新春特別コラム:2011年の日本経済を読む

2011年にしておかねばならぬこと

小野 五郎
上席研究員

かつて筆者は「予測がよく当たる」という評判を得ていた。なぜなら、1970年代初めにソ連邦の崩壊を予測(その証拠に当時「遠交近攻外交策」として東欧圏諸国に輸出保険枠を設定)し、発足直後のASEANの将来性を見込んで接近を図る(初めての日本―ASEANフォーラム実現に貢献、一介の事務官ながら大臣・次官級の同フォーラムの正式団員として参加)などしているからである。

ただし、「当たった」予測は、いずれも20、30年という中長期、少なくとも10年程度先を見通したものばかりである。というのも、予測根拠は「短期予測では勘の鋭い人には勝てるわけがないが、中長期では短期的雑音(人為ないし偶発事件)が消え、今後影響が大きい与件の大半も出揃うから、それら与件から論理的に導き出せば正しく予測できるはずだ」というものだからである。

ただし、ここで言う「論理的帰結」は計量分析結果を意味しない。計量分析で用いられる情報は、与件一定(セテリスバリブス)の前提に立ち、現時点で統計的に有意でない要素は組み込まれないからである。逆から言えば、計量はすでに必要情報がある程度確定し与件変動の無い過去の分析向きであって、少なくとも平時の短期以外の予測には向いていない。というより、ケインズが言ったとされる「経済現象を本当に理解するためには、単に表面的な統計数値とか経済理論を学んだだけでは不十分であり、歴史・文化・哲学・法学などといった文科系の知識はもちろん、工学系技術さらには物理学・化学から数学などに至るまでの理科系の知識も幅広く身に付ける必要がある」とすれば、そもそも計量分析のみでは経済現象そのものを正確に理解できないことになる。

将来の日本経済を読み取ると見えてくるもの

前置きが長くなったが、以上のような視座からすると、「2011年の日本経済を読む」のではなく、政策論的立場から「将来の日本経済を読み取った場合、2011年にはどうしておくことが望ましいのか」ということを論ずべきだろう。

実際、1990年代バブル崩壊に際して「成熟した日本では、ケインズ的手法は一方で過大な供給力を残存させて構造改革を遅らせ、他方で財政赤字とゼロ金利という将来の選択肢を消滅させるばかりである」とするとともに、「これから考えておかなければならないことは、地球大の資源環境問題におけるサスティナビリティの消滅、米国経済の放漫財政や金融工学由来のバブル発生によるサスティナビリティの消滅、日本の財政破綻と社会的混乱に伴うサスティナビリティの消滅の3つだ。したがって、それに備えての抜本的構造改革が肝要だ」と主張していた。

今にして見れば、すべてが不幸にして的中している。つまり、今の状況は、俗に言われている「何人たりとも予測できなかった」ことではなく、単なる論理的帰結にすぎない。

この辺は、前世紀末に参加した日本経済新聞の2020年委員会とかミレニアム委員会でも唱えていたのだが、残念ながら理解が得られなかった。というより、筆者に対して否定的見解を呈していた人たちが、今になって「構造改革」を唱え将来の日本の「あるべき姿」を論ずるのを見て呆れ果てているところだ。その大半は、ガルブレイスが言う「大衆というものは、己の耳に心地よいことを聞き入れ、それを通念だと理解するものだ」に迎合し、世間受けする話をさも根拠があるように修飾しているだけであり、科学的な意味における「予測」などでは決してない。その証左に、ありもしない「成長路線回帰」や将来性のない「米国型資本主義追随」等が未だに幅を利かせている。

そもそも論からすれば、日本だけではなく、すべて成熟期に入った先進諸国には、もはや経済的ないし物的な意味での成長余力は残っていない。どこも発展段階論におけるロジスティック曲線上の成熟期ないし最終到達点後の定常状態にある。換言すれば、産業革命以降、技術革新による規格化→量産化→低価格化→大衆市場化→規格化→量産化というサイクルで発展してきた今の経済産業システムが、すでに陳腐化しこれまで世界経済を主導してきた先進国では壁に打ち当たったということである。

したがって、今後の世界経済の発展は新興国・後発国に依存せざるをえない。にもかかわらず、そのいわばオコボレを頂戴する立場にすぎない先進諸国がプライドを捨てきれないでいるところに現下の混迷の主因がある。

逆にその辺を潜在意識下で感じてはいるからこそ、古い歴史を有し自国の価値観に誇りを持つフランスなどから「経済成長率より幸福度」といった声が上がるようになったのだろう。もっとも同様な理由から、歴史は浅いが覇権国としての力を持つ米国は逆に経済成長率に拘泥し、「米国人は本質的に実体経済より投機を好む」と指摘したケインズの言どおり、実体経済から遊離した金融資本主義なる虚構を立ち上げ、今回のような世界大のバブル発生を招いてしまったのだが。

