを始めました。

    自由でないソフトウェアでは、ソフトウェアを変更することはできません。それはソフトウェアの奴隷とも呼べる状態です。そのままの状態で使い続けるか、まったく使わないかのどちらかの選択肢しかないのです。自由なソフトウェアにおいても、(改変しないか、使わないか)という2つの選択肢があります。しかしそれに加えて、実際に自由なソフトウェアでは、たくさんの異なった選択肢があるのです。あなたはその規模の大小にかかわらず、プログラムに変更を加え、改良バージョンを使用することができます。

    いま、もしあなたがプログラマーだとしたら、あなたは自分で変更を加えられるでしょう。プログラマーではないとしても、プログラマーにお金を支払って、変更を加えてもらえばいいのです。例えば、経済産業省が使用している、あるプログラムが所定の性能を発揮していないと判断されたら、プログラマーにいくらかのお金を支払って、(そのソフトウェアを自由なソフトウェアとして配布して)本当に望むレベルのプログラムに改良してもらえばよいのです。これは1980年代の数年間に私がやってきた、ある種の自由なソフトウェアを用いたビジネスの形です。私は、それをやり続けても良かったのですが、大きな賞をもらったこともあり、それ以上続ける必要がなくなりました。

    最近では、このようなやり方で多くの人々が生計を立てています。最近私が聞いた話ですが、南米では30人ほどの人々が、このやり方で生計を立てているそうです。南米は、世界レベルから見ると、必ずしも技術的に最先端の地域とはいえませんが、そのようなビジネスは既に始まっているのです。1989年か1990年だったと思いますが、このような形のビジネスがある会社で開始されたのですが、その会社は、たった3名で立ち上げられました。数年で、50名の会社に成長し、毎年利益を上げていました。そのままのペースでも十分やっていけたのですが、欲が出てきた彼らは、自由でないソフトウェアを開発するようになりました。その後、この会社は、RedHat社に買収されました。

    いずれにしても、自由なソフトウェアによるビジネスは、プロプライエタリ(※注2:所有権の存在する=一般のソースコードを公開せず、再配布も禁じる形の商用ソフトを指す)なソフトウェアの世界には存在しない、新しいビジネスの方法です。ですから、自由なソフトウェアの雇用に対する影響については驚く人もいます。すべてのコンピュータが自由である状況を仮定してみてください。それゆえに、すべてのソフトウェアが自由な状況も仮定してみてください。この状況は、言い換えれば、もしあなたがプログラムを持っていれば、実行することも、研究することも、変更することも再配布することも自由にできるということです。このことは、IT分野における雇用に何をもたらすのでしょうか。

    この分野での雇用は、プログラミング作業のほんのわずかな部門に限られています。そして、ほとんどのプログラミング作業は、カスタム・ソフトウェア(ある顧客のために特別に書かれたソフトウェア)です。これは、クライアントがソースコードを入手してその代価を払ったのであれば、十分なソフトウェアのコントロール権を得る限りにおいて、合法的です。実際、それはクライアント用の自由なソフトウェアなのです(したがって、クライアント専用ではないプログラミング作業は「自由でない」ということになります)。

    ですから、プログラミング作業は、ほとんどカスタム・ソフトウェアで占められており、一般に販売されるソフトウェアは、全体から見ると小さな小さな部分にすぎないのです。

    それでは、自由なソフトウェアは何をもたらすのでしょうか。自由なソフトウェアにより、雇用のごく一部分(プログラミング作業の小さな部分)がなくなるかもしれませんが、それで全体が危機に陥いるわけではありません。ユーザー制限により、これらのプログラマーにお金が渡る可能性がなくなるかもしれませんが、そこには自由なソフトウェアの改良と拡張により報酬を得るという新しい可能性があります。それでは、自由なソフトウェアは雇用を減少させるのでしょうか、それとも創出するのでしょうか。それは誰にも分かりませんし、それに答えるのは不可能です。私たちの知る限りでは、IT分野における雇用の減少は、全体から見れば、一般に販売されるソフトウェアに関連する、ごくごく小さな部分にすぎないということです。残りの部分は、現状を維持するでしょう。したがって、雇用に関しては何の問題もないことは明らかです。

