『アベノミクス』の今後と我が国製造業の未来
― 望まれる「為替の安定」と「空間競争力の再構築」 ―

谷川 浩也
コンサルティングフェロー

安倍政権による脱デフレを目指した国際的には標準的な政策パッケージといえる「アベノミクス」は、昨秋のアナウンス以降、若干の調整は伴いつつも、劇的な円安と株高をもたらした。

アベノミクスによる効果、特に円安の進行は、「失われた20年」を通じて、過度の円高により競争力を阻害されてきた我が国製造業にとって画期的朗報といえ、これは過去20年余の円高継続の状況と我が国製造業の活動水準の推移を見ることで、かなり明瞭に確認できる。1970年代以降の市場での円ドル為替レートと購買力平価による為替レートの長期的推移とその水準の変動(図1)と、1990年以降の日米独の鉱工業生産指数(IIP)の推移(図2)を見ると、プラザ合意以降最近に至るまでの間、我が国は主要国と比較してもかなりの高水準で、市場レートが購買力平価によるレートを上回った状態が継続し、巨大なデフレ圧力として作用したことが見て取れる。また、かかる円高の進行に対応して、この間の我が国のIIPの長期的水準は横ばいに留まり、順調に増加した米・独と好対照をなしている。

「失われた20年」における日・米・独の製造業活動水準の明暗と3つの転換点

1990年(=100)を起点とする日米独三国間のIIPの推移を見ると、2013年3月時点で未だ100に回帰できていない日本に対して、米国が約160、および独が約130に達し、かなりの水準格差が生じているが、そこに至る過程において、概ね3つのトレンド転換点が観察できる。第1の転換点は、停滞する日独と上昇する米とのトレンドが分かれた1990年代初頭にあり、その主な原因は、日本においては、「円高シンドローム」と呼ばれた通商摩擦を背景とする市場の期待によって進行した超円高によるデフレ圧力(McKinnon, Ohno, Shirono(1999)参照)とそれを反映した我が国製造業企業による海外投資の増加といえるだろう。他方、独IIP停滞の背景としては、東西統一に伴うマルクの等価交換等による強いデフレ圧力や旧東欧への投資増加という当時の社会経済的情勢が強く作用したと推察される。

図1:購買力平価と実際の円ドルレート
図1:購買力平価と実際の円ドルレート
図2:日・米・独の鉱工業生産指数の長期的推移
図2:日・米・独の鉱工業生産指数の長期的推移

これに対して第2の転換点は、その後も停滞を続けた日本と米を追って上昇に転じた独とのトレンドを分かつ1998年前後に観察される。1998年末、独を含む当時のユーロ参加予定国は、それぞれの通貨とユーロとの為替レートを固定し、1999年初頭よりユーロをそれぞれの国での電子的決済通貨とした。これによって2002年初頭のユーロ紙幣および通貨の市場流通開始を待たずに貿易資本取引面では、統一通貨の導入に伴う為替リスクの消滅と旧独マルクにとっての為替安の固定化が実現した。これは、独の製造業がEU統一市場でビジネスを拡大していく上で強い追い風となるもので、同時期にアジア危機や山一危機を契機とする厳しい金融引き締め効果によって事業環境が悪化した日本の製造業とは、対照的な立場にあったと言える。

第3の転換点は、日本とトレンドを分けた独の水準が次第に米国の水準に近づき始める2003~4年頃に観察されるが、その直前の2002年には、独において解雇規制緩和も含む労働市場改革が断行された。これを受け、2000年代後半に独企業を含むEU企業の売上高利益率は長期低下傾向から上昇に転じたが、日本企業のそれは継続的に低下を続けた。日本では、既存需要の減少に対応する「人件費の削減」や「新規事業の創出」が円滑に実現できなかったことが利益率の長期的低下と製造業活動水準の伸び悩みに結実し(岸本(2008)参照)、この点について改革を断行した独で製造業が再活性化した可能性が高い。2000年代以降企業部門の内部留保が増加を続けたことも、メーンバンク後退に伴うリスクヘッジとの見方がある一方で、新規分野創出と資源再配分が円滑に進まないという問題の反映と捉えることもできる。