日本もどちらかと言えば米国型の後を追ってきた。その具体的証左に、少子高齢化社会で最も重視されるべきは生産性なはずだが、その生産性が決して高いとは言えない自動車産業を、さも日本全体のリーディング・インダストリーのごとく祀り上げてきたことを挙げたい。すなわち、一見高そうに見える同産業の国際競争力も、小泉政権下の円安誘導と低賃金の非正規雇用などによって生み出された見掛け上のものにすぎないのであって、そうした下駄が外されればもはや今のままでは日本の将来を託すには足らない存在となる。

それを経済界が「政策が悪い」とか「不要な規制が多すぎる」と言うのは、己の経営手腕の無さを隠蔽するための弁解にすぎない。なぜなら、日本は、かつて財政規模が小さく元より政策に限りがある上にがんじがらめな規制も多い中で、多くの新興企業が台頭し国家として高度成長を果たしてきたからである。

実態に合った経済社会の構築を

むしろ日本としては、これまでの米国のような与件設定力を有さないことを自覚し、かつ、その米国でさえもはやその力を失ったという事実を冷静に受け止め、自ら早く定常状態に合った(平たく言えば己の分に合った)経済社会を構築運営しなければならない。

それには、過去の成功体験に捉われることなく、欧米先進国模倣追随路線から決別し、必ずしも経済成長とは相関せず(むしろ成熟経済では逆相関し)、国民の幸福感と相関する「国民総厚生の極大化」を今後の目標に置き換えることが不可欠となる。ただし、「効用の不可測性」からして、それは成長率とかそれに代わる「幸福度」などという数値ではありえない。といって、「それでは経済学として取り組みようがない」とか「産業政策の対象たりえない」というのは、知恵の出し惜しみである。

というのも、筆者には「物的価値偏重を改め、より精神的価値を尊重する社会が来る」ということを1970年頃に予測し、それに備えて産業構造を抜本的に改革すべく、昭和47年度通産省新政策として「文化産業」を提唱するという実績があるからだ。当時は陽の目を見なかった「文化産業」という言葉も今では極一般的に用いられるようになったが、それくらい予測が現実と合致するのには時間がかかるということである。もっとも、それでは直ぐには業績として評価してもらえず、さりとて権限の固定化を恐れての短期の異動を強いられる現行組織では意欲を湧かせるインセンティブにも欠けるが。

そこを承知で、あえて今後の展開に関するヒントを3つ言えば、不可測な厚生も「満足度」に置き換えれば欲望の充足度合としては数値的扱いが可能になるということ、過去の供給側視点から構築されてきた市場理論を離れ、より需要側を重視した市場理論(単なるマーケティング戦略論ではない。それでは供給側視点に立つことになる)を組み立てるということ、政策論的には筆者がかつて提唱しその後広まった「市場と政府との相互補完関係」よりさらに一般的な「補完性原理」を採用するということである。

第1の点については、仏教経済学の「幸せの方程式」における[幸せ=欲望の達成度=達成された欲望/総欲望]が参考になる。すなわち、幸せは必ずしも分子を増大させずとも分母の総欲望を抑制することによって達成できるということだ。逆に同式から、新しい財・サービス(欲望)を生み出すことにより発展してきた現代資本主義の下では、幸せは永遠に来ないという結論も導き出される。

第2の点については、筆者が常々主張してきて1990年代には産業構造審議会でも取り上げられた「需要側から見た産業構造」の検討、さらには単なる「消費者」を超えた「生活者」という視点の導入が求められる。これまで把握困難だった同視点からの情報も、ネット社会の到来によってすでに可能となっている。

第3の点については、政府・市場という二分法的主体設定ではなく、非政府・非市場的存在であるNGOやNPOはもちろん、個々人や家庭までひっくるめた重層的相互補完関係を念頭に置いて政策創出・運営を図るべきである。ここでもインフラとしてのネット整備が必要十分条件となる。

以上、「2011年の日本経済を読む」というテーマから掛け離れたような話をしてきたが、実はそう感じること自体が為すべき手立てを遅らせるだけではなく、当面の問題たる2011年の日本経済を規定することになる。そこから出される結論は次のとおり。

2011年は米国流楽観論からの当座凌ぎが効を奏すれば一時的には景気回復局面(「循環論的景気回復などありえない」とする立場からすればバブル)を迎えようし、でなければ期待感を抱いたまま極短期の上昇に一喜一憂しつつずるずると泥沼の底に沈みこんでいくことになる。それがいやなら、向こう最低20年を睨み、経済規模縮小に伴う摩擦覚悟で、最小限のセーフティネットを残して市場原理を貫き、速やかに財政再建を図らねばならない。

2011年1月4日

2011年1月4日掲載

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