    その他に、私たちは(コンピュータを利用するのに)十分なソフトウェアを開発し、それを自由にできるかという問題提起もあります。これに対しての解答は明快です。我々は既にそうしています。そのような質問をする人たちは、「飛行機は本当に飛べるんですか」と訊いているようなものです。私は、そのような飛行機でここに飛んできたのですから。たぶん、ここにいらっしゃる方たちのすべてが同じように飛行機に乗ったことがあるでしょう。私は、飛行機というのは飛べるから飛行機というのだと思います。今日の自由なソフトウェアの世界では、自由なソフトウェアの開発で報酬を得ている人が何百人、いやおそらく何千人といます。しかし、パートタイムで、しかも無償で、数々のソフトウェアを開発しているボランティアの開発者の数は、おそらく50万人を超えるでしょう。

    ですから、実は、自由なソフトウェアによるビジネスは、自由なソフトウェアが成立するために必要というわけではないのです。自由なソフトウェアによるビジネスは非常に望ましいものです。私たちが自由なソフトウェアの開発者たちにユーザーからの資金が還流するような組織を作り上げていけば行くほど、よりたくさんの自由なソフトウェアを作り出すことができますし、その質もまた向上していくのです。ですから、自由なソフトウェアによるビジネスは、確かに望ましいことは望ましいのですが、それが決定的なものではないのです。我々は、既に2種類の完全なオペレーティングシステム、2種類のGUIデスクトップ環境、2種類のオフィス・スイートソフトウェアを自由なソフトウェアとして開発してきました。

    人々(ユーザー)は実のところ、自由なソフトウェアに金銭的サポートを行う機会を創造しようとしているのです。あなたが期待しているように、それが機能する場合もあれば、機能しない場合もあるでしょう。例えば、昨年の夏の話ですが、ユーザーにとても人気があったものの、自由でないソフトウェアがありました。“Blender”というものですが、このソフトウェアを開発して売っていた会社がサポートを止め、製品としてもう売らないという決断、つまり製品の廃盤を決めたのです。しかし、“Blender”好きな開発者たちはそれを望まず、開発元の会社と交渉を行いました。版権買い取りに必要な値段は10万ドルで、これを用意すれば、自由なソフトウェアとして公開できるというわけです。そこで彼らはコミュニティに呼びかけ、数週間のうちに10万ドルを集めたのです。“Blender”は現在、自由なソフトウェアとなっています。このケースが示唆するのは、もしソフトウェアに対して特定の拡張が必要となった場合、コミュニティから同じような方法で資金調達が可能であるということです。

    ある有名な、その技術において尊敬を集めるプログラマーがコミュニティに対し、「もし、これだけの金額をコミュニティで集めることができれば、私はこの仕事をする」と宣言したとします。このような場合、彼は自分一人で働く必要はないのです。彼は、共に働くプログラマーを雇うこともできます。これが、あなたが(コミュニティとの協働を)始めるきっかけになるのです。もし、あなたが有名でなく、コミュニティにおいて自分自身の名声を確立してもいない場合は、他のプログラマーたちの補助として働くことができます。彼らが資金を調達し、仕事全体を監督します。このようなプロジェクトに参加することで、コミュニティにおけるあなた自身の名声を高めることにもなり、いずれは単独で、顧客を得ることもできるようになるのです。

