スペシャルコラム

リーマン・ブラザーズ破綻(下) ― 通貨と金融の両面における新しい国際協調の可能性

小林 慶一郎
上席研究員

リーマン・ブラザーズ破綻後、金融危機への対応も急激に変化した。この週末には、米財務省とFRB(米連邦準備理事会)は、7000億ドル(約75兆円)の公的資金枠で、金融機関の不良資産を政府が買い取る抜本的な金融再生政策の枠組みを提案した。7000億ドルという枠が十分なのかどうか、また、この緊急対策がスムーズに実現するかどうか、はまだ不透明だが、不良資産である住宅ローンや住宅ローン担保証券を政府が直接買いとる枠組みが出来れば、資産デフレ(金融機関の投げ売りによって住宅価格などの下落が続くこと)は、止められるかもしれない。資産デフレがとまれば、今回の金融危機がアメリカや世界の実体経済を大恐慌に陥れる心配はなくなるかもしれない。

しかし、事態が沈静化するにしても、冷戦後に続いていた世界経済成長のメカニズムが、今後は維持できなくなってきた、ということははっきりするのではないだろうか。過去10数年、アメリカは金融産業で大きな付加価値を稼ぎ出し、資産価格(前半は株価、後半は住宅価格)の上昇による資産効果で、アメリカの消費者は旺盛な消費を維持してきた。アメリカの消費に支えられて、中国をはじめ、世界中の経済が成長できたわけである。今後、アメリカの株も住宅も再び資産価格上昇に転じるとは考えにくいし、金融業界が莫大な収益を上げるという産業構造も変化せざるを得ないだろう。つまり、「世界経済の最終消費者」としてアメリカが世界経済を牽引する成長モデルは、維持できないのではないだろうか。

そこで、本稿では、足元の金融対策からやや視線を遠くに移し、長期的な国際通貨システムのあり方まで含めた危機対策を考えてみたい。

今後の展開を変える新しい国際協調の枠組み

前回のコラムでアメリカの金融危機の深刻化とドルの下落は、主に中国などの新興国に、大きな経済調整の負担をもたらすことになるだろうと書いた。理論的には、変動相場制の下で、自由に人民元のレートが変化することで経済調整の負担は減るはずだが、現実には、過度に急激なドル下落は中国にとって大きなコストを伴う。ドル安、人民元高という為替レートの調整が長期的に避けられないとしても、ドルの下落スピードを緩やかにするよう制御することは、中国の利益にもなるわけである。社会不安や少数民族問題など、経済以外の社会的な調整のコストを大きく減らすことができるからである。

そこで、今後の展開を変える新しい国際協調の枠組みとして、「自己資本不足になっているアメリカの金融機関に、中国の公的資金(外貨準備)を注入することによって資本増強し、ひいてはドルの価値安定を目指す」という政策スキームを考えることができるのではないだろうか。こういう政策は、アメリカにとって利益があることはもちろん、中国にとっても、ドルの急落による社会的な調整コストを減らせる、という意味で大きなメリットがある。米中双方にとってメリットがあるのである。

もちろん、軍事面で対抗している現在の米中関係を考えれば、直接に中国政府が米国の主要金融機関の株主になるということは、ありえない。中国政府のコントロールが米国の主要金融機関の経営におよぶような出資はアメリカの安全保障にかかわる、という議論になるだろう。しかし、そこは多国間で出資スキームの形式を工夫することで解決できるのではないだろうか。

具体的には次のような政策スキームの例を考えることができる。たとえば、日本政府がファンドを組成し、そのファンドが発行した債券を中国政府が公的資金によって購入する。つまり、中国はあくまで日本のファンドに対して貸付を行う、という形にする。この日本のファンド(「東アジア為替安定基金」とでも名づけよう)が、自己資本不足に陥ったアメリカの金融機関や政府系住宅公社などに、議決権のない優先株か劣後債の形で出資するのである。こうすれば、まず、中国政府はファンドの債券を買うだけなので、ファンドの意思決定に対する中国政府の影響力を小さくできる。さらに、ファンドは議決権のない優先株か劣後債の形で米銀に投資するため、ファンドも米銀の経営に対して限定的な影響力しか持たない。こうして、経営支配力を遮断する壁を2重につくることによって、アメリカの金融システムに中国政府が介入する可能性をかなりの程度減らせるわけである。

「東アジア為替安定基金」の債券を、中国以外の国々も購入するような多国間の政策協調を作ることができれば、中国政府の支配力はさらに低下させることができる。東アジアファンドに資金を拠出する他の国々(日本や韓国などのアジア諸国)が米国の友好国であり、アメリカの金融システムに特異な戦略的干渉を行わない、という前提に立てば、東アジアからの公的資金の注入は、アメリカにとっては歓迎すべき政策ということになるだろう。中国の資金も、中国政府の影響力を遮断した形で東アジアファンドを経由して米銀に投資されるなら、アメリカにとって大きな利益になる。

一方、こうした枠組みに中国が外貨準備などの公的資金を拠出することは、中国にとっても損はない。短期的には、自己資本不足のアメリカ金融機関に出資するのだから、住宅価格の下落が続けば、当面は出資した中国は多額の評価損を出すことになる。しかし、10年単位の超長期で考えれば話は違ってくる。日本でも、98年の金融危機の時には倒産寸前といわれた大手金融機関が、いまでは収益を伸ばし、98年―99年に注入された公的資金はかなり大きな収益を日本の納税者にもたらしている。

