ペコちゃんも涙する「CSR」の希薄

藤井 敏彦
コンサルティングフェロー

先日久しぶりに新聞に「CSR」の言葉を見つけた。有識者がCSRを持ち出して不二家を辛らつに非難していた。三菱自動車や雪印の事件で「CSR」が連呼されたのは数年前。不祥事とCSRへの関心は正の相関関係にあるようだ。読者の期待を裏切るかもしれないが、私の関心は実は不二家の一件そのものではなくペコちゃんを断罪する「CSR」の便利な使われ方にある。所変われば品変わる。日本の禅はアメリカに渡ると「究極のリラクゼーション」となる。ヨーロッパのCSRは日本でどうなっただろう1? 法令遵守の文脈で問答してみよう。

法令遵守とCSR問答

問その1:日欧米および中国の中でCSRに法令遵守を含めるのはどこか?
答:日本と中国。
EUはCSRを定義するに当たって明確に法令遵守を排除している。北京駐在のEU官僚は中国のCSRをこう評している。「中国のCSRプログラムは欧米とちがう。欧米のCSRは法令の義務を上回る部分だが、中国のCSRは政府が企業に法令を守らせるためのものである。2

問その2:なぜEUは法令遵守をCSRに入れないのか?
答:CSRは法令遵守では解決できない問題に対処するためのものだから。
パリの若者の暴動を思い浮かべて欲しい。あの状況はヨーロッパでは「社会的排除」とされる。根には若者の長期失業、不安定な雇用の問題がある。政府の努力だけでは解決はおぼつかない。だから企業は「社会的責任」として協力を引き受けた。これがCSRの出発点である。規制では解決しない問題の存在がCSRを産んだ。同じ理由でフィランソロピーもCSRには入らない。ある日本企業がフランスの子会社に法令遵守をCSRとして説明したら、「30回『ノン』と言われた」。理念の力は合理的な定義にある。

問その3:EUでは法令遵守は問題になっていないのか?
答:ヨーロッパでも法令遵守違反のスキャンダルは後を絶たない。
彼らはこう考える。法令遵守は永遠の課題。世の中に犯罪が無くならないのと同じく企業の法令違反もなくならない。したがって、「法令遵守もできないのに、自主的な取り組みなんて」という考え方をしていたら、自主的な取り組み(=CSR)は永遠にできない。

問その4:日本ではCSRは企業の自主性に任されるものとされているのになぜ法令遵守がCSRに入るのか。
答:ご指摘ごもっとも。矛盾している。
ちなみに中国の地では特にCSRが眼目を置く労働時間などの労働関係については法令違反がむしろ常態との分析が国際機関等から多く出ている3。政府が企業に取り組ませるものであるとすれば、法令遵守がCSRであっても論理は一貫している。

問その5:CSRってわかるようでわからない。なぜ?
答:日本ではCSRと言いながら別のことが語られるから。

日本のCSR=百貨店の包み紙

タイで活動するアメリカ人コンサルタントは私にこう嘆いた。「タイの企業はCSRをフィランソロピーのリブランディングだと思っている」。
一方、日本が「CSR」という言葉に接したその瞬間に起こったことをやや戯画化するとこうなる。法令遵守、社会貢献、企業倫理、地球温暖化問題、生態系保全、あらゆる分野の有識者、実務家がCSRの主役を主張した。優秀なコンサルタント諸氏は全てを包含する絵を描いて見せた。結局、日本のCSRは外縁がなく心棒もない、「企業に関係する何か社会的に意味があること」というくらいの含意となる。なんにでも使えて便利この上ない。しかし長所の裏側は短所だ。CSRとして語られることはCSRという言葉なしでも語り得ることばかり。日本の「CSR」はその便利さの代償として政策的意義、理念としての規範力をほとんど持たなかった。もてはやされたのは新しい言葉だったからだ。
禅から宗教性が抜けたが、日本がCSRから捨象したのは持続的発展のための人材の重要性である。日本はヨーロッパの苦悩を追体験しつつあるのに。日系ブラジル人コミュニティの実情を見ればフランスの若者(多くは移民の2世)の暴動は決して他人事には思えないだろう。社会が分裂してしまうのではないかというヨーロッパの危機への処方箋がCSRである。問われているのは移民の子弟の採用であり、アルバイトの若者の教育訓練であり、正社員との報酬の公平である。

CSRの遠心分離

もっとも、ある概念が広く人口に膾炙すると「便乗」の動きを誘発し、遠心力が作用することは洋の東西を問わない。労働問題から出発したヨーロッパでも今では環境から肥満までCSRの項目となっている。日本では空気のようになったCSRであるが、一方ヨーロッパでは戦闘的NGOの存在もあり、過剰積載で動きがとれなくなったダンプカーのようになりつつある(それでも原則は守られており法令遵守やフィランソロピーは入らない)。結果、CSRに対する政治的な「反作用」が発生、企業競争力とCSRが二律背反扱いされつつある。
CSRは不正を斬る正義の印籠ではないし同時にあらゆる社会問題への処方箋でもない。政策概念として特定の目的をもって創造された。原点に立ち戻るべきなのは不二家の経営陣だけではないのかもしれない。

2007年3月20日
脚注
  1. 詳細については拙著『ヨーロッパのCSRと日本のCSR』2005年,日科技連出版を参照ありたい。
  2. FINANCIAL TIMES ASIA, February 26 "China's good corporate citizens find their voice"
  3. たとえば世界銀行, Strengthening Implementation of Corporate Social Responsibility in Global Supply Chains,[PDF:573KB]

2007年3月20日掲載

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