新春特別コラム:2016年の日本経済を読む

給付付き税額控除の導入に向けて

川口 大司 ファカルティフェロー

2015年に安倍政権は2つの間違った経済政策にコミットしてしまった。1つは最低賃金の引き上げと、もう1つは食料品への消費税に関する軽減税率の適用である。一見すると独立している2つの政策であるが、どちらの政策も低所得世帯の所得保障を目指している点、価格体系を歪め副作用が懸念される点、給付付き税額控除という筋のいい代替案があった点で共通している。

最低賃金引き上げへの懸念

最低賃金に関して、安倍総理大臣は2015年11月24日の経済政策諮問会議で年3%程度をめどに引き上げ、全国加重平均で時給1000円を目指すと表明した。2015年の全国加重平均は798円だから、毎年3%ずつ上げていけば、8年で目標は達成できる計算になる。少し過去を振り返ってみると、10年ほど前に最低賃金労働者の収入が生活保護受給者の生活保護支給額を下回ることが問題視されたことを受けて、2007年に最低賃金法が改正され、生活保護との逆転現象解消を目指して最低賃金の引き上げが続けられてきた。最低賃金法改正以降の引き上げ幅を振り返ってみると、2006年の全国加重平均は673円だったから、9年で125円上がったことになり、年率2%弱の引き上げが行われてきた計算になる。この過去の経験と、賃金引き上げの機運が生まれてきたことを考慮すると、安倍総理大臣の発言はかなり現実的に見える目標であり、そのまま実行される可能性が高い。

もっとも、これから8年の最低賃金引き上げは、過去9年の最低賃金引き上げに比べて実際の賃金決定への影響はより大きくなる。現在の主な最低賃金は都道府県別に設定されている地域別最低賃金であり、都道府県ごとの平均賃金などを反映して、東京都など高賃金地域で高く、沖縄県など低賃金地域で低く設定されている。2007年以前は、実際の賃金の地域差ほどには最低賃金の地域差がなかったため、東京都などの高賃金地域では最低賃金は賃金決定にはほとんど影響を与えていない一方で、沖縄県などの低賃金地域では強い影響を与えていた。しかしながら、2007年の最低賃金法改正以来、東京都や神奈川県といった高賃金地域の最低賃金がより大きく引き上げられたため、現在では東京都においても最低賃金は実際の賃金決定に影響力を及ぼすようになっている。2015年10月1日現在の東京都の最低賃金は時間当たり907円であるが、時給910円の求人広告が街にあふれていることをみてもその影響力が確認できる。過去9年では、最低賃金があまり実効性を持っていなかった地域で最低賃金が引き上げられてきたため影響が限定的になってきた面があるが、もはや最低賃金が実効性を持たない都道府県は存在しないため、これから8年の最低賃金は実際の賃金決定により強い影響を与えることになる。

最低賃金引き上げに伴い懸念されるのは、低技能労働者の雇用機会の喪失である。筆者が共同研究者と行ってきたいくつかの研究によると、2007年の最低賃金法改正以前においてすら、最低賃金引き上げは中年女性や若年者の雇用を減少させる効果を持つ(Kawaguchi and Mori, 2008; Kambayashi, Kawaguchi and Yamada, 2014)。また、2007年以降の最低賃金の引き上げに対して、10歳代の就業率が低下したことも明らかになっている(川口・森, 2013)。最低賃金の引き上げによって、高い賃金を支払うことができない非効率的な企業を「退場」させ、より生産性が高い企業に労働者を再配分するという考え方があるが、生産性の低い低技能労働者を「退場」させることにつながるのだ。つい最近の25-29歳の若年層でも5%前後は最終学歴が中卒であり、彼らの存在は無視すべきではない。また、彼らができる仕事は徐々に減っていて、就業率が年々低下している点にも注目すべきだ(Arai, Ichimura and Kawaguchi, 2015)。最低賃金のさらなる引き上げが、この最も立場の弱い人々の就業機会を奪うおそれに真剣に目を向ける必要がある。

