「失われた10年」の原因は何だったのか

小林 慶一郎
研究員

最近はデフレ・スパイラルや金融危機の懸念もなくなり、日本経済はほぼ正常化したといえそうである。しかし、過去十数年におよぶ長期不況の原因は何だったのか、という点については、明確な通説もできていないように思われる。

ここでは、「景気循環会計(Business cycle accounting, BCA)」という手法を使った日本経済の分析結果を示し、長期不況の原因としてどのような問題が重要だったのかを考察したい(分析の詳細は、RIETI Discussion Paper: “Business Cycle Accounting for the Japanese Economy”を参照していただきたい)。

景気循環会計とは

不況の原因そのものは分らなくても、「投資市場」、「労働市場」、「財市場」など、日本経済のどのセクター(市場)にどの程度の大きさの「ゆがみ」が存在していたのか、が分かれば、不況の原因や解決策を推理する手がかりになる。

各セクター(市場)のゆがみを測定する手法としてミネソタ大学の経済学者(V. V. Chari, P. J. Kehoe, E. R. McGrattan)が提唱したのが景気循環会計である。

一国の経済を新古典派の経済成長モデルで近似できると仮定すると、各市場が効率的なときに、理論的に成り立つはずの関係式がモデルから導出できる。たとえば、労働投入が効率的ならば、消費と余暇の限界代替率(消費者が、消費をどれだけ増やせるなら余暇を1単位追加的に犠牲にして働く気になるか、を示す比率)が労働の限界生産性(企業が、労働投入を1単位増やすと、どれだけ生産が増えるか、を示す比率)と理論上等しくなるはずである。しかし、何らかの原因で労働投入が非効率になると、限界代替率と限界生産性は一致しなくなる。限界代替率と限界生産性の不一致の度合いを測ると、それが労働投入の「ゆがみ(wedge)」の大きさをあらわすことになる。

同じような方法で、設備投資や生産性についても「ゆがみ」を計測することができる。

さらに、こうして測定された各セクターの「ゆがみ」それぞれについて、そのゆがみが有った場合と無かった場合で、経済がどのように変化するか、をモデル・シミュレーションで示すことができる。たとえば投資市場のゆがみが有る場合と無い場合で、シミュレーションの結果があまり変化しないならば、投資市場のゆがみは景気動向にあまり影響していなかったと判断できる。このようにシミュレーションによって、どの「ゆがみ」が日本の失われた10年を引き起こしたのか、ということを推定できるのである。

日本の長期不況の要因分析

日本経済について、シミュレーションの結果を示したのが次の図1である。不況を引き起こした可能性のある「ゆがみ」として、「労働投入のゆがみ」、「設備投資のゆがみ」、「生産性の変化」、「政府の財政支出の変化」をまず計算した。そして、それぞれのゆがみがどういう効果を国民総生産(GNP)に対して持っていたかを図1のグラフで示した。

図1

現実のGNPの動きを示したのが、太線(線(1))である。基準となる水平線(線(2))は、労働、投資、生産性、財政のゆがみや変化が80年代のままであったとしたときの仮想的な国民総生産をあらわす。これは90年代以降の景気変動を見るときのベンチマークであり、すべての基準とするため水平線で示した。線(1)、(3)~(6)は、ベンチマークのGNPを100としたときの相対値を示している。

まず「政府の財政支出の変化」が景気に与えた効果は、線(3)だ。90年代、線(3)は基準線(2)よりも上にきているので、財政の変化は景気を押し上げる効果があったことになる。しかも、消費税増税のあった1997年でも財政の景気拡大効果は失われていない。消費税増税が景気悪化を招いたという説は、景気循環会計の結果とは矛盾するといえる。

「生産性の変化」による景気の変化は、線(4)で表される。現実の動き(線(1))と形状は似ているが、90年代末の金融危機までは基準線(2)の上にきている。このことは、生産性の悪化が経済を押し下げる効果が90年代末までは強くなかったことを示唆している。何らかの原因で生産性が悪化したことが長期不況の原因だったという見方は、現在、かなり有力な説である。しかし、景気循環会計の結果は、生産性の悪化が長期不況の決定的な要因ではなかったかもしれない、という可能性を示すものといえる。