図3:日米欧企業の売上高利益率の長期的推移
図3:日米欧企業の売上高利益率の長期的推移
(資料)木下信行(2013)「我が国企業の低収益性等の制度的背景について」P9より転載

カギを握るのは、「為替の長期安定」と「空間競争力の再構築」による投資の誘引

以上を踏まえると、アベノミクスがデフレ脱却と日本経済再生に向けて実効を上げていくためには、成長戦略の中で「今後5年程度」と指定されると伝えられる『緊急構造改革期間』を通じた「(現行水準程度での)為替の安定」は不可欠の条件であろう。また、成熟経済における需要構造の転換に伴うスムーズな資源再配分、特に需要減少分野での固定費削減と新規事業分野での投資促進をともに円滑化する国内経済環境の整備も極めて重要な課題である。

そもそも経済的に成功している世界の多くの国は、政府が何らかの産業政策を実施することで、当該産業の発展とこれによる長期的経済成長を実現してきている。韓国、シンガポール、マレーシア、タイなどの東アジア諸国に止まらず、仏、豪、フィンランド、ノルウェーなどの国々も、保護措置、助成金、国営企業による投資などを通して、産業の発展をうまく方向付け、大成功を収めてきた。米国ですら、研究開発助成を中心に、コンピュータ、半導体、航空機、インターネット、バイオなどの産業を育成し、又は復活させてきた。国家の積極的関与自体が間違っている訳ではない。

ただ、現実の世界では、情報の不完全性やこれによる囚人のジレンマ的状況の存在により、政府が企図する望ましい新たな均衡への移行が必ずしも円滑に進まず、時に企図せぬ新たなデフレ圧力に転換する懸念がある。当たり前だが、成熟した経済において新規経済活動が全く生まれないならば、雇用を流動化し、又は女性や移民の労働参加を増加させても、生産性が向上すればするほど、更なる失業が生まれるだけかもしれない。かかるパラドックス的状況を突破するには、「新規事業又は投資の拡大」→「資源再配分の円滑化」という政策展開のシークエンスをより重視し、明確に示していくことが肝要である。

その意味では、為替安定と並び今最も優先的に実現すべきなのは、我が国の「経済活動空間」としての競争力を抜本的に強化し、国内で新規の事業投資が生まれ易くなるような環境の整備を本気で進めることではないか。ビジネスフレンドリーな税制、規制および行政サービスの実現は勿論のこと、使いやすい倒産法制や柔軟で十分な審査能力を有する金融機能を整備することは、当然必要なことである。『原子力再稼働を含む安定的エネルギー供給構造の再構築』も不可欠の課題であろう。2002年の独をはじめ、痛みを押して必要な政策を断行した国の経済再生は成功している。「製造業を営む空間」として、外資は勿論のこと、我が国企業にとっても『日本』が選択できるような空間条件を整備すべく、正しい政策を断固として展開すべきである。

(*)本コラムの内容について、詳しくは谷川(2013)をご参照頂きたい。

2013年6月6日
文献
  • Ronald McKinnon, Kenichi Ohno, Kazuko Shirono(1999)"The Syndrome of the Ever-Higher Yen 1971-1995: American Mercantile Pressure on Japanese Monetary Policy" NBER
  • 岸本太一(2008)「日本企業のROA水準長期的低下の論理~内需成長率、為替レート、石油輸入価格、を中心的論点として~」一橋大学大学院商学研究科博士論文要旨
  • 谷川浩也(2013)「円高デフレの是正と製造業の今後―失われた20年の構造分析と機械産業の課題―」機械振興協会経済研究所編 『機械経済研究』 No.44

2013年6月6日掲載