「名古屋議定書」の国内措置をどうするか

髙倉 成男
コンサルティングフェロー

たとえば、A社がB国から入手した遺伝資源(生物)(注1)を利用して利益を上げたとき、A社はB国に利益を配分する義務があるか――これが環境と開発の分野で20年以上にわたって論争が続けられている「遺伝資源へのアクセスと利益配分」(Access and Benefit-Sharing: ABS)の問題の典型的な争点である。

ABSの問題は、1992年の生物多様性条約から始まった。この条約は、「各国は自国の遺伝資源へのアクセスについて規制を定める権限を有する」ことを確認し、「利益配分は当事者の合意による」ことを前提に「各国の政府は利益配分を実現するための措置をとる」ことを規定したものの、資源の提供国(主に途上国)は、利用国(主に先進国)のとるべき措置の内容があいまいであることを不満とし、対立が続いてきた。2010年に名古屋で開かれた生物多様性条約第10回締約国会議は、ABSに関する具体的な取り決めである「名古屋議定書」を採択し、長年の論争に一応の終止符が打たれた。しかし、実行はこれからである。

我が国は現在、「2015年までの実行」を目指し、議定書の批准と国内措置の導入に向けた検討を進めている。議定書の早期批准に異論はないが、批准に伴って導入される国内措置が国内の利用者(企業、大学等)に不要な負担を課し、バイオ分野のイノベーションを阻害することがないよう関係当局に慎重な検討を求めたい。

以下では、「外国の遺伝資源の利用の監視」および「国内の遺伝資源へのアクセス規制」について、国内措置を導入する際の留意点を例示する。またABS問題のような価値多元的な問題に対する取り組みのあり方について短く私見を述べる。

外国の遺伝資源の利用の監視(日本が利用国である場合の措置)

第1に、利益配分は、当事者の自由な交渉に基づく「相互に合意する条件」(Mutually Agreed Terms: MAT)によるべきであり、政府が不要な介入をすべきではない。たとえば、同じ遺伝資源の利用でも研究の場合と商業化の場合ではMATの内容が異なるのが当然である。その内容は当事者に委ねるべきであって、法律で一律に定めるべきではない。ただし、当事者の参考となるベストプラクティスの作成は有益である。

第2に、議定書の適用範囲の明確化。たとえば、「解明された遺伝情報」や「遺伝資源と化学的に同一の合成物質」は、それ自体では天然に存在しないものであるから、遺伝資源にあたらず(注2)、したがって議定書の範囲外であると解釈することができる。他方、小麦、大豆のような一般流通品(コモディティ)であってもそれだけの理由で議定書の範囲外になることはない。もっとも、一般流通品の場合は、利用の態様について当事者に暗黙の合意があるので、その合意に反しない利用である限り、利用者が購入の対価を支払った時点で利益配分が行われたと評価することができる(注3)。もちろん、こうした点についての見解は国によって異なる可能性もあるが、いずれにせよ、我が国の政府は、「監視」に係る議定書の適用範囲についての解釈を具体的に国民に示し、何が違法であるかがよくわかるようにしておくべきである。

第3に、外国からの保護要求(外国の遺伝資源および伝統的知識を我が国において保護せよとの要求)に対して適切に対応できる体制を整備すること。たとえば、伝統的知識は、条約上「原住民の社会・地域社会」のものに限られるところ、その範囲を超えるものについての保護要求があったとき、「それは議定書の範囲外である」と即応できる体制(官民の協力による機動的体制)を整備しておく必要がある。

日本国内の遺伝資源へのアクセス規制(日本が提供国である場合の措置)

名古屋議定書上、各国が国内遺伝資源の利用者に当局の「事前の了承」(Prior Informed Consent: PIC)を得よと要求することは、各国の権利である。PIC制度を導入するか否かは、各国の自由である。仮に日本がPIC制度を導入すると、国内資源を利用するのは大半が日本の企業等であるから、全体として日本の企業等の負担が増加する(外国の利用者にのみPIC義務を課すことは、内国民待遇の原則から許されない)。他方で、その負担増を正当化する根拠はまだ明らかではない。よってPIC制度の導入は、急ぐべきではないと考える。

ただし、一部の国の特許庁は、出願人に遺伝資源の出所の開示および証明を求めているため、日本の企業等が日本の遺伝資源を利用している場合に、遺伝資源の出所証明書を日本政府から発給してもらう必要があることから、その限りにおいて、PIC制度は必要である。この場合のPIC制度は、出願人の義務としてではなく、出願人の任意の求めに応じて証明書を発給する日本政府の義務として構成すべきことにも留意が必要である。

ABS問題への取り組みのあり方

名古屋議定書は、基本的に環境条約であるが、バイオ分野の発明の保護に関連して産業や貿易や農業との関係が深く、また「病原体」を適用外とすることに関連して公衆衛生とも関係がある。伝統的知識の保護に関連して先住民族の権利にも関係する。

複数の価値観が交錯する問題について、だれもが納得するただ1つの解決を一度で見出すことは難しい。多くの関係者の意見を整理し、合意できるところから実行し、国際動向なども考慮しながら、段階的に修正していくというような手続をとることが合理的であろうと考える。

名古屋議定書の国内法化にあたっては、義務規定と権利規定を峻別し、特に権利規定に対応する国内措置の導入については、価値多元的な政策選択の問題であることを認識し、より慎重で段階的な手続によることが望まれる。

2013年5月14日
脚注
  1. ^ 生物多様性条約は、「遺伝の機能的な単位を有する植物、動物、微生物その他に由来する素材」であって「現実の又は潜在的な価値を有する」ものを「遺伝資源」と定義している。大雑把にいえば、「遺伝資源」=生物又はその部分である。なお、人間は、条約の適用対象外である。
  2. ^ 名古屋議定書は、「遺伝資源」の「派生物」を定義しているが、その定義の中で「派生物」を「天然に存在する」ものに限っている。このことは、「遺伝資源」も天然に存在するものに限られることを示唆している。天然に存在しないものから、天然に存在するものが派生することは、通常ないからである。
  3. ^ ただし、たとえば、外国の市場で食用として売られている大豆を入手し、これを新薬の開発に利用するときは、当該提供国の法律によっては、当該国の事前の了承などが必要になる場合がある。

2013年5月14日掲載

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