文化経済学とは何か:芸術文化の経済分析

田中 鮎夢
リサーチアソシエイト

はじめに

経済学者にとって、「文化」は縁遠い存在である。社会学が文化を正面から対象としているのに対して、経済学は文化を前提条件とするか、周辺的なテーマとして扱う傾向がある。もちろん、数多くの例外はある。また、「文化」を広く定義すれば、非常に多くの経済学研究があるともいえる。たとえば、著名なゲーム理論家であるルービンシュタイン(A. Rubinstein)は、『経済学と言語』(Rubinstein, 2000)というよく知られた本を書いているし、言語の経済学や宗教の経済学という分野も一応存在している。

本稿が紹介を試みるのは、狭義の文化、「芸術」を対象としてはじまった「文化経済学」(cultural economics)と呼ばれる学問である。文化経済学は、1960年頃から欧米を中心に発展したが、日本においては確立された学問分野とは言いがたく、経済学者にすら正確に理解されていない面がある。しかし、近年、経済産業省にクリエイティブ産業課が設置され、クールジャパン政策なるものが推進されるようになり、文化経済学という学問の必要性は日本においても高まっている。

文化経済学の歴史

文化経済学の歴史は、『芸術経済論』(Ruskin, 1857)を19世紀に著したイギリスの思想家ラスキン(J. Ruskin)にまで遡ることができる。また、ケインズ(J. M. Keynes)が、イギリスの芸術政策に深く関わっていたこともよく知られた事実である。ケインズは、アームズ・レングス(arm's length)の原則と呼ばれる「政府がお金は出すが、芸術の内容に口出ししない」という方針を旨とするイギリスの芸術評議会の創設に関わった。

しかし、現代の文化経済学が、ボーモル(W. Baumol)とボーエン(W. Bowen)の著作『舞台芸術』(Baumol and Bowen, 1966)やボーモルによる一連の論文(Baumol, 1965; 1967)によって始まることにはほぼ異論がない。彼らは、環境経済学や産業組織論の分野で顕著な業績を持つアメリカの経済学者である。彼らによって、実演芸術が理論的・実証的に厳密に分析されるともに、実演芸術への公的支援の理論的根拠が示されたことが、現代の文化経済学の出発点であると言われる。

そして、アメリカのアクロン大学のヘンドン教授(W. Hendon)によって、文化経済学に関する学術誌Journal of Cultural Economicsが1973年から発行され、国際会議も1979年から開かれるようになった。さらに、国際文化経済学会(The Association for Cultural Economics International)が1993年に正式に組織された。

ボーモルとボーエンに始まる現代の文化経済学は、基本的には芸術文化を対象とする応用経済学である。アメリカ経済学会の経済学の分類表の中では、「Z. その他の特殊な分野」の下位分類として「Z1. 文化経済学・経済社会学・経済人類学」が設けられている。標準的な教科書としてはHeilbrun and Gray(2001)が挙げられる。やや独自性の強い概説書としてはThrosby(2001)が存在する。文化経済学の分野には、既に膨大な研究蓄積があり、全容を概観するのは容易ではないが、Throsby(1994)やBlaug(2001)に代表される展望論文、Towse(2003)、Ginsburgh and Throsby(2006)のようなハンドブックがある。

なぜ芸術文化には公的支援が必要か

文化経済学というものに対して、経済学者すべてが同じ考えを持っている訳ではない。そもそも「文化経済学」(cultural economics)という言葉自体を使わない経済学者も多い。「芸術文化の経済学」(economics of art and culture)という呼称の方がむしろ一般的であるし、「芸術経済学」(art economics)という言葉を用いる経済学者(Frey, 2000)もいる。芸術文化という対象を通常の財・サービスとして扱って良いのか否かに関しても、経済学者の間で意見が分かれている。多数派は、芸術文化という対象を、通常の財・サービスとして通常の経済学によって扱うか、あるいは微調整によって通常の経済学によって扱おうとしている。

いずれにせよ、多くの経済学者が、文化的な財やサービス(注1)に関しては市場の失敗によって最適な資源配分が実現されにくいことを認め、なんらかの公共政策が必要と考えている。この文化的な財・サービスに関する市場の失敗という問題は、多くの経済学者によって強調されてきたことである。ここで、簡単に整理しておこう。