同じように、アメリカの金融機関に中国の公的資金で資本注入すれば、遅くとも10年か15年後には、アメリカの金融システムが健全性を取り戻し、中国政府に多額の収益をもたらすことになるだろう。超長期の外貨準備の運用という意味では、破綻しかかった米銀への資本注入は、中国にとってある程度は理に適った方法といえるのではないだろうか。さらに、外国の資金による資本注入が行われれば、アメリカの金融システムの健全性が高まり、ドルの信用が高まる。また、アメリカ政府の財政赤字の拡大幅も小さくできるので、財政面からもドル安要因は小さくなる。

したがって、外国からの資本注入が実現すれば、当面、(人民元など)他国通貨に対するドルの下落スピードは緩やかになるはずである。ドル安が急速に進んだ場合に中国が支払わなければならなくなる巨大な社会的、政治的なコストを考えれば、ドル安を緩やかにするために米銀に資本注入する、という政策は、中国政府にとって、政治的にも採算がとれる政策だと認識されるのではないだろうか。

この東アジアファンド構想の肝は、通貨政策と金融システム対策を結び付けて考えることである。通常、金融システム対策は一国の国内問題であり、通貨秩序とは独立に考えられている。また、逆に、通貨政策の手段として金融機関対策を考える発想は通常ありえず、通貨政策では通常、為替介入のみが議論の対象となる。しかし、基軸通貨ドルを有するアメリカの金融システム問題は、一国の金融問題であると同時に世界的な通貨問題でもある。金融システム安定化のための政策手段が、そのままドルの価値安定という通貨政策に結びつく。ドル価値安定が世界経済の中で公共的意義を持っていることを考えると、「中国などを含めた国際協調の枠組みでアメリカの金融システムへの資本増強を行う」という発想が現実的な選択肢としてありえるのではないだろうか。

国際通貨システムについての発想を逆転

ここで述べた東アジアファンド構想は、現在の基軸通貨システムにまったく新しい発想をもたらすかもしれない。他国の公的資金によってアメリカの金融システムとドルの通貨価値を安定させる、ということは、他国の納税者(あるいは他国政府の徴税能力)が、ドル価値を支える、ということであるからだ。

いまの通貨システムでは、ドルの価値を支えるのは、アメリカの納税者であり、アメリカ政府の徴税能力である(一国の通貨の価値が決まるメカニズムについてはいくつか学説があるが、政府がこれから将来にわたって徴税できる税収合計の割引現在価値によって通貨と国債の実質的な価値が決まる、という見方は、標準的なものといってよいだろう)。

国際政治や安全保障の面を無視して、ごく単純化していえば、国際的な公共財である基軸通貨の価値を、アメリカ一国が支え、他の国々は、アメリカにただ乗りしている、というのが現在の基軸通貨システムであるともいえる。日本や中国などの貿易黒字国は、大量のアメリカ国債を買い入れることによってドルの価値を支えている、ということもできるが、それはあくまでアメリカの債券を買っているのであり、ドルに対する「持ち分」を買っているわけではない。ドル価値はあくまでアメリカ政府の徴税能力で決まり、黒字国はそのドルで表示された債券を買っているわけで、ドルの通貨価値を支える、というコミットメントをしているのではないのである(ドル安方向への為替変動によって、実際は、黒字国はドル価値を支える役割を、ある程度、非自発的に果たしてはいるのだが)。

外国の納税者の資金(外貨準備などの公的資金)がドル建ての金融機関の株式に投資されるということは、外国の納税者が、アメリカ経済の変動リスクを引き受けて、ドルの通貨価値を支えることにコミットするということと同等である。

これまで、世界経済の取引単位となっていた国際通貨は、基軸通貨ドルもユーロも円も、その通貨を発行している国や地域の政府の徴税能力に支えられていた。つまり、それぞれの国や地域の国内通貨が、たまたま、貿易や投資で国際的に使われるようになったものだった。発想を逆転させ、国際的な取引に使われる基軸通貨を、発行国の政府だけではなく、基軸通貨の利益を受ける諸外国の納税者(諸外国政府の徴税能力)によって支える、という考え方があってもよいのではないだろうか。

今回の金融危機がなくても、アメリカの経済力はますます相対的に低下し、中国やインド、ロシア、ブラジルなどの新興国が世界経済の中で大きな比重を占めるようになる。アメリカ経済は、今後、普通の大国程度の経済規模になっていくだろう。一方、軍事的には、アメリカの超大国としての覇権はゆるぎない。軍事力は、世界経済において、取引の決済の履行を最終的に保証する権力という意味を持っている。したがって、アメリカが世界において支配的な軍事力を持っているということは、アメリカが世界経済の決済を最終的に保証する暴力装置をほぼ独占していることを意味している。つまり、アメリカの通貨であるドルが世界経済の決済通貨(すなわち基軸通貨)として使われることの正当性が、アメリカの巨大な軍事力で担保されている、ということである。この状況は、今後も依然として変わらないのである。

こうした中で、近い将来、アメリカ以外の他国の通貨が、世界経済の中で支配的な地位を占める基軸通貨になるとは考えにくい。当面、ドルを中心的な基軸通貨とする通貨システムを維持することが世界の政治経済的な安定のためには必要といえるだろう。一方で、アメリカの経済力が相対的に衰退することを考えれば、ドルの通貨価値をアメリカ一国の経済力や徴税能力で支え続けることには限界があるかもしれない。だとすれば、「基軸通貨ドルの価値を、アメリカだけでなく、主要な経済大国の政府の徴税能力によって支える」という考え方は、新しい安定した基軸通貨システムのあり方として構想することもできるのではないだろうか。

今回、我々が直面しているアメリカの金融危機という問題は、世界に大きな歴史的選択を迫っているのかもしれない。

2008年9月22日

2008年9月22日掲載

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