イノベーションと競争政策

川濵 昇
ファカルティフェロー

競争とイノベーションの複雑な関係

ソ連の崩壊から20年以上が経つ。社会主義経済の失敗の原因については諸説あろうが、イノベーションの停滞はその重要な理由の1つであろう。確かに、ソ連はスプートニクショックを引き起こすほど基礎技術において高度な水準を達成したこともあった。だが、消費者のニーズを開拓し利潤機会を梃子に技術を利用していく契機を欠いた体制では全般的なイノベーションは進展しなかった。利潤動機に導かれて、消費者のニーズを発見し、それに対応する製品をより安価に提供すべく多様な実験を試みることができる自由市場経済は、「イノベーション装置」 i と呼ぶだけの機能を果たすのである。

自由市場経済の性能はそこでの競争を通じて発揮される。しかし、周知のようにイノベーションについてシュンペーター以来、競争的市場よりも独占的市場の方が望ましいという主張がなされてきた。研究開発に関する投資費用・リスクをとるには市場支配力を必要とし、また、成功後に競争から隔離された利潤が投資インセンティブに必要だというのである。これに対して、独占的企業の場合には既存製品等との置換ゆえにイノベーションインセンティブが低下することや活発な競争はそこから抜け出すためにイノベーションを行うインセンティブが向上することを理由として競争市場の方がイノベーションを促進するというしばしばアローの名を冠される立場が対置されてきた。さまざまな研究が行われてきたが、英国市場を素材に費用価格マージンで図った製品市場の競争度とイノベーションとの間に逆U字型関係があることを示したアギオン等の研究 ii に代表されるように逆U字型関係が想定されるのは一般的であろう。製品市場の競争の強度(集中度で図るにせよプライスコストマージンで図るにせよ)とイノベーションとの関係は、当該市場における競争の状況(非対称か否か)、想定される研究開発の種別(ドラスティックか否か)によってさまざまなパターンが考えられる。近時の理論的分析が教えてくれるのはそれらのインセンティブ等がどのような状況でいかなる効果をもつかである。これは、研究開発インセンティブに特許がどの程度まで有益なのか、最適な特許範囲と期間はどうかといった問題と同じく、単線的な答えは存在しないものと考えられる。

競争政策をめぐる誤解

さて、上述のような複雑な関係は競争政策にとって大きな問題を引き起こすと考えられてきた。競争政策は、しばしば短期的な市場支配力の形成・維持・強化を介入の際の基準としている。これでは、国民経済にとってより重要な動態的競争を評価に入れていないのではないか。そのような競争政策は短期的な効率性の追求によってより大きな効率性を見失うものではないか。

これらの疑問は、競争政策への誤解から生じる側面がある。競争法による介入は、短期的な市場支配力の存在そのものを問題視するものではなく、競争プロセスに対し競争回避や競争排除といった悪影響を加えて、しかる後に市場支配力の形成等やその危険性がある場合を問題視するものなのである。競争プロセスを害する行為による市場支配力の形成等がイノベーションに必要な場合が特定されてはじめて競争政策と動態的競争が緊張関係に立つのである。たとえば、価格カルテルによる市場支配力形成がイノベーションを促進することはありそうもない。また、短期的に市場支配力の形成等をもたらす企業結合も、研究開発を通じた効率性が明確に示されない限りイノベーションに役立ちそうにない。もちろん、研究開発の促進のために行われる共同行為が一方で短期的な競争回避と他方で効率性の改善効果を持つ可能性は否定できないものの、ハードコアな競争回避が研究開発の成功に必要な場合は滅多にない iii

イノベーションのための競争政策へ

我々にとって重要なのは競争政策を通じた動態的競争の促進ではないか。短期的・静態的競争がイノベーションに結びつくかどうかは別にして、ある種の行為がイノベーションの側面での競争を抑圧することは十分に存在する。たとえば、米国のマイクロソフトの独占化事件で問題とされた排除行為のうち、JAVAに対するものは、マルチプラットフォームとして成長しそうなJAVAに関連する技術開発を妨害するものであった。イノベーション競争の抑圧がOS市場の独占を長期化することが問題となったのである。米国では1995年の知財ガイドライン以来、イノベーション市場が規制上重要な役割を果たしている。これは、研究開発段階での競争活動を評価するために、製品や技術などの取引市場を離れた評価の場を仮想するものである。わが国でも最近になってマイクロソフトNAP条項事件やクアルコム事件のように研究開発のインセンティブを低下させることでもって自由競争を減殺する行為が問題とされるようになった。

ここで見た例はイノベーションにおける競争行為を直接排除する行為を問題としたものであるが、たとえば、米国の2010年改訂企業結合ガイドラインは企業結合の結果、当事会社が研究開発のインセンティブを低下させる場合をも問題とすることを明言している。米国の企業結合規制でしばしば用いられているイノベーション市場概念がわが国でいう「一定の取引分野」に該当するか否かが問題となるが、同概念を経由しなくとも識別可能なイノベーションの数が少ない時、状況次第でイノベーションを停滞させるインセンティブが発生することもあり得る。わが国での企業結合規制はこれまで短期の影響に集中しがちだったことは確かであり、この面で遺漏がなかったか否かを検討する作業が必要である。

イノベーションにおける競争を減殺する行為等の評価には、それらの行為が具体的コンテクストでイノベーションを行う能力とインセンティブにどの程度影響するかを判断する必要がある。これは複雑な作業ではあるが、イノベーションと競争の複雑な関係についての近時の理論的展開の助けを借りて、取り組む価値のある問題ではないか。

2011年12月6日
脚注
  1. William J. Baumol,The Free-Market Innovation Machine: Analyzing the Growth Miracle of Capitalism (Princeton University Press 2002)
  2. Philippe Aghion et al., Competition and Innovation: An Inverted U Relationship, 120 Q.J.ECON. 701 (2005)
  3. スピルオーバー効果が大きい場合、研究活動の共同化が研究開発活動のインセンティブを向上させるが、通常はハードコアの競争回避を必要とはしない。なお、研究開発の共同化が製品市場での競争を回避させる効果を持つ場合は困難な問題を惹起するが、これは非ハードコアカルテル一般の問題である。

2011年12月6日掲載

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