低技能労働者の職を奪うことなく、彼らの所得を増やす政策が給付付き税額控除である。労働所得が低い人々に大きな税額控除を与え、課税額を控除額が上回ったら、その分を給付するという仕組みであり、すでにアメリカ、イギリス、カナダで導入されている。この政策は生活保護による生活保障や最低賃金引き上げによる所得底上げよりも優れた面を持つ。労働所得が増えると支給額が減ってしまう生活保護制度と違って、労働意欲を阻害しないし、最低賃金とは違って企業が支払う賃金を上げるわけではないので、企業の雇用意欲も阻害しない。問題は財源の確保であるが、白石(2010)のマイクロシミュレーションの結果によれば、アメリカ同様の制度の導入した場合、全世帯の28%が対象となり、財政規模は1.3兆円と計算されている。

軽減税率導入の懸念

食料品に対する軽減税率の適用に関しては、多くの経済学者が反対した。私も反対だ。一般の人にも理解してもらえる手続き的な論点を指摘する経済学者が多かったが、本音で懸念しているのは価格体系がゆがむことによる資源配分の歪みではなかったかと思う。需給バランスで決まる価格体系が、分権的意思決定の結果として効率的な資源配分を実現することを学んだ経済学者にとって、政府が相対価格をゆがませることに対する忌避感は強い。この視点で考えると、外食(たとえば牛丼)と加工食品(たとえばコンビニ弁当)の間の代替の弾力性は、加工食品(たとえばコンビニ弁当)と生鮮食品(たとえば野菜・肉・魚)の間の代替の弾力性よりも高いとも考えられ、外食と加工食品の間で線引きしてしまったのはひどい決着だったのではないかとも思えてくる。この問題でも低所得者対策として、経済学者の一部は給付付き税額控除を提案していたが、早々に議論の舞台から姿を消してしまった。しかしながら、今回の決着で空いてしまった財源の穴が1兆円、一時検討された外食をも軽減税率対象に含めた場合の財源は1.3兆円であったことと、先の白石(2010)のシミュレーション結果を合わせて考えると、十分に実行可能な提案だったといえる。

給付付き税額控除の導入に向けて

軽減税率の決着に関しては公明党の主張を考えれば、政治的にやむをえなかったともいわれており、経済学者が政策提案を行うにあたっては、このような政治的な制約を正面からとらえる必要があるとの考え方がある。真剣に受け止めなければいけない意見だが、人は筋道だった説得によって考え方を変えることもあるので、制約に見えるものが実は制約でない可能性がある点が難しい。低所得層対策として筋がいい給付付き税額控除の考え方がより広く知られ公明党支持層にも浸透していたら、公明党も考え方を変えていたのではないかとの思いもぬぐえない。マイナンバー制度が導入されたことは、給付付き税額控除の導入をより現実的なものとした。給付付き税額控除については中央大学の森信茂樹教授を中心としたメンバーが古くから研究を続けているが、2016年は、このような検討を幅広い層の研究者が行い議論の厚みが出ることに期待したい。

2015年12月25日掲載
参考文献
  • Arai, Yoichi & Hidehiko Ichimura, & Daiji Kawaguchi, 2015. "The educational upgrading of Japanese youth, 1982-2007: Are all Japanese youth ready for structural reforms?," Journal of the Japanese and International Economies, vol. 37(C), pages 100-126.
  • Kawaguchi, Daiji & Yuko Mori, 2009. "Is Minimum Wage An Effective Anti-Poverty Policy In Japan?," Pacific Economic Review, vol. 14(4), pages 532-554.
  • Kambayashi, Ryo & Daiji Kawaguchi & Ken Yamada, 2013. "Minimum wage in a deflationary economy: The Japanese experience, 1994-2003," Labour Economics, vol. 24(C), pages 264-276.
  • 川口大司・森 悠子, 2013.「最低賃金と若年雇用:2007年最低賃金法改正の影響」大竹文雄・川口大司・鶴光太郎編『最低賃金改革:日本の働き方をいかに変えるか』日本評論社.
  • 白石 浩介, 2010.「給付つき税額控除による所得保障」『会計検査研究』42号, 11‐28頁.

2015年12月25日掲載

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