    もちろん、国民の役に立つための科学研究に対しての助成金や人間本来の好奇心を満たすため(明らかに国民のため、つまり公益のためであるもの)の助成金と同様、便利なソフトウェアの開発を助成するのは、政府の正当な役割です。そして、その役目を果たしたら、そのソフトウェアを公開し、配布して「誰でもこのソフトウェアを自由に使い、改良して構わない。これは人間の知識なのだ」と宣言するのです。自由なソフトウェアの本質的な意味はそこにあるのです。自由なソフトウェアは、すべての人間の知識なのです。一方、自由でないソフトウェアは知識を制限します。知識は少数の人々に独占され、他の人々はそれらへのアクセスを許されません。ソフトウェアを使う場合も、黙従して使っているにすぎません。彼らは、決して知識を得ることはないのです。

    このような理由で、学校が自由なソフトウェアを使用することは重要です。学校が全面的に自由なソフトウェアを用いるべき理由は3つあります。まず、最も皮相な理由として挙げられるのは、学校財政の節約です。先進国でさえも、学校の予算が十分なことはほとんどなく、学校でのコンピュータの活用はあまり進んでいないのが現状です。すべての学校が自由なソフトウェアを使用すれば、それらのソフトウェアを多数のコンピュータにインストールできるようにコピーを再配布することができ、しかも、ソフトウェア使用に代価を支払わなくても良い自由が与えられます。更に、“GNU/Linux”オペレーティングシステムはWindowsよりも効率的に動作しますから、多少古く、パワーがない安いモデルのコンピュータでも使えます。たぶん、誰かの中古のコンピュータでも問題なく使え、また違った面で、学校の財政の節約になるでしょう。しかし、これは明白な利点ではありますが、皮相的なものにすぎません。

    学校における自由なソフトウェアの利用において、もっと重要なのは学習上の理由です。ご存じの通り、十代の生徒の中には、コンピュータシステムの中身をすべて知ろうとする者が何人かはいるものです。そういう生徒は良いプログラマーの予備軍です。もし、しっかりしたプログラミング能力を身につけたければ、大きなチームの一員として機械的に学ぶのではなく、イニシアティブをとって、強力で、凄いプログラムを作るという、大胆なことに挑戦した方がよいでしょう。子どもたちがそのような衝動を持っている場合、教師はそれを励まし促す必要があります。ですから、このような学習を推進する社会的な環境、施設を提供することは、教育にとってとても重要なのです。

    このような学習を推進するには、学校が自由なソフトウェアを採用するべきです。そして、子どもたちが「コンピュータはどうやって動いているの」と疑問を持ち始めたら、教師は、「これはFoo bar(※注3:コンピュータプログラム上で「○×」のような、何らかの例をあげる際に使われる言葉)というプログラムで動いているんだ」と言えばいいのです。更に、そのプログラムのソースコードを見せても良いでしょう。「さあ、それを呼んで解読して、どうやって動いているか自分で考えてみなさい」と言うわけです。子どもたちが「僕はこのプログラムをもっと良くするアイデアがあるんだけど」と言ったら、教師は、「じゃあどんどんやってみなさい。プログラムを書いてみなさい。そのプログラムを変更してみるんだ」と言えば良いのです。

    良い書き手になるには、たくさん読んでたくさん書いてみることが必要です。それは、ソフトウェアを書くときも同じです。たくさんのソフトウェアのコードを読み、たくさんのコードを書いてみる。大きなプログラムを理解するためには、大きなプログラムと格闘しなければなりません。しかし、それをどう始めればよいでしょう。はじめから大きなソフトウェアをいきなり書くことはできません。ノウハウが分からないからです。それではどうやってそれを学べばよいのでしょうか。答えは、既存の大きなプログラムを読み、それに小さな変更を加えてみることから始めればよいのです。この段階では、あなたは自分で大きなプログラムを書くことはできませんが、小さい変更を加えて改良することはできるはずです。