文化的な財やサービスは、「準公共財」(quasi-public goods)である。それは、「混合財」(mixed goods)といっても意味は変わらないが、私的財と公共財の中間にあって両方の性質を抱えているということである。非排除性や非競合性(等量消費)という「公共財」の性質を文化的な財は持つが、絵画などが市場である程度取引が可能であるように「私的財」としての性質も持つ。一方、公共財としての性質から、通常の市場で扱っても、十分に価値が評価されない恐れがある。たとえば、個人が名画を所有していても、便益はその個人と家族などの少数の人しか受けられない。私的便益と社会的便益の乖離の分が失われるのである。美術館で一般に公開すれば、こうした厚生損失は生じにくい。

さらに、文化的な財やサービスは「外部効果」を生み出す。たとえば、美術館が町にあるということで、その町の人々は美術館に実際にいかなくても数々の便益を得られる。美術館の利用者のために飲食店が潤ったり、美術館がその町に文化的な雰囲気を付与したりすることなどがある。

また、文化的な財やサービスが「価値財」(merit goods)であると主張する経済学者も存在する。価値財とは、専門家の判断や社会的観点から求められる財のことをいう。このように文化的な財やサービスにはたくさんの名称がつけられるのであるが、要約すれば純粋私的財ではないということである。

加えて、「ボーモル病」と呼ばれるように、特に実演芸術においては、生産要素費用に占める人件費が大きく、生産性が上昇しにくく、経営が赤字に陥りやすい。そのため供給が過少になってしまう。

こうした種々の理由から、文化的な財やサービスの需要や供給が効率的に実現せず、市場の失敗が生じる恐れがある。そのため、公的支援の必要性が根拠づけられる。さらに、芸術文化への公的支援の根拠としては、狭い意味での市場の失敗以外の根拠も挙げられている。たとえば、文化的な財・サービスの消費が高所得者・高学歴者・専門職者に偏っている事実を前提として、消費者の社会階層の偏りをなくす公平性・再分配の観点からの公共政策の必要性もしばしば強調される。

公共政策の手段

公共政策の手段として、Throsby(2001)は4つを挙げている。公的所有・資金援助・直接規制・教育と情報の提供の4つである。美術館で絵画を政府が所有し公開したりするのが、「公的所有」である。経営の困難な文化事業に「資金援助」することもあるだろう。また、国宝や重要文化財へ指定することで、文化的な財が海外に流出することを防ぐのは、「直接規制」である。

さらに、芸術には「嗜好の蓄積」と呼ばれるような需要における特殊性がある。たとえば、クラシック音楽を聴いていく中で作曲家や指揮者、演奏家に関する知識も増え、消費が多様になったり増えたりする。つまり、消費者は、自らの嗜好を学習によって変化させているのである。したがって、動学的な観点からは、学習の機会を増やすことが必要になる場合もあるかもしれない。その場合、「教育と情報の提供」が公的支援の1つとして求められるのである。

対象の拡大

Baumol and Bowen(1966)によって文化経済学が始まった時、その対象はクラシック音楽などの実演芸術であった。しかし、現在にいたる約50年の間に、その対象は拡大を続けた。クラシック音楽のような高級芸術から文化産業全体に経済学の対象が拡大したといえる。著名な国際経済学者であるケイブズ(R. Caves)によって、契約理論を応用し、創造産業(creative industries)(注2)が分析されたのはその好例といえる(Caves 2000, 2003)。

このような対象の拡大のなかで、わざわざ「文化経済学」と名乗る必要性はなくなってきた。芸術文化を対象としたさまざまな研究がさまざまな媒体に公表されているだけである。オークション理論を応用して美術品のオークションの実証分析がなされることもあるし、労働経済学を応用して芸術家の労働市場が分析されることもある。また、筆者らは、川瀬剛志・上智大学法学部教授の経済産業研究所プロジェクトなどにおいて、国際貿易理論を応用して、文化的財の国際貿易を分析してきた(田中 2008; 神事・田中 2013; Jinji and Tanaka 2015)。これら諸研究は、単に芸術文化の経済学あるいは芸術文化の経済分析と呼ぶべきであろう。

