特恵的貿易取極による無差別原則の浸食-サザランドレポートの警鐘-

上野 麻子
コンサルティングフェロー

世界貿易機関(WTO)は、本年1月にWTOのあり方に関する諮問委員会の報告書「WTOの将来(The Future of the WTO)」[PDF:484KB](いわゆるサザランドレポート)を発表した。本編では、その中での地域貿易協定などの特恵的貿易取極に関して懸念を表明している点に注目したい。
WTOの発表によると、WTOに通報された世界の地域貿易協定(自由貿易協定、サービス協定、関税同盟の総称)は現在200件を超え、更に約30件が発効待ち、約60件が交渉・検討中となっている。世界的に地域貿易協定への動きが加速化している中で、WTOが地域貿易協定を含む特恵的貿易取極に対する懸念を表明したのは何故か、その背景を探ってみたい。

最「低」国待遇-無差別原則の浸食-

無差別原則は、WTO加盟国は全てのWTO加盟国の産品を同等に扱うという原則のことであり、WTO体制の根幹をなす原則である。物品貿易についてはGATT第1条の最恵国待遇として規定化され、WTO加盟国は輸入関税等について、ある加盟国の産品に与える利益・特典・特権免除を他の全ての加盟国の同種の産品に対して、即時かつ無条件に与えなければならないとされている。たとえば、日本が米国向けにある産品の関税を下げた場合、EU等の他の加盟国に対しても関税を同様に下げなければならないということになる。このような原則が導入された背景は、世界経済のブロック化による関税の差別的適用が世界大戦を引き起こす要因となったという反省にたったものであるとされる。

一方で、地域貿易協定は、当該協定の加盟国に対してのみ関税を削減・撤廃するという差別化を行うため、WTOにおける無差別原則の例外となる(先進国が途上国に対して、一方的に関税を削減する一般特恵も同様に無差別原則の例外となる。このため報告書においては一般特恵も含む概念として特恵的貿易取極という用語を使用している)。報告書は、特恵的貿易取極が複雑に絡み合う「スパゲティボール」現象のなかで、最恵国待遇はもはや事実上WTOの原則ではなく、「最恵国(さいいこく)待遇(most-favored-nation)」から「最低国(さいいこく)待遇(least-favored-nation)」になってしまったと指摘する。一例として、EUは、最恵国待遇に基づく関税率を日本を含む9カ国にしか適用しておらず、その他の国に対しては、一般特恵や自由貿易協定に基づく特恵を適用しているという事実を挙げ、最恵国待遇に基づく関税率が、事実上一番条件の悪い関税率となっていることを揶揄している。

地域貿易協定のGATT整合性について

報告書は、地域貿易協定の利点として、意欲ある国々によるより広範囲で積極的な取り組みが、WTO加盟国全体に広がる効果や政治的・外交的意義を認めつつも、同時にその問題点を指摘している。第1に、地域貿易協定が最恵国待遇の例外として認められる要件が、地域貿易協定締結の歯止めとして機能していないことを挙げる。

地域貿易協定は、WTOの専門委員会である地域貿易協定委員会(CRTA)においてコンセンサス方式で審査が行われる。先進国が物品貿易にかかる地域貿易協定を締結する場合、GATT24条に基づき、関税その他の制限的通商規則を「実質上全ての貿易」について原則10年以内に廃止し、また域外国に対して関税その他の貿易障壁を高めてはならないとされている。しかしながら、「実質上全ての貿易」の定義は明文上明らかではないため、各国によって「実質上全ての貿易」の理解は異なるのが実情である。たとえば、EUは、地域貿易協定のWTO整合性については、地域貿易協定委員会の審査結果または紛争処理パネルの結果のみによって判定されるとしつつも、「実質上全ての貿易」とは、質的および量的側面を持ち、主要なセクターを除外することなく、締約国間の貿易額の90%を対象とすることを意味するという見解を示したことがある。「実質上全ての貿易」の定義については、地域貿易協定委員会において現在議論が行われているところである。また、これまでの地域貿易委員会における協定の審査を見ると、大きな論点であるGATT整合性をめぐって整合的であると主張する地域貿易協定の加盟国と非整合的であるとする非加盟国が対立し、審査報告書ではこの点について両論併記にとどまる場合がほとんどである。このため、地域貿易委員会においてGATT整合的であるとして了承のお墨付きがつくケースはほとんどなく、ほとんどの場合、GATT整合性については玉虫色のまま、協定の運用が続けられている。