    こうやって、私は良いプログラマーになる方法を学んだのです。私はMITで思いがけない機会に恵まれました。MITには、彼ら自身が書いたオペレーティングシステムの研究室があり、そこでは実際にそのオペレーティングシステムを使っていたのです。私がそこに行ったところ、彼らは「あなたを雇いたいのだが」と言ってくれたのです。彼らは、そのオペレーティングシステム上のプログラムを改良するために私を雇ったのです。私が大学2年生の時でした。その時、私はオペレーティングシステムを自分で書く能力はありませんでした。しかし、ゼロから書く力はなくても、それらのプログラムを読み、新たな機能を付け加えたりすることはできました。そのようなことを繰り返して、私はプログラミングの腕を磨いていったのです。1970年代に、そのような体験ができる機会が得られるのは、(MITのような)特別な場所に限られていました。しかし現在では、そのような機会は誰にでもあります。PC上で走る“GNU/Linu”システムとソースコードがあればいいのです。ですから、コンピュータに魅力を感じ、将来良いプログラマーになる人材である日本の十代の若者たちを励ましてあげてください。

    私には1980年頃に高校教師になった友人がいますが、彼は、高校レベルにおいて、全米で最初にUNIXマシンを組み上げた人物です。彼は、高校の生徒達をしっかりと教育し、良いプログラマーに育てました。その教え子の中には、高校を卒業するまでに既に良いプログラマーとして名声を得ている者もいました。どの高校にも、素晴らしい才能があり、それを伸ばしたいと思っている子どもたちが確かにいるのです。彼らは「機会」を求めているのです。そういうわけで、このような人材育成の機会という面からも、学校は、もっぱら自由なソフトウェアを使用すべきなのです。

    3つ目の理由はより根本的なものです。私たちは、学校に真実を教え、生徒に技術を身につけさせるだけでなく、道徳観念―つまり、いつでも他の人を助ける用意があるということ―を身につけさせることも求めています。つまり、学校は、子どもたちに「ここにあるどんなソフトウェアもコピーしていいんですよ。コピーして家に持って帰りなさい。ソフトウェアがここにあるのはそのためです。ソフトウェアを学校に持ってくるのだったら、友達と共有しなさい。もし共有したくないなら、学校には持ってこないでください。学校は、互いに助け合うことを学ぶ場所です。そのようなソフトウェアは必要ありません」と言わなければなりません。道徳心を育成する教育も、社会にとって重要なのです。

    「自由なソフトウェア」の基本概念を発明したのは私ではありません。自由なソフトウェアという概念は、2台の同じ種類のコンピュータがあり、ある人がそのコンピュータの一方を使って何かソフトウェアを書いている時に、もう片方のコンピュータを使う人が「この問題を解決したいんだけど何かいい方法はないか」と尋ね、尋ねられた側が、「その問題の解決方法だったら考えたよ。これがコピーだ」と言った瞬間に生まれました。そして、彼らは互いに書いていたソフトウェアを交換するようになり、さらに開発が進むようになりました。しかし1960年代には、そのような習慣は自由でないソフトウェアに取って代わられる傾向にありました。ユーザーを征服し、ユーザーから自由を奪い去る傾向です。

    私が大学1年目の時、道徳的規範ともいうべき事件に遭遇しました。私は、MITのコンピュータ施設を使っていましたが、その施設の人々は「ここは教育機関で、我々はコンピュータ工学を学ぶためにここにいるのだから、ルールを作ろうではないか。ここのシステムにインストールされるソフトウェアについては、ソースコードを表示しよう。そうすれば、そのソースコードを見て、ソフトウェアがどのように動作するのか研究できるだろう」と言ったのです。その後、コンピュータ施設の職員の1人があるユーティリティソフトウェアを作り、自由でないソフトウェアとして販売を始めました。私のやり方とは違う方法で販売したわけです。彼はユーザーに制限をかけたのです。ところが、彼は、MITに対しては料金を徴収しないことにしました。この申し出に対し、コンピュータ施設の責任者は、「いや、ここのルールではソースコードは表示することになっているので、君のソフトウェアはインストールできない。もし君がソースコードの表示を許さないのなら、我々は君のプログラムを走らせるわけにはいかない」と言ったのです。この例は、私に(自由なソフトウェアについての)ひらめきを与えました。実質的な利便性を放棄してでも、「教育」という学校の使命にはもっと重要なものがある、ということです。