終わりに

本稿は、文化経済学あるいは芸術文化の経済学と呼びうる学問分野について、簡単な紹介を試みた。芸術文化のような対象は経済学の対象となりえないように思われる方もいるかもしれない。Rushton(1999)やThrosby(2001)において議論されているように、経済学の哲学と芸術文化の価値は調整が難しい面もある。しかし、芸術文化にも経済的側面は必ずあり、Baumol and Bowen(1966)以来、芸術文化の経済学は着実に発展を遂げてきた。クールジャパン政策なるものが推進されていることからもわかるように、芸術文化が経済に占める役割も無視できない。経済学の分野で蓄積されてきた学術的知見が政策に生かされていく余地があるのではないだろうか。

謝辞

本稿は、筆者の未公刊論文(2003)を加筆改訂して作成した。執筆当時、励ましと助言を下さった、竹澤祐丈・京都大学大学院経済学研究科准教授に深く感謝する。

脚注
  1. ^ Throsby (2001)は文化的な財(cultural goods)やサービスを創造性・知的所有権・象徴的な意味の3つの要素に関わるものと定義している。
  2. ^ 創造産業は文化産業よりもやや広い概念として用いられることが多い。
文献
  • Baumol, William J. "On the Performing Arts: The Anatomy of Their Economic Problems," American Economic Review, Vol. 55, No. 1-2, 1965, pp. 495--502.
  • Baumol, William J. "Macroeconomics of Unbalanced Growth: The Anatomy of Urban Crisis," American Economic Review, Vol. 57, No. 3, 1967, pp. 415--426.
  • Baumol, William J. and William G. Bowen. Performing Arts: The Economic Dilemma, Twentieth Century Fund, 1966. ウィリアム・ボウモル、ウィリアム・ボウエン著、渡辺守章・池上惇監訳『舞台芸術:芸術と経済のジレンマ』芸団協出版部、1994年。
  • Blaug, Mark. "Where Are We Now on Cultural Economics?," Journal of Economic Surveys, Vol. 15, No. 2, 2001, pp. 123--143.
  • Caves, Richard E. Creative Industries: Contracts between Art and Commerce, Harvard University Press, 2000.
  • Caves, Richard E. "Contract between Art and Commerce," Journal of Economic Perspectives, Vol. 17, No. 2, 2003, pp. 75--83.
  • Frey, Bruno S. Arts & Economics: Analysis & Cultural Policy, Springer, 2000.
  • Ginsburgh, Victor A. and David Throsby ed., Handbook of the Economics of Art and Culture, Vol. 1, North-Holland, 2006.
  • Heilbrun, James and Charles M. Gray. The Economics of Art and Culture, 2nd ed., Cambridge University Press, 2001.
  • Jinji,Naoto and Ayumu Tanaka. "How Does UNESCO's Convention on Cultural Diversity Affect Trade in Cultural Goods?," RIETI Discussion Paper Series, No. 15-E-126, 2015.
  • Rubinstein, Ariel. Economics and Language: Five Essays. Cambridge University Press, 2000.
  • Rushton, Michael. "Methodological Individualism and Cultural Economics", Journal of Cultural Economics, Vol. 23, 1999, pp. 137-147.
  • Ruskin, John. A Political Economy of Art: A Joy for Ever and its Price in the Market, 1857. ジョン・ラスキン著、西本正美訳『芸術経済論 (永遠の歓喜とその市場価格)』岩波書店 (岩波文庫)、1927 年。
  • Throsby, David. "The Production and Consumption of the Arts: A View of Cultural Economics," Journal of Economic Literature, Vol. XXXII, 1994, pp. 1--29.
  • Throsby, David. Economics and Culture, Cambridge University Press, 2001. デヴィッド・ スロスビー著、中谷武雄・後藤和子監訳『文化経済学入門:創造性の探求から都市再生まで』日本経済新聞社、2002年。
  • Towse, Ruth, ed. A Handbook of Cultural Economics, Edward Elgar, 2003.
  • 神事直人・田中鮎夢「文化的財の国際貿易に関する実証的分析RIETI Discussion Paper Series、No. 13-J-059、2013年。
  • 田中鮎夢「文化的財の国際貿易:課題と展望RIETI Discussion Paper Series、No.08-J-007、2008年。

2016年6月8日掲載

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