新春特別コラム:2009年の日本経済を読む

世界的金融危機の中で日本経済が直面する課題

小林 慶一郎
上席研究員

世界的な金融危機の中で、日本経済はどのような課題に直面するのか。RIETIでの最近の活動で経験したことに重点を置きつつ、今後を展望する。

経済危機の動向

2007年夏からサブプライムローン問題が騒がれ始め、金融システムの悪化が水面下で相当進んでいるのではないかと懸念していたが、2008年9月のリーマン・ブラザーズ破綻後の金融危機の急展開は、予想外のものだった。欧米各国が金融機関への資本注入や金融機関間の貸借に対する全額政府保証などの危機対策を発動したため、2009年には、金融システムは小康状態を取り戻すだろう。しかし、実体経済の展開は、1998年の銀行危機後の日本と同じようになるのではないだろうか。おそらく欧米金融機関の不良資産処理は短期間では終わらず、その間、信用不安が実物経済を痛め続けるだろう。

これまで米国の消費者は資産価格の上昇を背景に借入を増やして過剰な消費をしてきたが、資産バブル崩壊によって、今後は一時的にせよ米国の内需は厳しく抑えられることになる。それは米国の経常収支赤字をかなり減少させることになり、日本や中国から米国への輸出は、今年、さらに減少する。米国と中国への輸出で支えられてきた日本経済は厳しい試練に直面することになるだろう。

これから世界経済の動向を占う上で最も重要な点は、これまでのような米国の過剰消費体質が再び回復するかどうかである。金融システムが落ち着けば米国の内需も回復し、いままでのように(経常赤字を膨らませて過剰消費を拡大し、)世界経済を牽引するようになるだろうという見方もある。しかし、問題は米国の資産価格の動向である。2006年夏にピークをつけた米国の住宅価格の下落は止まる気配はなく、2008年からは商業用不動産の価格も下落が続いている。家計が住宅を担保に債務を増やして消費を拡大することはできないし、企業も資金調達が困難な状態が続くだろう(米国でも中小企業の多くは不動産担保融資に頼っている)。

手堅く見積もるとすれば、米国の内需が回復するのは数年先と考えておくべきであろう。

今後、米国の過剰消費の「是正」が長期化するとするならば、世界経済のシナリオは3つしかない。

第1は、米国経済の縮小とともに、世界経済全体が縮小均衡に陥るシナリオ。これは大恐慌の再来であり、最悪である。

第2は、米国が大型の公共事業を連発して、国民の過剰消費が減った分を、政府の「過剰投資」で補うシナリオ。財政拡大は、オバマ政権下でしばらくは続くだろうが、米政府の過剰投資が長期的に維持できないのはあきらかだ。本質的に、米国の民間部門の需要が回復しなければ、政府が支え続けることはできない。民間の消費などが戻らなければ、財政出動をやめた途端に景気が失速し、結果的にオバマ政権への大きな失望を生むリスクもあると考えるべきである。

第3は、縮小する米国経済に代わって、日本や中国などの新興国が内需を増やすシナリオ。米国の巨額の経常収支赤字が維持不可能だとすれば、中長期的に世界経済が発展するには、これがもっとも望ましいが、各国の国内では、大きな痛みを伴う構造改革が必要となるだろう。

当面の政策的課題

おそらく中長期的には第3のシナリオが実現して、世界経済は安定を取り戻すことになると思われるが、米国の消費や投資の収縮と中国の急速な景気悪化を受けて、日本の景気は年明け以降も、ジェットコースターで急降下するような急激な変化を経験する可能性がある。経済危機は、世界的な構造調整(つまり米国の過剰消費体質の是正)が原因なので、輸出減少の大きな流れを日本の政策で変えることはできない。しかし、日本の景気や雇用が受ける影響を最小限にするために、できることはある。いまできることで、もっとも景気と雇用に効果があるのは、企業の「資金繰り」を支援する政策である。

そこで重要なのは、日銀と政府の意思疎通と連携の強化である。

昨年末、日本銀行は企業が発行するCP(短期の無担保約束手形)の買い切りを表明し、日銀が直接、企業に資金繰りのために資金を貸し出す決断をした。これで雇用情勢は多少、緩和されるだろう。しかし景気のさらなる悪化が進めば、年明け後も、資金繰り支援のために、企業の社債や株式を大規模に買い入れる政策が必要となるだろう。

CP、社債や株式は、本来、選挙の審判を受けていない日銀が買い入れるべきものではない。発行体の企業が倒産すれば国民が損失を被ることになるからだ。CPや株式などの購入は、国会審議を経て政府が行なうべきものといえる。だが景気悪化があまりにも急激なため、政治の動きが追いつかない。一方、資金繰りは時間との勝負である。そこで、政府が政策を発動するまでの間、「つなぎ」として日銀が社債や株式などリスク資産を買い入れる、という連携プレーが考えられるわけだ(もちろん、後で政府が日銀の損失を穴埋めすると保証をつける)。

現状は、こうした非常時に対応した政策連携を取れる体制になっていない。今後、半年ほどの時限措置として、政府と日銀による「資金繰り対策本部」を常設の機関として設置して連携を強化し、事態の急変に対応できるようにすべきではないだろうか。

