「通商政策2.0」~WTOそしてTPPの次に来るもの

田村 暁彦
上席研究員

我が国通商政策の目下の最重要課題であるTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)を巡る交渉は、現在米国議会において貿易促進権限(TPA)を大統領に付与するための法案審議が行われるなど、山場を迎えている。同交渉の行方は予断を許さないが、それでも、交渉妥結の可能性が相当程度ある以上、次世代の通商政策を今から考えておく動機は十分にあるだろう。これを本稿では「通商政策2.0」と呼ぶこととする。

国際社会の多極化を踏まえ「覇権の共同構築」を目指す通商政策

「通商政策2.0」は、第2次世界大戦後の冷戦構造に起源を持つ貿易秩序を中心とする思考枠組みから一旦離れ、多極化する国際政治情勢の現実を踏まえて考案・実施されるべきだろう。具体的には、米国を中心とする西欧諸国の退潮および新興国の台頭、NGOなど非政府主体の台頭および主権国家の相対化、という現象を踏まえるべきである。急速な経済成長を背景として中国・インドを始めとする新興国の影響力が増大する反面、先進諸国の影響力が相対的に低下している。WTOドーハラウンド交渉が既に長期間に亘り妥結の糸口を見いだせない。気候変動、核不拡散・軍縮など、多国間で合意すべき問題を巡る交渉は、産みの苦しみを味わっている。筆者の見解では、これらの現象の根本原因は、「パックスアメリカーナの終焉」である。国際秩序は圧倒的な強制力(coercion)あるいは権威(authority)に裏付けられた政治力(power)を擁する覇権国による指導があって初めて確保される(覇権安定論)のであり、覇権国の力の減退と共に秩序は不安定化する。この根本的な要因を無視したまま、従来と同じ思考で多国間主義的なレジームを追求しても首尾よく行かない。圧倒的な覇権国の再登場を待つか、あるいは相互に信頼する複数国により「覇権の共同構築」を行うかして、国際秩序を再度安定化させるしかない。前者は現実的ではなく、後者を追求することになるのだろう。

「覇権安定論」と「『権威』を基盤とした覇権構築」の可能性

ここで国際政治の概念化に関する学説を簡単におさらいしたい(米国国際関係論学界を中心に)。国際政治の概念化に関する伝統的な通説は、いわゆる「リアリズム」である。特に昨今のバージョンは、「アナーキー(無政府状態)である国際社会で『生き残り』を確保することが国家の主要目標」という見方を前提とする「ネオリアリズム」である。しかし、リアリズムは、勢力均衡を前提とするので、冷戦終結後、米国一極集中の時代に、非覇権国が勢力均衡の観点から反米連合を結成する、という展開となるはずが現実にはそのようにならなかったことから、冷戦後の事態を説明出来ないとの反論を受ける。ロバート・ギルピンは同じリアリストの立場に立ちながらも、勢力均衡論とは異なる「覇権安定論」を提唱し、覇権国は長期的な視点から国際秩序を構築運営する動機と能力があるので米国一極集中はむしろ国際秩序の安定化に繋がる、と主張する。覇権安定論は、冷戦後も西側諸国の結束は瓦解には至らなかったこと、経済分野では多国間主義が実行に移される現象が相当に認められたことなどから、その妥当性が広く受容されている。

ただし、覇権安定論は、引き続きリアリストの観点から国際社会をアナーキーであるという前提、すなわち国家間の「権威」は存在しないという前提から出発するため、たとえば、米国の軍事力や経済力が相対的に低下しいわゆる「多極化」した21世紀初頭にも引き続きリベラルな国際レジームが維持されている事態を説明できないという問題を抱える。そこで、ジョゼフ・ナイやジョン・アイケンベリーなどのリベラル派は、ギルピンの覇権安定論を修正し、覇権国の覇権の源泉をハードパワーあるいは強制力だけに求めるのではなく、非覇権国が覇権国の「権威」を認知することを通じて覇権の所在を合意するという覇権形態を正面から認め、それが国際秩序、特に多国間主義の安定性の基盤となるというビジョンを提示する。ギルピンの理論もアイケンベリーの理論も、覇権国の存在が国際秩序の安定性をもたらすと考える点は同じであり、米国のパワーあるいは権威の相対的低下という現状が多国間主義にとって挑戦であるという見方を支持するものであろう。