「設備投資のゆがみ」による景気の変化は、線(5)である。これは、90年代にはだいたい基準線付近にあり、企業の投資は景気を悪化させた大きな原因とはいえないことがわかる。これも少し通念とは違った結果である。企業が不良債権で苦しみ過少投資になったのが不況の主因だ、というイメージがあるが、景気循環会計で見ると、投資を通じた経路は必ずしも非効率ではなかった可能性がある。

むしろ「労働投入のゆがみ」が大きな問題だったことが分かる。線(6)は労働投入のゆがみが経済を押し下げる効果を示している。90年代初頭以降、労働のゆがみの効果は悪化の一途をたどっていたことが分かる。他のゆがみと比較すると、労働投入のゆがみが、長期不況の最大の要因であったといえそうである。

なぜ労働投入は非効率になったのか

労働投入のゆがみが増大したこと(すなわち限界代替率と限界生産性の乖離が広がったこと)が長期不況の要因であったことは景気循環会計から分かった。しかし、労働投入がより非効率になった原因としては、複数の異なる説明が考えられる。

1つの説明は、労働投入のゆがみは、日本経済の長期的な構造変化の結果として起きている、というものだ。そうだとすると、「ゆがみ」の変化は、実は不況の発生と関係なく、不況の以前から続いていた、ということになる。たとえば、労働者の社会的地位の向上に伴って、労働者の賃金交渉力が趨勢的に高まってきたとすれば、労働投入の「ゆがみ」の拡大としてデータに表れるかもしれない。

図2

そこで、長期的な労働投入のゆがみの推移を示したのが図2である。労働投入のゆがみは1984年から悪化しはじめていた(細線)。しかし、労働のゆがみがトレンド的に悪化しているように見えるのは、何らかの測定誤差による可能性もある。実際、生産関数の形を調整1して改めてゆがみを計測すると、太線のようになる。調整されたゆがみは、不況開始と同時に悪化が始まっている。つまり、不況より前に労働のゆがみが悪化していたという結果は、測定誤差であった可能性が排除できないと思われる。

労働のゆがみの悪化が不況開始と同時に始まったのだとしたら、なにが労働投入を非効率化させた原因なのだろうか。

標準的な説明は、賃金の粘着性(あるいは下方硬直性)であろう。賃金が粘着的であるときに、金融引き締めなどのデフレショックが加わると、実質賃金が上昇し、労働投入が非効率になる。この説明は、たしかに90年代初頭の出来事とは整合的である。バブル末期には激しい金融引き締めが行われた。しかし、この説明は、90年代後半のデータと矛盾するように思われる。労働のゆがみは90年代を通じて悪化し続け、2000年代に入ってもさらに悪化し続けている。一方、実質賃金は90年代半ばから低下し始めている。実質賃金の高まりが労働の「ゆがみ」を大きくしていたのなら、90年代後半も、実質賃金は上がり続けなければならなかったはずだ。

90年代後半も労働のゆがみが悪化し続けたことを説明する仮説として、私が気に入っているのは、「地価や株価の下落が、担保制約を経由して労働の『ゆがみ』を拡大しているのではないか」という考え方である。標準的な新古典派モデルに担保制約を入れると、担保の価格が下がれば消費が抑制され、結果的に労働投入も減ることが示される。つまり、担保制約のある経済で資産価格が下がり続けると、労働投入のゆがみが悪化するように見えるのである。日本では土地担保の借り入れが主要な資金調達手段であったことと、地価が90年代以降も一貫して下がり続けていることを考えあわせると、この仮説にはかなり説得力があるように思われる。

アメリカの大恐慌についての景気循環会計でも、1930年以降、労働投入のゆがみが急激に拡大したことが示されている。労働投入のゆがみの悪化は、大恐慌型の不況が発生することと、何らかの重要な関連性があると考えられる。大不況期には労働投入のゆがみがなぜ悪化するのか。このメカニズムを明確に説明することが、長期不況に関する経済理論の大きな課題といえる。

2005年9月6日
脚注
  • 1. コブ=ダグラス型の生産関数で、資本(および労働)のべき数のパラメータを可変とし、そのパラメータが資本(および労働)の毎年のシェアと一致すると仮定した。

2005年9月6日掲載

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