経済学はどうあるべきか

今回の経済危機は、マクロ経済学そのものにも大きな課題を突きつけたということができる。RIETIでは、昨年12月19日にCEPRと共催で、マクロ経済学に関するワークショップを開催し、その中のワーキングランチで金融危機について議論した。参加者のJordi Gali教授(Pompeu Fabra大学、ニューケインジアン(新しいケインズ経済学)理論の指導的研究者)は、既存のマクロ経済理論(特にニューケインジアン型のモデル)が金融危機をうまく取り扱えない要因として、6つの問題点を挙げた。純粋に技術的な論点を除くと、Gali教授の宿題は次の3つに集約される。第1は、既存のニューケインジアン型マクロ経済理論は、金融システム(銀行など)を明示的に扱っていないこと。第2は、資産価格の変動が実体経済を大きく撹乱する可能性を十分に考慮できていないこと(特に複数均衡の存在や、経済現象の非線形性が扱えないということ)。第3は、既存の理論は合理的期待の仮説にあまりにも強く依存しており、現実に観測される合理的期待からの逸脱現象を扱えない構造になっていることである。

Gali教授は、既存のニューケインジアン理論の土台は変えることなく、その発展によって上記の課題は解決できるだろうと考えているようである。筆者は、その点についてすこし異論があり、シンポジウムでもGali教授に下記のような問題提起を行った。ニューケインジアン理論(さらにそれがベースにしている標準的な新古典派理論)の問題点は、本質的にそれらの理論には支払い手段(すなわち交換媒体)としての「貨幣」の存在が欠如している点だと筆者は考えている。支払い手段としての貨幣の問題を扱うためには、清瀧信宏とRandall Wrightが提案したようなサーチ理論型のマクロ経済モデルが現在のところもっとも適しているように思われる。サーチ理論型のモデルを構築することで、Gali教授の宿題の主要なものは自然なかたちで解消することができ、今回の金融危機のような現象も分析できるようになるのではないか。筆者は現在、その方向で理論的研究を進めているところである。

いずれにしても、金融危機が経済学に突きつけた課題は大きい。今年以降、おそらく数年以内に、経済学の大きなパラダイム・シフトが起きるかもしれない。

メディアの役割は何か

昨年秋以降の劇的な金融危機の深化を受けて、日本のマスコミの論調も大きく変わった。一部には、待ちかねていた資本主義経済の終わりが遂にやってきた、といわんばかりの議論も散見された。こうした異常時にこそ、本質を見失わないメディアの冷静な議論が、的確な問題解決に向けた世論形成のために重要となる。

昨年末、筆者は上述の第3のシナリオ(世界経済の縮小均衡を回避するため、米国の内需縮小を補って、日本や中国などが内需拡大をするべきではないか)を某所で論じたのだが、議論の立て方が拙かったためか、「米国が大失敗した尻拭いを、アジアがするべきだ」という主張だと解釈され、同席していたあるメディアの方から厳しく批判された。「米国の失敗の責任は米国が取るべきだ」というメディアの正義論には、一点の曇りもなく、反論すべき点はない。しかし、だから「アメリカが事態収拾を何とかするべきだ」という主張になるとすると、それは実質的に次のような主張をするのと同じことになる:「米国民が過剰消費を止めたために日本まで不況になっているのだから、米政府が過剰投資をして、もっと米国の経常赤字を膨らませるべきだ(あるいは、米国民が過剰消費を再び膨らませるように誘導すべきだ)」

米国の過剰消費が問題の一因かもしれないときに、再び過剰消費をやれ、という主張は、なんともつじつまが合わない奇妙な話ということになる(これは上述の第2のシナリオを永久に続けろ、と言うのに等しい)。

「米国が悪いのだから米国が責任をとるべきだ」というタイプの議論は、12年前の「住専処理問題」のときにメディアが振りかざした正義論に似ている。1995年ごろ、住専の経営危機が表面化したとき、メディアは金融業界と監督官庁の責任を厳しく追及した(メディアの責任追及それ自体に間違いはなかった)。しかし、その筋論が、住専の損失処理のコストは、「金融業界(または監督官庁)が何とかするべきだ」という結論につながったことは間違いだった。その結果、公的資金(つまり国民の血税)を投入することに対して激しい反対が巻き起こり、住専処理後、不良債権処理に対する公的資金の投入は、タブー視されるようになった。抜本的な不良債権処理は先送りされ、国民は、より大きな損害を被ることになった。

要するに、「誰に責任があるのか」という議論と「これから誰がコストを支払うべきなのか」という議論が区別されるべきだったが、そうならなかったのが問題だったといえる。通常の社会面の事件なら、責任者がコストを支払うべきだ、という結論に疑問の余地はない。しかし、マクロ経済問題では、問題の悪化を防止するためには、責任者とは別の者がコストを負担するべきだ、という議論は大いにあり得る。住専処理とその後の公的資金投入の遅れという経験から得られたこの教訓を、今回の金融危機を論じるにあたってメディアは十分に肝に銘じなければならないだろう。

最近の国内の雇用危機(派遣切りの問題)について、製造業への派遣を禁止しようとする動きが出ているが、これも、正しい議論から間違った結論が出てくる悲劇的な例になってしまうのではないだろうか。たしかに派遣切りを行う大企業の責任は重いが、派遣労働を禁止すれば経済のパイが小さくなる。派遣を禁止すれば、すでに職を失った派遣労働者が新たに職を得るチャンスも減るし、正社員の失業も増えるだろう。パイを小さくしないで、派遣労働者を救うには、失業保険の加入基準や給付基準の緩和などのセーフティネット(企業ではなく、政府によるセーフティネット)を充実させることが本筋ではないか、と思えるのだが・・・。

金融危機の中で、今後、大きな政策や制度変化がさまざまな分野で起きると思われる。世論や政治が間違った方向に走り、間違った政策が実行されないようにするために、メディアの役割はますます大きなものになるだろう。

2009年1月13日

2009年1月13日掲載

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