一方で、ASEAN自由貿易地域(AFTA)、中国ASEAN自由貿易協定等の途上国間の地域貿易協定は、授権条項によって、関税および非関税措置の相互削減又は相互撤廃と規律されるのみで、GATT24条のような「実質上全ての貿易」、原則10年以内の関税撤廃といった要件は課されていない。また、審査に関する規律も不明確であり、現在は、WTO貿易および開発に関する委員会に報告されるに留まっている。特に、途上国間の地域貿易協定においては、アーリーハーベスト(early harvest)が問題視されている。これは全体の品目について関税撤廃の方法・期限を定める前に、特定の品目について自由化を行うものである。中国ASEAN自由貿易協定においては、特定農産物について2004年1月からアーリーハーベストを実施し、鉱工業品の関税については現在も交渉を続けている。このような考え方は、関税撤廃が容易な分野においてのみ選択的に関税撤廃を行うもので、地域貿易協定に歯止めをかけるGATT24条の趣旨と相容れないものであり、その濫用が懸念される。

地域貿易協定の経済学的問題点について

報告書は経済学的見地からも特恵的貿易取極に対する疑問を呈している。これまでの国際経済学においては、ひとつの特恵的貿易取極だけが存在している状況を仮定し、貿易創造効果と貿易転換効果の両面から、経済厚生について分析が行われてきた。これに対し、報告書は、第1の問題点として、特恵的貿易取極が多層的となることで、異なる特恵が、異なる相手国に対し、異なるタイムフレームで適用されるため、関税に関する運用が複雑となり、原産地規則も複雑かつ非整合的となる点を指摘する。第2の問題点として、報告書は、特恵的貿易取極への参加が更なる自由化を促進する側面を否定はしないものの、規律なく浸透していく特恵的貿易取極が、多角的貿易交渉における意義ある自由化を阻害する傾向を指摘する。現実に、ドーハラウンドの交渉において、既に特恵的貿易取極や一般特恵を享受している途上国が、特恵マージン(最恵国待遇に基づく関税率と特恵関税率の差)の減少を懸念して、最恵国待遇に基づく関税率の引き下げに対して消極的である点を挙げる。また、特に途上国の場合、交渉のための人的その他資源が特恵的貿易取極に投入されることにより、多角的貿易交渉がおろそかにされる危険性を指摘する。

確かに、日メキシコ経済連携協定を例にすると、当該協定における原産地規則は、一般特恵の原産地規則とも、日シンガポール経済連携協定の原産地規則とも異なる。また同じ品目でもメキシコに対してとシンガポールに対してでは譲許内容が異なる。このため、輸入者はそれぞれの協定の中身および現行の関税の仕組みついて熟知する必要があり、税関もこれらの仕組みに対応することが要求される。また、原産地証明書を発給するコストや相手国が発給した証明書について確認するコストも生じる。報道によれば、本年1月、台湾のWTO大使が、MFN関税率とFTAの関税率の差が5%以内であれば、原産地証明の厳格な執行により貿易転換効果が相殺されると発言しており、興味深い。

無差別原則への回帰なるか

報告書は、各国政府は、新しい特恵的貿易取極を開始する前に、多角的貿易体制を損なうリスクについてよく考慮する必要があり、他の国々への追随といった理由によるこのような取組は自制すべきと提言する。そして、既存の特恵的取極の廃止、または、新しい特恵的取極の禁止ができないなら、「スパゲティボール」に対する長期的な対処方法としては、多角的な貿易交渉においてMFN関税率および非関税措置を効果的に削減し、特に先進国の全ての関税を一定期日までに撤廃することを真剣に検討すべきとし、その他の方策としては、GATT24条の明確化と運用方法の改善を提言する。

報告書は、他の国々への追随を自制すべきと提言するが、これは現実的には非常に難しいといえる。何故なら、ある国が地域貿易協定を結べば、それに伴う不利益を解消するために他の国も同様の特恵を求めて追随するという連鎖反応が生じるからである。一方で、地域貿易協定の締結は必ずしも容易でなく、米州自由貿易地域(FTAA)やEUメルコスール間の交渉のように交渉が長期化しているケースも多い。途上国の場合は地域貿易協定から取り残される国も多いだろう。このような状況から、先進国、途上国ともに、WTOドーハラウンドの重要性を再認識しつつあるのではないだろうか。

日本は、シンガポール、メキシコに続き、フィリピンとの経済連携協定について大筋合意に達し、現在も韓国、タイ、マレーシアと交渉を続けている。昨年12月に「今後の経済連携協定の推進についての基本指針」がだされ、その中において、「EPA交渉の推進にあたっては、我が国のWTOにおける交渉に資するものとなるよう努める」とされている。今後日本が経済連携交渉を推進するにあたっては、本指針を踏まえ、かつ報告書が示した地域貿易協定に対する懸念に配慮しつつ交渉を進めるとともに、WTOドーハラウンドの成功に向け力を注ぐ必要があるだろう。本年12月に予定されているWTO香港閣僚会議の成否は、多角的貿易体制および地域貿易協定の今後を占う試金石になるだろう。

2005年3月2日

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2005年3月2日掲載