いずれにせよ、非覇権国である我が国にとっては、覇権国と非覇権国の間の「立憲的合意」に基づいて多国間主義の国際秩序が作られる、というリベラリズムのビジョンが、たとえばリアリズムのように大国の即物的なパワーゲームで国際秩序が決定されるというビジョンよりも、好都合だといえよう。更に、「覇権」の源泉が強制力のみではなく、「思想」や「規範」に裏付けられた「権威」もその源泉たりうるというリベラリズムの思考に立脚すれば、軍事小国も「覇権の共同構築」の一翼を担うことが可能となる。

勿論、これらの理論は全て「モデル」に過ぎないが、それでも「モデル」が広く共有され人々の認識枠組みの形成過程に強く作用すれば、それが現実行動に影響を与えるはずだ。従って、我が国としては、安保分野などでリアリズムに基づく事態展開の可能性への対応も怠らないようにしつつも、リベラリズムに基づく多国間主義が支配的な認識枠組みとなるよう、それを支持するエビデンスを蓄積することが国益に叶う。

そこで、我が国が獲得出来る「権威」とは何か、が次の問いとなる。筆者は、その問いに「通商政策2.0」の鍵が隠されていると考える。

「権威」の獲得に向けた「質重視の経済発展」のための通商政策

「通商政策2.0」は、上述の通り、覇権の共同構築に向けて考案・実施されるべきだが、その際考慮すべき要素がある。それは、経済成長以外の問題、たとえば環境、人権、労働、自然災害、公衆衛生などの社会問題の重要性が相対的に高まり、持続可能性や包摂性といったいわば「質重視」の経済発展の重要性が叫ばれるようになっている国際社会の現状である。NGOの影響力増大という今日的現象もこれと呼応する。これらの社会問題は、対応を誤ると、高度にグローバル化された世界経済の健全な運営を損なうリスクもあることから、同時に経済問題でもある。すなわち、「経済政策と社会政策に対するホリスティックな対応を通じた質重視の政策」が求められている。「質重視」の経済発展という考え方に寄り添う形で、国際経済に関する諸政策は調整される必要がある。国際的規模で見出される社会課題の解決、地球規模の「共通善」実現に向けて、「思想」の提起や「規範」の構築を行い、真の意味でグローバル経済化の成果を最大限多くの世界市民が享受することを確保する通商政策を講じるべきである。従来より環境・省エネなど各種の社会課題を製品・技術・サービスを通じて解決してきた経験を持つ我が国は、このような通商政策を通じて「権威」を国際社会で獲得する大きな潜在力がある。

なお、我が国の通商政策は、アジア太平洋地域の経済統合を重要アジェンダとして推進してきたが、質重視の経済発展の実現に向けた「通商政策2.0」を地域経済統合に適用して案出される概念が「包括的連結性」であると筆者は考える。成長センターである同地域の地域経済統合は、現在、FTAを通じた「制度的連結性」と、インフラ建設推進を通じた「物理的連結性」を通じて、深化してきている。しかし、中国提案の「一帯一路」が主要ターゲットとする中央アジア地域のようなこれから連結性を構築しようとする地域はともかく、我が国企業を中心として構築してきたアジア太平洋地域のバリューチェーン(VC)に関しては、より一層洗練された連結性を確保することによってのみ更に発展出来る局面に既に到達した。VCの機能不全に繋がる様々な事象を広く捉え、これらの発生可能性の減少や発生後のコスト最小化に向けた手立てを講じる必要がある。上記の様々な社会課題、たとえば人権、労働、自然災害といった問題に賢明な対応を行わない場合には、同地域のVCの円滑な運営に支障が生じ、いくら制度的連結性や物理的連結性を向上させてもそれらの効果が減殺されるだろう。

以上のように、質重視の経済発展を実現する通商政策が我が国の「通商政策2.0」の中身であるべきで、これを通じて信頼の置ける国々と「覇権を共同構築」し、アジア太平洋地域ひいては世界の政治的安定性を確保することが、ポストTPPの通商政策に相応しい。

2015年6月12日掲載

2015年6月12日掲載

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