    私が働いていたMITの研究室は、1970年代当時としては、自由なソフトウェアによるオペレーティングシステムを持っているという点で例外的な存在でした。ほとんどのコンピュータは、当時、自由でないソフトウェアをオペレーティングシステムとして使っていました。しかし、私はMITで遭遇した知識を独り占めするのではなく、他に伝え共有するというスタイルに影響を受けて、そのやり方で生きていく術を学んだのです。1980年代初頭に、そのコミュニティは死に絶えましたが、それと前後して、私は自由なソフトウェア運動(フリーソフト運動)を始めました。私が自由なソフトウェアを始めたわけではありません。私は、MITの研究室にいた人々が実践していた自由なソフトウェアという生き方を、その研究室の一員として学んだだけなのです。私は、その生き方を倫理的・社会的な運動として組織したのでした。言ってみれば、良い社会か醜い社会かの選択、自由のある、公正な、親切で助け合いに溢れた生き方をするか、分断された帝国による支配の中で、自由を諦める以外選択肢のない束縛の中で生きるかという選択の問題なのです。

    理論的に言えば、「誰も、あなたに自由でないソフトウェア、例えばマイクロソフト社の“Word”を使うように強制はしていませんよ」という人がいる一方で、「私には他に選択肢がない」という人もいます。ですから、実際のところ、それは個人的な選択という状況ではないのです。確かに、あなたが自由であろうと決定することも、それを拒絶することもできます。しかし、それにはたくさんの決断を迫られます。20年前、(フリーソフト運動を)始めた頃は、コンピュータを自由でないソフトウェア以外で動かすというのはとてつもなく大変なことでした。1983年当時の最新式のコンピュータは、すべてプロプライエタリなオペレーティングシステムで動いていました。その頃は、自由でないソフトウェアなくしてコンピュータは動かせなかったのです。このような状況を変えるために私たちは何年も努力しました。そして遂に、私たちは自由なソフトウェアによるコンピューティングを実現したのです。

    今日では、状況はもっと良くなっています。もう既に、自由なオペレーティングシステムは存在しています。最新式のコンピュータを自由なソフトウェアと共に入手できますし、自由なソフトウェアだけで動かすことも可能です。ですから最近では、(20年前に要した)とてつもない献身と犠牲の代わりに、ちょっとした犠牲だけで、あなたは自由な世界に生きることができるのです。さらに、協働していくことで、その犠牲すら必要なくなるでしょう。私たちは、もっとたやすく自由な世界に住むことができるのです。しかし、そのためにはもっと努力しなければいけません。私たちは、自由を社会的価値として認識しなければなりません。

    政府の仕事は専門的なものが多く、しかも作業コストは低減したいと考えています。ですから、政府機関がコンピュータを選ぶときは、あながち実利的な側面しか見ない傾向があります。つまり、そのコンピュータの購入にはいくらかかるか、いつから使えるようになるかなどです。

    しかし、政府には、国を健全な方向に導き、公益に資するというもっと大きな使命があります。ですから、政府機関がコンピュータシステムを選ぶときは、国家を自由なソフトウェアの方向に導くような選択をすべきです。自由なソフトウェアは、ユーザーが単にソフトウェアの実行許可のために代金を支払うのではなく、ソフトウェアを改良してくれる地元地域の人々に資金を環流するという点で、経済効果も高くなります。つまり、ワシントン州のレドモンド(※マイクロソフト本社)に金が流れ、誰かのポケットを潤すのではなく、地域の中で資金が循環し、雇用が創出されるというわけです。しかし、もっと重要なのは、国家とその国民が、自由で独立したライフスタイルを創出することではないかと思うのです。

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    *Copyright 2003 Richard Stallman